創価学会(公明党)は内外一致の外道宗教、故に神道と親和しこの国を戦争に導く

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内外一致の創価学会
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現代に復活した六師外道の法門
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● 六師外道の法門
 日蓮大聖人様の御法門は、五重の相対のうち、『権実』『本迹』『種脱』の三相対によって成立しています。このうち、権実・本迹は天台大師からの引継ぎであり、『種脱相対』が宗祖独自の御法門であります。『内外』『大小』については、御書にはただ名目だけが史実と共に示されて、その論証的内実は示されてはおりません。というのは、外道義の問題は、はるか昔の正法時代に既に解決されており、もう末法の問題ではなくなっていたからです。時期不相応な問題だったのです。


 この外道義はインドにあって、1800年前の正法時代までに釈尊と竜樹の手によって『内外相対論』として完全に破折尽くされ解決しておりました。その後、この外道義は姿を変えて法相宗の中に、法相義の中に忍び込んで復活し漢土に出現したとはいえ、我が国に渡来するや伝教大師によって完膚無きまでに破られ追放されました。即ち権実論争「天台宗伝教大師vs法相宗徳一法師」がこれであり「法華秀句」で完結を見ました。そしてこれらは末法以前の像法時代の事でありました。


● 文明開化の波に乗って
 ところが歴史は思いがけない転回を示しました。なんと『六師外道の法門』が現代に復活しているのです。というのは、明治時代に文明開化の波に乗って、西欧から『六師法門』そのままのギリシャ哲学…両者の骨格は全く同じ…が日本へ移入され、行き渡った学校教育を通じて日本人の頭の中へ、知らず知らずのうちに染み込んでいたのです。我々信仰信徒の頭の中へも、もちろん染み込んでしまっております。私達はこの一大事態に果たして正しく気付いていたでしょうか。気付いて用心してきたでしょうか。残念な事に、そして悲しい事に答えは「ノー」です。多くの人々が、『ギリシャ哲学』つまり装いを変えた六師外道の思想のまま、信仰を続けております。

つまり、内正外邪・内勝外劣なのに、驚いた事に『内外一致』の信心をしているのです。法門の解釈も、『内外一致の解釈』をして平然としているのです。講義・講演みなしかりです。口先では「外道は正しく因果を説かないから駄目だ」と言いながら、妙法の観心・文底まで全部を六師義で解釈して平然としているのです。『種外一致』なのです。『本迹一致』どころの騒ぎではありません。『外道法と文底下種法門とが一致する妙法』など、御書全編いったいどこに一言半句でもあるものでしょうか。断じて無い事であります。我々は、この装いを変え現代に復活した『六師外道の法門』を、仏法の眼で鋭く見抜き、破折していかねばなりません。その為にも先ずはこの六師義の正体から捉えていきたいと思います。


● 科学と仏法の違い
科学においては、誰が見ても同じとか、ニュートンが発見した、「引力の法則」のように、誰がやっても同じ結果になるとか、事実に基づく客観性が基準となっていますが、仏法においては、客観性を基準に説かれておりません。

人間、口を開けば人それぞれ千差万別に語りだしますが、関西弁あり、博多弁あり、東北弁ありで、コンピューターでは無い限り、誰一人として全く同じようには話しません。しかし、人が口と脳を使って話しているということに於いては、皆共通しています。その部分に於いては、科学や医学で追及解明は出来ますが、一人一人が話している話しの内容にまで及んでは、科学でも医学でも追求することは不可能です。なぜならば、一人一人の話しの内容は、その人その人が、体験経験してきたことによって成り立っている訳でして、そのひと個人のものの見方考え方であり、客観では無く、正に主観だからです。

仏法はこの客観的には捉えることの出来ない、主観的部分を「自分から見た世界」「私にとっての人生」のように、個々人に起こりえる一切出来事を体験世界として説き明かしているのです。ですから仏法と科学とでは、体験世界と客観世界の根本的相違が大前提としてあるということです。アプローチの角度が全く正反対な訳ですから、仏法と科学は、決して同じ次元では語れません。仏法を科学と乱立して語っている人がいたとしたら、そこで語っているのは、仏法では無く単なる俗諦でしょう。科学や哲学をあたかも仏法のごとく語っているに過ぎません。「南無妙法蓮華経とは宇宙の法則だ」とか言ってる人がおりますが、宇宙にその様な法則が存在するのであれば、「引力の法則」と同様に、それは科学の法則です。まして、具体的に何を指して「宇宙の法則」などといっているのでしょう。


● 哲学と仏法の違い
哲学では因果律や推理推論でもって、ものごとの実体・本質を捉えていきます(存在法)。この因果律とは、「こうすればああなる」のような客観法です。推理推論とは「こうすればああなるであろう」「ああなるに違いない」とでもいいましょうか。因果律など仏法と非常に似通ったアプローチを掛けてきますが、それでも明らかに違います。仏法でいう因果律は、行業因果・修行因果であってこれらは、客観法では無く実存法です。
実体有り本質有りという「有我・有自性」の哲学思想に対し、仏法では、「無我・無自性」を説き、縁起によって仮在しているにすぎないと説いています。客観法、存在法は、人生苦のなんら解決にならないとして否定し、『己心の法』としての『縁起の法門』を説いています。
『涅槃経』に、
「是の諸の悪人……如来の深密の要義(正法正理の正義)を滅除して世間の荘厳の文飾(哲学や科学などの俗諦)無義の語(二者択一の論理とか推理推論)を安置す……これ魔の伴侶なり」
と示されているとおり、仏法はあくまで「実存」説なのです。

