現代諸学と仏法 序 第一原理考争 1 科学の眼・哲学の眼・宗教の眼 (7)内観における約束事
(7)内観における約束事
アドホックな仮定で処理しよう・というのは、科学の限界を押拡げて行く努力だ・とも言えそうです。然し科学としては、限界そのものを撤去する方法は無い訳です。
そうです。限界は常に付纏います。それで気に食わなければ、対象の外からぐるぐる回って眺めるのを已(や)めて、対象の中に入って内観(反照観察=反省の事)し、共感して味わうしか有りません。これは最早科学を已めた事を意味します。科学からの脱出です。
不可避な限界に遮られ、対象を知り得る限りは知ったが尚知り尽くせない。これは苦しい事です。学者に付き纏う必然的な苦悩です。知の対象は無尽ですから……。
こうしてみると、つきつめて再応の所からすれば、第一原理というものは、実は客観の対象の中には在り得なかった・厳密には客観の領域中には在り得なかった・という事がはっきりしませんか。客体の中に真の第一原理は無い。これは大事な事でしょう。
又、学者には、知って知り尽くせない苦悩が附纏う・という宿命的な点ですが、これは哲学者でも同じ事です。学者の宿命・限界です。反省は別ですが、知る事・思考・推理・推論・にばかり閉篭ると、逆にそれに縛られて身動き出来なくなります。
人間は学者で留まってはいけない・と言うのはその辺の事情なのでしょう。科学者や哲学者が、学者として色々考え、深い意見を発表しても、結局は、対象について、記号・符合を積重ねて<普遍>の遣繰りの世界をぐるぐる回っているに過ぎません。これが盲点です。
これでは迷いの六道輪廻の方程式そのものです。科学者は勿論の事、哲学者が哲学者として留まっている限りはそうなります。観察と思考との間を往復している間は、結局は終点が得られずに循環してしまいます。
自分を研究対象にして・反省でない内観・つまり自己観察・をしても事情は同じです。観察し思考しても、事態は、明らかになっただけで・これだけでは一向に変化も向上も無い訳です。終点無き循環・をするばかりです。でも知らないよりは益しでして、反省への手掛かりには大いに役立つ事になります。
これに対して、仏法で内観と言うのは、対象の中へ入って黙って味わっている事ではないでしょう。対象の中で対象と反省的に一体化して共同生活を展開する動的な動き、これが本当の内観ですから、内観は学問ではなくて反省生活です。この生活は改良行為という点で修行です。内観は修行なり・です。
内省や内観は<自分で自分の心理を観察する事>と言うだけでは足りないのですね。世間の定義では大体こんな具合になっておりますが、仏法の場合では・もう一歩・先迄踏込んでいる・という事ですね。
そうです。押並(な)べて・客観という事は、お互いの共通認識の場を作ろう・という要求から生まれて来た分野でしょう。人間は社会動物ですから、社会生活にはこういう<場>は是非共必要だし有益です。
でも、お互いに人間には・共通性も在れば・個としての特殊性も在る訳です。個別な意志意欲が在り・感情が在り・癖(習気=習慣的気分・前業の余残気分)が在るのですから、客観ではその分だけがどうしても切捨て・になってしまい、切捨てた不足分だけ生(なま)の人間ではなくなっている訳です。抽象人間に化しています。
お互いにずうっと話合いをして行って、全てを客観上で合意し尽くしたら、その途端に、共通出来ない・理解し合えない・互いの分野が顔を出して来ます。ここで客観性が行詰ってしまいます。
二人で同じこのお茶を飲んでみても、どういう風に美味しいと感ずるか、どちらがどの位・より美味しく・感じたのか、或いは不味く感じたのか、これはもう、どう仕様も無い・厳密な比較検討が出来ない分野になります。
ここは、完全客観化出来ない・感覚や状態や主観の領域です。個人毎の世界・一人称世界です。ここを消化出来るのは内観しか有りません。内観での消化は、比較検討という手段を取らずに反省共感という手法を取ります。ここ迄到達すると、客観的な第一原理は吹飛んでしまいます。
第一原理の追求・という事は仲々難問を孕(はら)んでいますね。それでも執拗に第一元理を追求せざるを得ない根拠は、最終的には、なにか絶対的なものに寄掛かって安住したい・という・人間の<願望>に在る・のではないでしょうか。
心理的にはそうでしょう。然もそれは深層心理内での状態ですから、仲々自覚出来ない所に面倒さが有ります。
話が心理面へ移れば、学問としての領域は、内観を論ずる哲学とか宗教とかへ移行してしまいますが、そこでは客観的な存立としての第一原理というものは無くなるでしょう。
無くなります。その替りに、人間がエンゲージメント(約束事)として・ルール(規則)として・人手で設定したもの・として現れて来ます。
物理学で代表される、主観性を出来るだけ消去して・客観的実在性を考えて行く学問・に対して、その反対の方向を目指す学問・も在る訳です。西洋の学問では、ベルグソン、デルタイ・などの<生の哲学>というのが、直感とか表現とかで・生そのもの・を捉えようとして、非合理な認識・を展開しています。
つまり、<非合理>に第一原理を求めた訳でして、これは批判哲学よりも豊かな内容を持つが、その非合理領域をどう一般化するか・が問題にされています。この学は・客観は裏へ回して・主観の領域を拡げよう・としています。この学は成功している・と言えますでしょうか。
評価という事になりますと、評者が持っている思想により・立場立場で違ってきますから仲々面倒です。とにかくこれは、生そのものを捉えようという正しい意図を持つ哲学だ・と言われております。人間生活の在り方の生々しさを掴んだ・という点では成功を認めて善い・と思います。
仏法から見れば、六道の生々しさから二乗独覚の悟りの方へ・と行く方向を取っている訳でして、具体的な生そのものを・生に即して捉えよう・という事で、能く調べておりますが、人生に現実はそれに尽きるものではなかろう・と思います。
我が国では・芸術関係の人々の中に支持者が多い・とも言われております。学生間では・一度は関心を持つ・とも言われております。
この説では、自分と他者との十界性・など思いも付いていないでしょう。何よりも欠けている・と思われるのは、有は何処迄も有(実有・厳有)であって、空・という判断・考え方が出来ない所が不足だ・と思います。
ヤスパースの様に仏教に関わっている人でも、せいぜい二乗界の初期段階・という程度ではないでしょうか。この人は自分の哲学の中に仏法思想を解消しよう・という態度を問題にされています。
生の哲学・実存主義など、系譜を辿れば古くはなりますが、固まった思想としてはそう古い昔からではなくて、むしろ一九世紀から二十世紀へ掛けての議論でしょう。その祖形の思想としてはキリスト教がそうですし、パスカルの思想などが挙げられますが、他と際立った哲学として登場したのは新しい・と思います。脱俗を目指しています。
これからも、人の納得を得る様な理論の構築はまだまだ出来るだろう・と思います。脱俗向上の意図は判りますが、でもその研究はまだ世俗の中を領域にしているに過ぎません。それが何時か本格的に仏法と出逢ってみたらどう変わりますか……。ここにも・第一原理を掴み出せるかどうか・という興味有る課題が残っているでしょう。