(8)判断の経験的下部構造

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(8)判断の経験的下部構造

 人間の生活では<判断の為の判断>というのは在りません。判断は人間機能の一部であって、判断と行動とは裏表になっております。一番最初に判断をしてそれから行動する。行動の中で判断と違った流れが出て来たら、更にもう一回判断をする。判断が済んだら行動が始まり・行動が終わったら又新しい判断が出て来る・という風に、人生は判断と行動との繰返しみたいなものです。

 判断と行動とは相依で、鳥の両翼の様な関係になっております。それでどちらが先でどちらが後か・と言うと、鶏と卵と同じ事で、どちらが先・とも言えません。世俗の学問としての判断論は、私、幾ら考えても結論は出ないのです。輪郭はぼんやり判るのですが……。

 今度はこれを科学的に拡げて、では人間の判断というものが、虚妄であろうと真実であろうと、とにかく如何にして成立って来るか・と考えると、これは丸きり天空を眺めている様なものできりが有りません。

 その輪郭と言いますと……。

 論理学は言ってみれば判断論ですから、この面で叙述判断の真偽判定は随分発達しております。心理学的にも今世紀に急速に開拓されて来た事は認められます。哲学でも昔から重要な課題であったし、それなりに追及されて問題分野は広く明らかにされた事は認めて良好・と思います。

 だが果たしてそれで良好でしょうか。判断については<実生活の経験分野>にもっと目を向けるべきでしょう。そこでは判断の下部構造が息き吐いていませんか。そこでは簡単に真か偽かには分けられない様相論理的な分野が渦巻いています。

 私達は氷というものは水から出来る・と思っています。水を冷凍庫へ入れて置けば氷になりますから、それで何の不思議も感じません。・ところがエスキモーは水は氷から出来るものだ・と思っているそうです。

 確かに彼等の世界は海水以外は水など在りません。氷だらけで、火で暖めて氷を融かさないと水は出来ませんから……。おまけに彼等では、地獄は天上に在って極楽は地上に在るそうです。我々とは逆になっています。

 だから、置かれている国土の状況によって、判断を下して行く方向が逆転して来ています。社会的に見てもそうではないですか。昔の人は社会の経済活動は農業が本である・と思っていました。蒙古では牧畜が本でした。今の私達だとそうではなくて・工業が本だ・と思っています。

 大昔の農耕母系社会では女尊男卑だったが、牧畜社会では男尊女卑です。今の日本は建前では平等とは言うが実情はどうですか。こうしてみると、判断がどういう風に出来てくるかは、置かれた状況次第だ・という面が有ります。

 子供を連れて歩くと・つまらない水菓子などを買って呉れとせがみます。各年代の差によっても、あれこれ欲しがる判断は違いますし、男と女とでは一つの出来事に対しても判断が決して同じではありません。

 私自身の事を言ってみると、どんなに立派な磁器を見ても欲しいとは思いません。同じ値段で並んでいたらどちらを取るか・といえば、私は陶器を取る。こういう判断になってしまうのです。世の中には反対に、陶器には目も呉れずに、奇麗に書き上げて焼いた磁器の方を好む人も居ます。

 これはセンスというか感情というか、その面から判断が生まれて来ている例です。それから智情意の内の智の在り方・意志の強弱・個人の癖や遺伝や年の所以(せい)でも判断は違って来ます。蛇嫌い・犬好き・といった半本能的な判断・というのも在ります。

 エスキモーの様に肉ばかり食べる人も居ますし、ヴェジタリアンといって菜食オンリーの人も居ます。これも又・本能的な判断の差でもあるし、これは又・歴史的・社会的に構成され継承された習慣の相違でもあります。育ち方にもよります。

 以上の様に、判断というものは、本能からも習慣からも環境からも生まれ、知性からも感情からも意志からも生まれます。それから生理的な関係も有って、生まれ付きの気質として・分裂型・躁鬱型・粘着型・などの型で判断が非道く違う。更には身体の調子の良い時悪い時……と全くきりが有りません。非常にバラエティに富んでいます。

 判断というものは、論理的な面とか・思想・哲学的な面とか、そういう一つの窓口だけで出来ているものではありませんね。

 広大無辺な条件が絡み合って判断が生まれる。とにかくこの判断論というのは大事業で、開拓したら三世代も四世代も・或いはそれ以上も掛かるのではないか・という気がします。厖大で困難な仕事で・迚も一人二人で出来る事ではありますまい。

 余りにも複雑で厖大な世界ですから、一部の哲学や論理学以外の分野には、どの学者も今迄手が着かなかったのではないか・と思います。これは一般論では論じられない問題になりそうです。

 ですからまず最初に、判断というものはどういう条件で出来て来るか・という事を考えるべきでしょう。少くともまず大雑把に分類をして、本能の面・知性の面・感覚の面・自分の地位・年齢・それから歴史的な社会構造の中での習慣的な面からはこうだ・と、大雑把な柱を立てて徐々に追及して行って、最後にそれを纏める……。

 こういう方向で行ったら開拓は相当出来るのではないか・と思います。学者は多いのですから……。唯・今迄・判断と言うと、何か・哲学だけの問題の様な、論理だけの問題の様な、そんな感じでしょう。浮上がっています。判断は智法なのにポケています。