にも拘らず、仏法を哲学や科学と乱立して説く人がいるのはどうしたことでしょう。また、それをおかしいと気づかない人があまりにも多いのは何故でしょう。


● 六師義を弘める人物
 ギリシャ哲学という全く新しい装いにせよ、六師義はどう言い繕っても六師義です。では、いったいどういう人が内外一致の六師義を弘めるのでしょうか。仏法を形の上では奉じて、指導者の側に身を置いて、仏と均しいかの如くに見せ掛けて、この破法を行ずるのであります。一例は、法然・弘法等の如く。
 釈尊は、六師は仏滅後の将来にまた出てくると予言を残しておられます。
「当来の世・仮りに袈裟を被て我が法の中に於いて出家学道し懶惰懈怠にして此等の方等契経(大乗経)を誹謗すること有らん、当に知るべし此等は皆是れ今日(仏在世の意)の諸の異道の輩(六師達)なり」
と。ですから六師の徒輩は
「(法然・大日・等は)六師が末流の仏教の中に出来せるなるべし」 (佐渡御書
と宗祖御在世にも出て参りましたし。それから七百年後の昭和・平成の只今へ出てきても一向に不思議とは申せません。とにかく、形を変え姿を変えて六師思想の薫習種子(過去世の因業)の重い者が、またまた後の世つまり今へ生まれ出ては『同じ思想』を『同じ行動』で弘めるのです。この様に、仏出世以後の六師思想〔実体論〕というものは『仏法への敵対論』なのです。

 こういう人は「若し智慧(法智・仏智)無きは増上慢を起し己れ仏に均と謂」っています。智慧が無いというのは、法智・仏智が無いのでして、おおむね才知は周り、世知や機略に長けて、人の上に立って弁説爽やかなのです。そうでなければ「世間の無義の語を安置」する事さえも出来ないのです。「世間の荘厳の文飾」を施す…(わかりやすい現代的解釈などというのがこれ)…事は出来ないのです。法然・弘法等がそうだったではありませんか。今でも道理は同じです。妙法の世界においてさえも無明覆障の才人がこれをするのです。ですから獅子身中の虫なのです。


● 六師義と釈迦仏法の違い
自分及び万物に「我・実体有り」という見を『我見』といいます。この『我・我見・自性・自性見』こそ六師思想の骨格でした。この実体論こそが『仏法への敵対論』の中身です。『我』は『常一(常住・独一)主宰』ということで、万物には…特に『自分には、自らを主宰している自己同一な本体が常に具わっている』という事です。実体の事です。この我の性質を自性と言い、『自性』を今の言葉では『本質』と言います。実体の性質が本質です。つまりギリシャ哲学が主張する『実体・本質』が、六師の『我・自性』そのものなのです。

 我々は、そして万物万事・万象万法は、すべて宇宙の雄大なる階層構造の中へ組込まれ……歴史的にも空間的にも『組み込まれ・他へ依存し且つ依存され』て存立しているだけで、決して『個在・独存』していないのです。
人間は、両親の元に生を受け、今日に至るまでの育った環境、人生経験があったればこそ、現在の人格、人間性がある訳でして、出産時にもし病院側の不祥事で親をはき違えるような出来事があって、別の両親に育てられていたとしたら、全く別人が存在しているでしょう。これは人間が、その人を取り巻く世界に絶えず影響され、形成されているということであり、個人が、決して独立して存在しえる存在では無いということです。人間は社会へ『依存』しないと生存不可能です。
実体有り本質有り・という・有我・有自性・の哲学思想は、言葉は皆・個々・個別に言い立てられ用いられる事からきた単なる『言葉に由る騙され』でしかないのです。この『個在・有我・有自性』という客観の六師思想を破して、釈尊は実存の『相依相対の縁起・無我・無自性』を説き、因縁仮和合の縁起仮有に基いて・空と中・という論法上の反省判断を説き、『仮有→空→中』の三諦の悟りを人々に教えたのです。
 ですから、内外相対とはどういう事か、釈尊と六師はどこがどう違うのかと言えば、

六師は……万象万法には『実体=我、本質=自性』が存在するものと考えていた。実体存在であるブラフマン(最高梵・梵天)が、自ら変化して宇宙になり、宇宙から生じた万物の一つとしての、人間・個人には必ず『我』が具わっていて、結局『梵我一如』(人間は宇宙と一体で小宇宙であるという思想)であると考えていた。

