現代諸学と仏法 序 第一原理考争 1 科学の眼・哲学の眼・宗教の眼 (4)客観性への執著と限界

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(4)客観性への執著と限界

 最近では、素粒子クォークという更に小さいもので組立てられている・とされ、クォークは今の所・三種類発見されているそうです。このクォークが物質の基本単位だ・とされていますが、それでも尚これさえ内部構造か転換構造を持っている様だ・とも言われています。

 根源的な基本単位を設定する考え方は、これは第一原理思想の産物だ・と思います。然もクォークは客観的実在です。この様に客観性の世界で、一つの部分的な真理・部分的な法則、そういうものを追求して行く手段としてならば、第一原理思想は結構な事だ・と思います。

 そして今度は、非合理領域へ入って、実際の人生論・生命論・生活論・の上から行くと、それは寧ろ執著の一つ・ではないでしょうか。天然自然の第一原理など在るものか・という気がします。第一原理とは人間が決めるものであって、人間の意志に関わりの無い・自然存在的な第一原理など在る筈が有りません。

 物理というのは客観領域の学問でしょう。その中で第一原理と言っても、行き過ぎると無理です。第一原理は人間が決めるのであって、人から離れて、客観世界にそれとして自在する訳ではありません。この点、精神よりも物質優位を言う唯物論の根拠は崩れております。

 客観という事が、人間の意志を抜きにした領域・での見方ではあっても、実際の生活の上では、人間の意志というものは何処迄も附きまとう。物理を研究するのも、我々は物理を研究するのだ・という意志が有るからこそ遣っている訳です。

 ところが人間は、各人の意志からは離れた客観実在・というものを考えたくなるものです。この客観実在を宇宙大に推拡げていくと、<独立外界>などというものが出来てる・のだと思います。 

 このレーニンの独立外界は「意識の外(そと)に在る」と定義されていますが、意識は空間でも空間的物理的なものでもありませんから、空間の様に内や外など在りません。「意識の外(そと)」という言葉が抑も言語使用上の誤りで、それに連れて<独立外界>も正しい概念としては成立致しません。

 正にその通りです。いずれ後で詳しく申し上げますが、客観実在・と言っても、それは一応の約束上の名付け方なのでして、本当は、観測という手段を通じて<見られたもの>として以外に、<在る>と指示できる物事は無いのです。

 更には<見る体系>が、観測体系とそれを働かせる手段とを通じて見た所の<見られた体系>以外に、<在る>と指示できる物事は無いのです。でも、客観という事に誰でも執著したくなる心情は判ります。

 何故客観に執著するか・と言うと、客観性を明らかにしないと共通の通話が出来ない・からです。主観と主観とでは噛合わない所が九分九厘でしょう。

 共通性が無ければ人と人との意見の疎通が出来ない・でしょう。そこで、自分の好き嫌いや意見を一応引っ込めて、それらに直接拘りの無い分野を表面に押出して、これによって共通の対話を成立たせます。その為にはコンセンサス・同意・合意というものをそこに結んで行かなければなりません。

 そこで客観性が大事なのですが、だからと言ってそれに拘(こだわ)ると、そこが終着駅ではない・という事を見失ってしまう。すると客観から生じた<実在>という・この<考え>への執著が起こり、これが又・終着駅だ・と思込まれてしまう。これが困るのです。

 それでは、人間の意識を超えた客観実在を追及する方向が、最後に怪しくなって来た段階で、どういう様に処理をすれば好いのでしょうか。

 客観の場合には、如何なる学問の分野でも、未解決の領域は必ず常に残ります。幾ら天才が出て来ても永久にそうです。これは<客観>という遣り方そのもの自体が持っている限界です。この限界を心得る事が処理法になりましょう。

 客観を立てないと・学問・特に自然科学は成立たない。これも学問の宿命ですね。立てれば立てたものに縛られる。これは人の側の問題です。

 宿命です。客観は、対象の周りをぐるぐる廻りながら・無数に視点を作って眺めて行くでしょう。これによって・見えた限りの条件を集めて、再び対象を構成仕直す・という手段を取ります。これが・分析→総合(再構成)・という事でしょう。

 これによって、分析前の対象と再構成し総合された対象とは、カオス(混沌)と判明との関係に立つから、その限りでは有益性を生じましょう。その記述は合理的予見を持つから<法則>と言います。

 これは即ち、未知な対象を既知な説明で置換える翻訳作業・でしょう。個を普遍で翻訳する訳です。バートランド・ラッセルが「普遍概念を許さなければ個の説明が出来ない」と言ったのがこれです。

 客観法則の<抽象性>はそこから起こって参ります。普遍の導入が、普遍性をもたらすと共に抽象性をももたらします。

 以上の手続きは、特殊を、概念という普遍記号・符号・知識・で置換えるから、再構成された概念と元々の対象とは・完全に一致する訳には行きません。重ねてみて、そのズレてはみ出した所がアポリア(難問)として残ってしまいます。ここが客観の限界です。何度掘り下げ直しても事情は又同じ事です。 

ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学 (中公文庫)

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