現代諸学と仏法 序 第一原理考争 1 科学の眼・哲学の眼・宗教の眼 (1)歴史に果たした役割

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序 第一原理考争

1 科学の眼・哲学の眼・宗教の眼

(1)歴史に果たした役割

(石田) これから現代諸学と仏法についての話を始めたいのですが、つまりは一番新しい所と一番古い所とを交互に照らし合わせてみる訳です。それには、仏法を内道・内教・内学とし仏法以外を外道・外教・外学と呼ぶ古来の仕来りに従って、お互いを比較して優劣を考える・という、この<内外相対>の手法で行きたい・と思います。 従って、内道の学的内容へ立入る事になっても、極意に立入る事は極力避けて参ります。ですから、この対話から仏法の奥底を得よう・というのは勿論無理ですが、その助けにはなる・と思います。そういう事で、話の流れがどうなって行くかは判りませんが、何分宜しくお願いします。

(本橋) 御期待通りに話を運んで行けそうも有りませんが、こちらこそ宜しくお願い致します。それで、現代諸学というと、「自分は大学へ行かなかったから……」とか、「高校へも行かなかったから……」と敬遠する向きも有るかもしれませんから、なるべく砕いた話で参りたい・と思います。大学へ行ったとしても、文科・理科・医科など皆・分野が違っていて、専門以外は大学だ高校だ・と騒ぐ程違いの有るものではない・と思います。

 仏法は本来難しいもの・と相場が決まっております。その難しさは、経文の様に用語が古い為の難しさと、常識とは違った路線から言表(げんぴょう)している事による難しさと、修行路線での難しさ……体得の難しさ・との三通りが有る・と思います。前の二つの難しさは、この対話ではなるべく砕いて参りますから、過大に考えない方が良い・と思います。

 易しいものだったら論じ合う必要も無い事です。読者にしても、難しいから張合いを持って読める訳でしょう。

 学歴程度云云・という問題は、何も基本的な条件にはなりません。仏様の直弟子だった阿難・迦葉・目連・舎利弗……、誰も大学は愚か高校にも中学にも行ってはおりません。本人の遣る気の有る無しで会得が決まった事です。要は本人次第です。遣る気の有無です。根気さえ有れば好い・と思います。仏様在世から明治時代迄は、インド・中国・日本で、高校や大学に行った論師・人師や宗徒は居りません。それでも仏法は理解できたし修行も出来ました。この本はなるべく誰にでも読める様に解る様に・と心掛けて参りますから、取越し苦労は要らない・と思います。

 判りました。こちらもその積りで参りたい・と思います。用語なども極力日常用語に添ったものにして行く事にします。専門的な語には説明を多くして参ります。そこでまず、真理の追究・法則の発見・という事の基底を考えてみると、これは統一原理・延いては<第一原理>を知りたい・という事ではないか・と思います。この点はどうでしょうか。

 世の中は個々ばらばらな物事の集りです。一見した所はそうであるだけに、果たしてそれだけなのか。個々ばらばらに見えている諸事象は、統一的に把握されないものなのか・されるものなのか・という原初的な疑問を持つのは当然でしょう。何に限らず学問はそこから芽生えて来ました。統一原理というものは局面局面での第一原理ですから、仰る事はその通りだ・と思います。

 何事にせよ、人は記号・言葉・概念によって意志・意見を交換し合うしか有りませんから、共通の記号・共通の言葉・そして共通の概念・を必要としています。皆が何等かの統一原理・第一原理・を知りたい・と思い合えば、これに対応する為の概念・つまり第一原理概念や、最高類概念たるカテゴリー(範疇)の様な第一概念が要る訳ですね。

 そういう事です。共通項が要ります。又、それらに応じた共通の約束事(エンゲージメント)・共通の了解事項・というものが要ります。

 それに応じて生(産)まれた概念が、神(ゴッド)・本質・実体・形相(エイドス)・質料(ヒュレー)・動力・原因・真実在・などと、様々産まれたのだ・と思いますが、これらの検討は後の事とします。今ではこうした古代からの概念も、永い歴史の諸批判を経て、随分、置かれている地位が変わってしまっています。この意味では、三千年間の思想の歴史は、決して、無駄が多かった・とだけは言えないのではないでしょうか。

 前進も後退もぐるぐる廻りも在ったでしょうが、流れの全体は川上から川下へ、そして大海へと、川幅は小から大へと、常に充実発展の大筋を貫いてきた・と思います。この意味で・統一原理・第一原理・という考えが果たし来た役割は大きなものだった・と感じます。

 事情は東洋でも同じだったでしょうが、暫くは西洋事情を中心に話を進めて参ろう・と思います。

 それが段々と、存在の第一原理・認識の第一原理・などと分化して来ましたから、存在を存在として在らしめるもの・とか、認識の成立根拠・とか、又、存在と認識とはどちらが第一原理か・などが問題になってきました。けれどもとにかく第一原理という着想が、哲学についても科学についても、その今日在る姿の所まで推進して来た・という事は、これは争えないでしょう。不思議なもので、洋の東西・民族のいずれを問わず、昔から何かの第一原理を立てていたものです。

 歴史的に見て、宇宙に第一原理が在るのだ・という考えは、昔から世界中に在った気配が在ります。これが宗教の発生と密接に結び附いた様に見えますが……。

 その動きは、西洋では少なくともギリシャ時代から見られます。紀元前七世紀頃・タレスは水を第一原理に立てたそうですし、東洋でも、インドでは紀元前千年頃・バラモン教が成立して・ブラ―フマン(梵)を第一原理にしていました。中国では歴史はもっと古く、何時頃からかは判りませんが、天地根元の玄気とか太極とか天神・皇天上帝とかいうものを立てていました。エジプト文明ギリシャのよりももっと古いのですが、文献が残っていないので今の所不明です。太陽か何かだったろう・と思いますが、遺跡の解明が進めば、恐らく第一原理が在った事は立証される・と思います。一通り文明が型を持つ様になった所では、何処でも第一原理を考え・求め・崇めていた様です。

 梵(ブラーフマン)は我々にとってお馴染みのものです。世界の根本的創造原理・宇宙の最高原理・を意味する・インド・バラモン思想の中心概念です。人間及び万物の実体であるアートマン(我)と結び附いて・梵我一如・の思想を生み出しました。

 ギリシャでは・形相・質料・動力・この三つについて三派の自然哲学者が派閥を作り合って、形相派から幾何学が生まれ・質量派から原子論や物理学が生まれ・動力派から力学……そして後世の熱力学へ・と発展してきますが、この途中へキリスト教が創造神を持込んで来ました。中世の<普遍論争>ですが、あれも第一原理論争の一種の変形です。これは長い間延々と続きました。ルネッサンスの基の一つにもなりました。

 古代から中世に掛けては大まかに見てそうでした。下って近世へ入りますと如何でしょうか。

 一番手っ取り早いのが、神が第一か・物質が第一か・という一七世紀以来の議論になって来ますが、その元を尋ねると神が第一原理になっていた訳です。それが中世の普遍論争で・スコラ学者の普遍論者(実念論者)が、「普遍は只の音符だ」と主張する唯名論者に負け、ルネッサンスから又段々と無神論が復活してきます。こうして、神を除外して科学が自分の領域を設定し、神抜きの領域が出来ますが、その物理学なら物理学の中で、やはり、第一原理は何か・と言ってしつこく追及して行った・無意識的・又は意識的・な学者の行動の積み重ねが在るのではないでしょうか。

ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学 (中公文庫)

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