釈尊は……何よりも『(客観)宇宙論は人生苦の解決法(解脱法)ではない』と悟った。しかも、宇宙・世界は己心法界の『境法の素材』でしかなく『物の集り』ではないと悟り、『事件の集り』出来事の集りで、しかも各個人一人一人にとっての、宇宙・世界であるから業因諸縁が寄り合って(縁起)そこに一つの『佇まい』として組み上げられた形として仮存している(空仮中の仮という事)という、『己心の法』としての『縁起の法門』を説いた。
        
 以上の違いが『内勝外劣』(仏法勝六師法劣)という事です。それなのに現代を見渡しますとどうでしょう。教育の普及で世界中が圧倒的に『客観主義者・存在論信奉者』ばかりです。これは、六師外道法の人達ばかりという事です。これ六師法の全世界広宣流布です。我が国でも明治20年に義務教育と学制を施行してから百余年、親子四代にわたって客観思想と存在論思考とで全国民が洗脳されてまいりました。哲学や科学などの俗諦諸学はそうしたものですから、これはこれでよろしい事ではありますが、このために解脱法であるべき真諦(非客観主義非存在論な正法)の会得が出来なくなり、我々信仰信者さえも六師義の頭になってしまいました。外国や日本はもちろん、創価学会までも六師外道に制圧され広宣流布されていたのです。これは『極めて深刻な重大事態』です。


● 六師外道に侵された創価学会の妙法観

では、創価学会の教義がどのように外道義なのかと申しますと、池田氏は「南無妙法蓮華経とは宇宙の法則」と語っております。具体的には、

本来、全宇宙が諸法実相であり、御本尊なのです。本来、我が生命も諸法実相であり、御本尊なのです。ゆえに御本尊を拝する時、宇宙と我が生命がダイナミックに交流しつつ、自身の本来の『実相』すなわち南無妙法蓮華経の当体としての姿に輝いていくのです。   (聖教新聞H7・8・2)
妙法こそ、大宇宙を貫く根源の法であり、いかに疑おうとしても疑えず、いかに否定しようとも、否定しえない根本中の根本の法則である。  (第7回未来会総会 S62・6・27)
等々語っております。池田氏の基本的な妙法観・本尊観をまとめると、以下のようになります。
大宇宙の一切の運行や現象を引き起こし、変化させ、更にあらゆる生命の働きを生じさせる根本の法則がある。それが妙法であり、その根本法則を日蓮大聖人が、具現化し一幅の『曼荼羅』に顕したのが御本尊である。この御本尊に帰命することにより、大宇宙のリズムと合致して、幸せになっていく。

ここである人物の著書から一文を紹介させて頂きます。

天地万物のあらゆる変化の元にある無数の法則の、そのまた根底に唯一の宇宙法則が存在します。この法則は天地万物の根本究極の完全性を支えます。
天地万物の維持と進化は、直接には各種の法則によって行われますが、これら全ての根本は、全宇宙の基盤である『存在』のレベルにある宇宙の法則であります。
この内容は、上でまとめた池田氏の妙法観とかなり似通っています。文中の『存在』を池田氏の説く『妙法』と置き換えれば、そのまま創価学会教学としても通用することでしょう。ちなみにこれは、インドのヒンズー教の流れを汲む宗教家マハリシ氏の著書、『超域瞑想入門』から引用したものです。
インドのヒンズー教は、バラモン思想の『ウパニシャッド』に説かれる教義哲理が宗要となっており、その内容を要約すると、次のようなものです。

宇宙にはその全体を貫く根本原理があり、それはブラフマン(梵)と呼ばれる。それには我々の本質であるアートマン(我)と等しいものであり、ブラフマンアートマンが一体となった境地が、最高の覚りである。(梵我一如)

お解かりでしょうか? 

池田氏の説く「宇宙即我」「我即宇宙」は、釈迦が空諦を説いて『我見』を破折し、外道義として徹底的に打ち砕かれたバラモン経の『梵我一如』そのものであることが。池田流の『梵』ともいうべき、『宇宙のリズム』なる珍妙な外道が発生するとは、仏様もさぞや呆れ返っていらっしゃることでしょう。


池田氏と西洋外道の土壌で育った学者・知識人達との話しが噛み合い、破折するでもなく共鳴・賛同している姿は、氏の妙法観が極めて外道義に近いこと、あるいは外道義そのものであることの証です。
トインビー博士は常に、「宇宙の背後にある究極の精神的な実在」について語られていた。(中略)トインビー博士は私(※池田大作)との対談の一つの結論として、この精神的実在は人格神のようなものではなく、宇宙に遍満する『法』であると考えられるとされた。ワーズワースが歌い、トインビー博士が求められた究極の『法』は、『妙法』であると私どもは信ずる。

トインビー博士は私との対談の一つの結論として、この精神的実在は人格神のようなものではなく、宇宙に遍満する『法』であると考えられるとされた。  (聖教新聞 H6・6・12)

そもそも仏法(仏)の智慧と科学(衆生)の知識を同次元(レベル)に並列させて論じようという姿勢自体が、催尊入卑(さいそんにゅうひ)の大謗法であると言えます。
氏が妙法の説明に多用する「大宇宙を貫く根源の法」・「大宇宙のリズム」という概念は、基本的には池田氏のオリジナルと思われます。「宇宙と我が生命がダイナミックに交流し」などと宇宙との境地妙合を説いていますが、これも日蓮正宗の教義とは全くかけ離れた珍説です。少なくとも日蓮正宗歴代上人はこのような御指南をされていません。いわゆる『学会教学』の典型と考えて差し支えないでしょう。


それでは南無妙法蓮華経とはいかなるものでしょうか。
無作の三身とは、末法法華経の行者なり。無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり。 (御義口伝)
とあるように、南無妙法蓮華経は無作三身の宝号であり、法身・報身・応身の仏の三身を備えられた日蓮大聖人(末法法華経の行者)の一身当体であります。また、第二十六世・日寛上人が、
「亦復(またまた)当に知るべし、若し草木成仏の両義を暁むれば、則ち今安置し奉る処の御本尊の全体、本有無作の一念三千の生身の御仏なり。謹んで文字及び木画と謂うこと勿れ云云」                              (観心本尊抄文段)

と仰せのごとく、御本尊は「生身の御本仏・日蓮大聖人様の御当体」なのであります。
したがって、「大宇宙のリズム」などと称して仏身を無視・軽視し、妙法をあたかも一種の『物理法則』のように考える、池田氏の妙法観は全くの邪義です。日蓮大聖人を法則の第一発見者、あるいは御本尊の発明(具現)者ぐらいにしか見ておりません。だから御本仏日蓮大聖人を『大聖哲』などとと称して、平気で哲学者のレベルに位置づけ、しかも西洋外道との迎合を図るのです。


池田氏の本尊観

外道義で妙法を解釈している池田氏ですから、本尊観も完全に逸脱しております。

宇宙のことごとくの運行、現象を引き起こす根源の力として、妙法がある。その妙法という法を、一幅の御本尊として御図顕あそばされたのが、日蓮大聖人である。  (パナマ信心懇談会)
このように池田氏の本尊観のポイントは、『宇宙の根源法たる妙法』を日蓮大聖人が御図顕されたものが本尊(曼荼羅)である、と捉えることです。まるで西洋占星術の魔法陣(記号)のような解釈です。次の文章は更に特徴的です。
日蓮正宗の御本尊のなかには、宇宙に実在するものすべてが、図顕されているのです。・・・外なる宇宙に実在する生命、天体の運行、調和を図る存在の代表として、大日天、大月天、大明星天等々が、同じく図顕されています。  (仏法と宇宙を語る 1-56)

ちなみに、このような解釈も池田氏のオリジナルであって、日蓮正宗の歴代御法主上人の御指南は勿論のこと、牧口・戸田創価学会両会長の指導にもみられません。そもそも『宇宙の根源法』という考え方が、池田氏のオリジナルなのですから、それも当然のことでしょう。

 

それでは、日蓮大聖人様は、あるいは御歴代の御正師は、御本尊についてどのように御指南遊ばされているのでしょうか。

日蓮がたましひを、墨にそめながして書きて候ぞ、信じさせ給へ。仏の御心は法華経なり。日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし。  (経王殿御返事)
『宇宙に遍満する法』を墨に染め流したなどとは、御書のどこにも述べられておりません。ここでは『日蓮がたましひ(魂)』と仰せです。また『御本尊七箇相承』には、次のような御相伝があります。
明星の池を見給へとの玉へば、即ち彼の池を見るに不思議なり。日蓮が影、今の大曼荼羅なり。 (富士宗学要集1-32)
南無妙法蓮華経は御本仏日蓮大聖人様の仏身にのみ具わり、それ以外の何処(いずこ)にも存在致しません。池田氏は「日蓮正宗の御本尊のなかには、宇宙に実在するものすべてが、図顕されているのです」などと勘違いしていますが、全くどうしようもない外道義です。氏はそう信じ込んでいるのでしょうが、宇宙の図を拝んでみたところで何で功徳があるというのでしょうか。大石寺56世日応上人は、次のように御指南されています。
本尊中央の妙法の五字は宗祖己心の妙法にして、十界列座の聖衆は即ち宗祖己心所具の十界なること、日を見るよりも明らかなり。  (弁惑観心抄P23)
誠に畏れ多いことではありますが、御本尊様の十界互具の御相貌(そうみょう)について申しますと、文上脱益の寿量品の儀式(教相の本尊)の姿を借りてはおりますが、それはあくまで久遠元初自受用の御相貌を顕す為の迹であります。故に『御義口伝』に、
本尊とは法華経の行者の一身の当体なり。 
と説かれているのです。即ち御本仏日蓮大聖人様の仏身は、そのまま『人の本尊』であり、しかも人・法の本尊は一体不二の関係にあります。ですから御本尊様の御相貌は自受用報身如来の御境涯、つまり日蓮大聖人様の御命に具わる十界の生命を、御図顕遊ばされたものと拝するべきです。
問う、妙法五字のその体何物ぞや。謂く、一念三千の本尊これなり。一念三千の本尊、その体何物ぞや。謂く、蓮祖聖人これなり。  (観心本尊抄文段)

本来、全宇宙が諸法実相であり、御本尊なのです。本来、我が生命も諸法実相であり、御本尊なのです。ゆえに御本尊を拝する時、宇宙と我が生命がダイナミックに交流しつつ、自身の本来の『実相』すなわち南無妙法蓮華経の当体としての姿に輝いていくのです。      (聖教新聞H7・8・2)
久遠本有の妙法蓮華経は大聖人の具し玉ふところであります。大聖人はその御境涯を観心の本尊として建立し玉ふたのであります。くれぐれも此の報身を離れた妙法を以て御本尊と考へてはならないのであります。    (日淳上人全集P981)
ここまでくると池田大作創価学会教学と、日蓮正宗に伝わる日蓮大聖人様の御法門とは、似ても似つかない、全く異質のものであることが御判りでしょう。


● 外道義で説くから三諦論も珍説に・・・
 以下に紹介する池田氏の三諦論は、認識論と言いながら認識論ではなくて存在論に成っています。仏法の三諦論は、修行者の己心の迷妄作用についての話であり、業因諸縁にもとづく実存法としての反省自覚論(単なる倫理上の反省行為ではない)であって、認識論ではないのに認識論だと思っています。しかも客観法としての単なる存在論を述べただけで認識論にもなっておらず、存在を認識して説くのは存在論であり、この『存在を認識した』認識がどの様にして正当に成立したのかを説くのが認識論であるが、両者の区別さえ弁えておらず、完全に混同していて、結局、万事滅茶苦茶、何も解っていない迷妄の極みの珍説になっています。


◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
(以下・全文を引用するのは長過ぎるので略引とする)
仏法の認識論……三諦について……
[本文](※赤字は全て間違い)
……、ことごとく、哲学とは、対象そのもの、そしてその奥にある実体・本質・への解明にあったといっても過言ではありません。つまり哲学の命題は、真の実在とは何かという問いかけに出発しているのです。…、仏法では、三千年前、法華経において、それをもとにした千五百年前の天台の哲理において、いとも簡明に、この問題を解き明かしております。これが三諦論なのです
 三諦とは、空諦、仮諦、中諦の三つをいいますが、……・宇宙の森羅万象の実相(真実の姿、実在)は、この三つの立場から、誤りなく明らかに把握することができるということです。つまり、三諦とは、仏法に説かれた認識論であるということができます。
    [破折]
対象の奥には実体も本質もありません。「実体・本質あり」とするのは外道の教えです。三諦は、宇宙の万象を相手取った命題では無く、相手取ったものは我れの作用中の只今の一念の迷妄作用そのものであって、論法反省自覚論という自覚論。けっして認識論などではありません。認識論として非有非無=空 ・ 非有非空=中 は排中立違反で成立しませんし成立できない『空・仮・中』を説いた認識論など有得ません。

 三諦をそれぞれ説明しますと、まず仮諦とは、万法(一切の現象)を物質面、現象の変化の面からみていくことです。万法は、ことごとくおのおの仮に、因縁により和合している(仮和合)と認識するのが仮諦です。仮とは一般の”仮象”という意味ではなく、いわば、存在変化の面、生成、発展の面をいうのです。
……以下本文中略……
    [破折]
この万法は己心変化の一切万法であって、万物に共通する一般現象の話ではありません。修行者の己心の迷妄作用についての話であり、物質面など登場してくる訳が無く、完全に客観現象だと思い込んで話を展開しております。存在の変化面……などではなく、当事者が当面した依報・正報にわたる実存境知二法のそれが生滅法(生じては必ず滅する法)である事と、更にそれが九界のいずれであるかとを論じて『仮』と言っているのである。

[本文]
 空諦とは、万法の性分をみる事です。性分とは、性質、知恵、感情等を指します。空とは、有ると言えば無く、無いと言えば有ると言う、有無の概念を超えた存在であり、物質的にとらえることはできないが、状態としては厳として認めざるをえない実体です。…、しかし、絶対に無くなったのではなく、また縁にふれて現れてくる。このような存在を空といいます。

    [破折]
空は存在などではありません。『空ずる』と動詞に用いる事が空は存在ではない事を示しております。空=非有非無は、有無と同じく当事者の反省判断であって、物の状態などではなく、縁起仮存の佇まいだから空に成れるのであって、仮有に実体が無いのに空が実体を持つ訳がありません。実体空では中道に転化出来ないし円融も出来ません。一切法皆是無実体・「空も亦復空なり」で、空の実体化は釈尊に厳禁されております。

中諦とは、統一された生命体としての存在それ自体を明らかにみることです。それを常住不変の実体とみます。

仮有に対して双遮・双照という二重の反省判断を行わないと中諦には成りません。常住不変は諸行無常にも不断不常にも反します。万法を常住不変の実体とは見ないからこそ中諦へ達し得るのであって、縁生法の中諦に実体など有得ません。常住不変は六師外道の『常見』《断見の裏返し》であり、空や中を実体化するのは六師外道見であります。

[本文]
たとえば、Aという人の肉体は仮和合で、新陳代謝を繰り返し、瞬間瞬間に変わっていきます。またAの心も瞬間瞬間に起こったり、笑ったりしています。しかし、この仮諦と空諦だけでは生命の真実の姿をとらえたとはいえず、更にそこに常住不変の生命を見る事が出来ます。

    [破折]
この例えは虚妄仮であり、仮諦と空諦ではありません。常住不変の生命などは有得ないし、不変というのが特に悪い。不変ではなくて不一不異・非如非異である。生死を通じてうつろい変わっていく中に、法性としての十界『変わらない十界法性』だけが保たれていくのであり、それは見る事は出来ず、ただ覚知するのみである。

[本文]
すなわち、幼年の時、壮年の時、老年の時にも、一貫して変わらないAという人格が存在します。このAをAたらしめている実在を「我」といい、この本質に目を開いていくことを中諦というのです。

    [破折]
人格は変わる。当人のアイデンティティ《自己同一》さえも変わります。一貫して変わらないのは、呼び名としてのAという呼称この《仮名》だけです。何らかの存在がAをAたらしめているのではなく、常ない無常の変化の相続だけがAをAたらしめているのです。「我」を説くのは六師外道だけであって釈尊は、「我」の存在を否定して「無我」を説きました。実体と本質は断見から生じたものであって、観察に関する虚偽と推理の関する虚偽と二重虚偽から生じた虚妄概念である。無い本質に目を開いていく事は不可能です。『論法反省判断』からでないと中諦は得られません。

 

● 一念三千の法門

 仏法は一念三千を説く。否、仏法の道理は一念三千に尽きる。その一念三千は十界互具に始まるが、結局、すべてが一念三千に帰結する。

仏法を科学・哲学思考の頭でとらえると、客観論・存在法に陥ってしまい、この大事な一念三千の法門の解釈自体をも狭めてしまいます。狭めてしまうどころか、本門戒壇の大御本尊様が何故に事の一念三千なのか、具体的な解釈に至らず、戒壇の大御本尊様を離れての一切衆生の成仏もあり得ないという一大事すら理解出来ないでしょう。

学会教学では、一念三千の法門を

五陰世間
自分という人間が存在する。(客観的に誰から見ても存在する)
衆生世間
自分を取り巻く人々が存在する。(客観的に誰が見ても民衆が存在する)
国土世間
自分が存在する環境国土が存在する。(客観的に誰が見ても地球が存在し、日本という国が存在し、九州という島が存在し、自分が生活する空間が存在する)

といった客観的視点から、人をとりまく三世界が誰が見ても存在すると解釈しております。ですから一念三千とは宇宙空間(三世間)を表した法門なんだと受け止め、南無妙法蓮華経が宇宙空間全てに遍満(存在)しているという解釈(妙法とは宇宙の法則)に展開しているのです。

釈尊はそういった客観論、存在法(科学的解釈)では、人々の苦悩を解決する解脱方には至らないとして、客観論、存在法を説く六師を外道の法門として徹底して破折しました。 学会では、「外道は三世の因果律を説いていないからだめだ」といっていながら、客観論・存在法で法義を解釈しているから、物事を実体・本質で捉えてしまい、外道義の「我有り」と全く同じになってしまっているのです。だから内外一致なのです。

内外相対とは、小乗教と外道との比較相対だと理解しても特に差し支えは無いでしょう。御書の中では大聖人様から「浅ましき小乗の法…」とまで呼ばれてしまう事もあるほどレベルの低い小乗教ですが、それでも外道の法と相対すれば、真実・仏様の実語です。

その小乗教での真理とはいったい何なのでしょう。釈尊は成道後、まず華厳経を説き衆生の機根を調べました。そして、その後十二年にわたり説いたのが阿含経、いわゆる小乗教です。釈尊が小乗教で説いた真理、それは「縁起」ということで「縁起」とは因縁生起の略、この世の中の一切の実相は、諸法が因縁により仮に和合して生起しているという意味なのです。一切は因縁により仮に和合して生起しているが故に、その奥に実体(我)も本質(自性)もない、これが「無我・無自性」ということです。

このことは日蓮正宗にのみ伝わる秘法というわけではなく、仏教一般の知識であって、仏教徒として当然心得ていなければならない基礎であります。釈尊の一代聖教も、大聖人様の三大秘法も、この「縁起」「無我」という、小乗教で説かれた真理を土台にして構築されており、この土台に乗らなければ大聖人様の三大秘法は成立致しません。

 大学生が難しい数学の公式を解くにあたっても、小学校で習った算数の足し算・掛け算が土台としてあるからこそ、正しい答えを導ける訳でして、かといって大学で算数を勉強する学生など一人もおりません。大聖人様の仏法における小乗教の否定もこれと同じなのです。「縁起・無我」ということの真理は、小乗教から文底下種に至るまで変わらないし、「縁起・無我」という仏法の基礎を無視しては、正しい法門の理解は得られません。しかし、そのことを会得するための修行「五戒・二百五十戒」等は末法では必要ないのです。

ですが学会では、「五重の相対」で捨て去った小乗教にはもはや何の価値もないと勘違いしているようです。大聖人様の仏法を信仰し、特に御法門を理解しようとする場合、「小乗の戒律」を保つ事は必要なくても、「縁起・無我」といった小乗教で説かれた真理のほうは絶対に必要なのです。ここのところまで智慧が及ばない為、大切な大聖人様の御法門を、外道の法の如く説いておきながら平気な顔をしていられるのでしょう。

釈迦は外道義のような客観的視点(本質・実体)から一念三千の法門を説いたのでなく、当事者(悩める人)の主観的視点からこの一念三千の法門(縁起・無我)を説いたのです。

私は福岡という地で、両親の元で、5人兄弟の次男として育ったが故に、現在の私の姿があるのでして、私自身が私を取り巻く一念三千の法門から成り立っている訳です。私自身が一念三千の当体なのです。あなたにしても然りで、あなたは、あなた自身の一念三千の当体なのです。

「一念」とは、学会の客観論だと短に「念ずる心」としか解釈に及びませんが、実は一瞬、一瞬といった、人が体験する時間的要因の中に於けるその人の判断(縁起)の事であり、心の所作なのです。釈迦が説く「無我」は、人には実態や本質が在るのではなく、三世間と自身が絶えず縁によって仮在(仮に存在する)し、その連続によって現在の自身がある、と説いております。そして、その縁する三千世間は全て十如是「因果の法則」によって十界のいづれかの姿として仮在しているに過ぎず、それによって縁起する我(われ)の十界もまた因果具時(十如是)であって、自身には実体も本質もないのです。あるのはただ「諸法実相」であり、諸法こそが物事の実相なのです。実体も本質もない仮諦だから、空諦の悟りを得て本来あるべき姿へ中諦へと円融出来るのです。

現在の私の実相は私の一念三千の法門であり、その法門を語ることが出来るのは、当事者の私でしかありえません。大聖人様の「仏の一念三千」は大聖人様にしか顕すことが出来ません。天台が知っていたけど顕すことが出来なかったのは道理です。凡夫にも十界は互具しています。しかしそれは理具としての十界互具であって、理論上凡夫にも仏界が具わっているという事に過ぎません。末法の荒凡夫はどこまでいっても迷いの凡夫であり、九界の衆生なのです。

過去世で仏様の説法を聞いておりました本已有善の正法、像法時代の衆生は、過去世で植えられた仏の種を、修行によって感じ取ることが出来それを熟脱させ成仏の道を辿りました。それに対し末法衆生は、仏様との仏縁がありません(本未有善の衆生)。ですから、有難い仏様の経典に出会っても、仏などいるわけが無いと仏様の存在自体を、非科学的だと言って信じられずに科学や哲学でもって現実的に存在しえる実体論(自然界の法則、科学の法則)として仏様を解釈しようとすらしております。だからこそ仏様は末法の世に御出現あそばされ、その御振る舞いをもって人々を導き、開目抄に於いて末法未来永劫に民衆救済を果たさんと請願され、弘安2年に三大秘法の大御本尊様を御図顕されました。

「我日本の柱とならむ我日本の眼目とならむ我日本の大船とならむ等とちかいし願やぶるべからず。」                                                   (開目抄)

毎日の勤行の自我偈の中で、あなたご自身が何と唱えているかご存知ですか?

「爲度衆生故 方便現涅槃 而實不滅度 常住此説法」
私(仏様)はただ人々を救い、導くために、方便として入滅の姿を示しただけであって、実際には入滅したことは一度たりともない。常にこの世にいて教えを説き続けているのだ。

「我常住於此 以諸神通力 令顛倒衆生 雖近而不見」
ただし、私がこの世にいるとはいっても、人々からは私の姿は見えない。なぜなら、諸々の神通力を用いて、人々のそばにいながらその姿が見えないようにしているからである。

「衆見我滅度 廣供養舎利 咸皆懷戀慕 而生渇仰心 衆生既信伏 質直意柔軟」
しかし、人々は、私が本当に入滅したと思って、各地で舎利(遺骨)を供養し、信の心を起こす。その心はとても素直で柔軟である。私に会いたいという 一心で、命さえ惜しまないと思っている。

「一心欲見佛 不自惜身命 時我及衆僧 倶出靈鷲山」
彼らが本当の信仰心を起こし、仏に帰依する心を持ったなら、私たちは弟子たちとともに霊鷲山に姿を現すのである。

「我時語衆生 常在此不滅 以方便力故 現有滅不滅」
私はその時人々に語るであろう。「私は常にここにいて、入滅することはない。しかし、人々を導くための方便として、ときに入滅の姿を示す」

現在の自分は、己心の一念三千の法門によって仮在している、三諦で言うところの仮諦の姿に過ぎません。御本仏の事の一念三千と境智冥合することによって、自身の過去世よりの業因を知覚し反省自覚することができ、自身が本来在るべき姿へと導いていくことが出来るのです。この中諦の姿勢が仏道修行なのです。

迷える衆生の住むこの娑婆世界は所詮、九界の一念三千の法門でしかありえません。それ故に悩み、苦しみ、不幸な人生の連続なわけでして、残念ならが過去に仏様から下種を受けず、成仏のための善根を積んでおりません末法衆生は、

「能と伝ふは如来なり、所と伝ふは衆生なり、能所各別するは権教の故なり。法華経の意は能所一体なり」                                                (御講聞書)

「古今能所不二にして法華の深意をあらはす」                      (上野殿御返事)

と御書に説かれていますように、有難くも御本仏(能化)と境智冥合させて頂くことで、仏様と一体となって、ひたすら信心修業に励むことで成仏への種を熟脱させて頂けるのです。

「下種と伝ふは師弟相対の義なり」                      (富士宗学要集二巻153頁)

「当宗は、如何にも師弟相対の処に・余念なき処を即身成仏と御沙汰候」
(富士宗学要集一巻190頁)

等とも仰せのように、仏界にまします師(人法一箇の大御本尊様)を九界の弟子が、親(仏)の心に子(衆生)が随順するという信心の姿勢をもって、余事余念なく妙法を受け持つところが、十界互具、事の一念三千の成仏の当体、即ち下種仏法の即身成仏の姿と成りえるのです。

そういった一念三千の正しき解釈を出来ていた戸田先生だったればこそ、徹底した宗門外護の姿勢を貫かれたのではなかったでしょうか。残念なことに現在の創価学会は、指導者である池田氏が、これまでに述べてきたような六師外道義で、伝統ある日蓮正宗の仏法教義を邪説化し、完全に逸脱した学会教学でもって正法敵対の謗法路線を突き進んでおります。


● 外道義は所詮「六道輪廻」
ひとたび世界に目を転ずれば、世界各国もまた日本社会も、六道輪廻のなかに存在する種々の宗教の対立と、それにもとづく果てしない闘争と破壊の環境のなかで、種々の恐怖と混乱に右往左往する状態であります。身近な所に目を向けましても、人々は、些細な事で対立し、他者批判、攻撃を繰り返し、相手の心を傷つけ、挙句の果てには親兄弟に於いて命まで奪わんとする悲惨な事件が連日のごとく、ニュースで報道されております。この世界が、このような惨劇から脱却できない理由は、法界の実相である六道四聖のあり方に無知である あらゆる指導者層の念慮の狭小によるものであり、根本的には衆生の謗法罪障の悪業によるのであります。
法界の中には、一切万物を妙化し包容する絶対の「善」の生命があるとともに、これに対抗して多くの者を むさぼり(貪り)と いかり(瞋り)と おろか(愚か)な生命観による迷いの中に閉じ込めようとする「悪」の生命があります。これは、三界(さんがい=地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の境界の衆生、つまり六道の衆生の住む世界全体のことで、迷いの世界)の中の、欲界の最高の天である他化自在天、すなわち第六天の魔王の支配によるものです。
この欲界の衆生の特性は、元品の無明に覆われた「我」の一言に尽きます。この「我」における六道一切の衆生が、相互にその立場を主張し闘わせるのです。この「我」は、天下万物より私ども一人ひとりまで、すべての個性が具え、かつ執着する処です。
我々は御本尊様と境智冥合させて頂くことで、ご本尊様の中に自身の九界を、自身の九界の中に仏界を感じる事が出来ます。それにより六道のみならず、「四聖」すなわち 声聞・縁覚・菩薩・仏界の因縁果報を知り、現在の苦しみの根源が自身の業因によるものであると自覚自己反省でき、「諸法実相(実相は諸法による)」を身をもって感じ取っていけるのです。

凡夫に完璧な人間など一人もおりません。失敗や間違いは誰にでもあるのです。大事なことは、そういった自身の犯した過ちを素直に認め反省出来るか否かであって、それが出来る人は、人として常に成長していけるでしょう。しかし世間一般的な通念で捉えるところの反省は、道徳、倫理、哲学、科学、医学、精神心理学等の俗諦に基づく自己反省法であり、宿命打破にまでは及びません。ましてそのような俗諦で仏法を完全に外道義にしてしまった現在の創価学会の信心実践をもってしても、所詮六道が輪廻するだけです。

新聞啓蒙の目標を達成しても、折伏の目標を成就しても、その時の喜びは得られても、直ぐに過去のものとなり、頑張っても、頑張っても一向に宿命転換出来ないで、福運が出るどころか逆に罰に苦しんでいる学会員さんが多いのではないでしょうか。本来、麗しき組織であるはずなのに、あまりにも無慈悲な成果主義の醜い組織に成り果ててはおりませんか。六道が輪廻している証です。池田先生という強力な「我」に執着したご自身の姿(我)がそこにはないですか?

我々が帰依する対象は、主師親の三徳をそなえた仏様であるところの大聖人様お一人です。

「無我」を説いたお釈迦様の教えが『空諦』とか『中諦』とか難信難解で理解出来なくとも、御本尊様の事を『有り難い!』と、ひたすら信じて大聖人様に執着していけば良いのです。『蒼蝿驥尾に附して万里を渡る』と言うじゃないですか。正しき信心でなければ、四聖(声聞、縁覚、菩薩、仏界)を覚知することも出来ず自身の宿命転換も叶いません。


学会員さん達が、この学会教学の逸脱に一時も早く気づき、速やかに正法へ帰依されることを願います。 

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一念三千法門

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