(7)判断における虚妄と真実

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(7)判断における虚妄と真実

 肉体の場合もそうです。身体・身体と言い合ってみた所で、お互いのコミニュケイションの上での一つの約束みたいな概念です。確かに・目方を計ってみれば身体はこれ位だ・となります。それから・洋服屋に言わせると、服の生地は大きいから何ヤードだ・と一義に決定します。こういう意味では目方や表面積の大小は決まりますが……。

 それでは身体は何処から何処迄か・と言われてもちょっと困ります。ここに水が在りそれを飲むでしょう。飲んで胃袋へ入ったら身体の一部になってしまいます。呼吸し話していると息が出たり入ったりする。身体の中に在る部分は身体・炭酸ガス化して出てしまった部分は身体の部分ではない・と立分けてみてもきりが有りません。二者択一は不正・非眞です。

 電気的な話をすると、体内の微電流も絶えず強くなったり弱くなったり、身体内のみの独立作用だけでそうなるのではなくて、外界の電気状態や刺激と呼応して変ります。それから、感覚では捉えられませんが、宇宙線も夜昼となくぶすぶす身体を通過して行きます。

 体温も服で保っているでしょう。体温は身体が作る・と言ってもそれだけでは通用しません。衣服と依り合って成立ち、縁起で保たれています。色々そういう広い観点から見ると、身体・と言ってみても、実は外界との境目など・本当の意味では・無い・訳です。こうして・多く自他の<境目>は<視覚上の境目>でしかないのです。何の絶対性も無いのです。一根での境目は他根での境目には通用しないのです。

 我々の腹の中を調べてみると、大腸菌などというものが居て生きていますが、消化を助けているそうですから、これなど私の身体の部分であるのかないのか、いわば<半々>なのではありませんか。病菌の為に病気したら、これは完全に私の健康を左右していて、私の要素になってしまっている訳です。

 それなど、大腸菌の方から言わせたら「自分と宿主との境目を設定する事は実に困難で、不可能に近い」と言うかもしれません。

 こういう風に<境目が無い>という事は、大きな目で見ると、この常無い大字宙が計り知れない<階層構造>をしている所から来ている・と思います。この事は、一切の事物事象に<個在を許さない>という事です。プドガラ(個在)・実体・本質・を許さない。宇宙の仕組が許さないのです。

 物質的に見ても、小はニュートリノ素粒子から・大は銀河系・銀河団・超銀河団・と構成されていて、超銀河団の位階で見ても蜂の巣状に構成されていて規則的だ・と言う。然もこの超銀河団が宇宙階層の頂点だ・という保証も無い。こうなると、我々の地球など”砂粒”以下で、人間個人などは原子核の回りを駆け巡っている電子以下みたいなものです。

 という事は、我々は・知る知らないに拘わらず、この雄大な階層構造の中で、某(なにがし)かの役割を振舞わせられている。という事ですか。構造の中で役割をしているのだから、そこには本当の意味での<境目>は無い……。物質構造としても、本当は・身体も既に・より高次な階層構造・に組込まれていて分け様が無い。無分別である……。

 そうです。水魚は分けられません。金魚を水から外へ出してしまえば死んでしまう。これみたいなものです。横に空間的に見れば以上の通りですが、今度は縦に時間的に見てもやはり階層構造の中に組込まれています。これは歴史経過になる訳ですが、我々は先祖と子孫との階層系列に組込まれている訳です。

 先祖のもっと先は猿で、もっと先はネズミみたいなもので、もっと先は海中生物で……と、ここにも目には見えない<無境目>的な配列が在ります。嫌だと言ってもそうなのですから仕様が無い事です。

 こうしてみると、横に見ても縦に見ても、境目を付けたい・と思うのは、科学的な知的要求であるよりも、案外・無自覚な自我欲望の所産でしかない・のかもしれません。個の独存を主張したい・我慢・我見・我愛・の所産かも知れません。

 ですから・身体と言っても、お互いの意志を疎通する為の・約束した世俗概念・であって、実有でも実体を持ったものでもありません。実有ではないが仮在している事は事実です。してみると・心も身体も「有る・無い」が単純には決められない局面なのですね。二者択一は通用しそうにもありません。

 では・無いか・と言うと有るでしょう。だからこれは存在しているのではなくて、環境と一体化して<存立>しているのです。存在ではなく存立・成立ち・出来事・です。成立している・という意味では<有り>、存在している・という意味では<無い>訳です。然も法則通りに存立し続けるのでして、<法は縁起の焦点なり>というのは極めて正しかったのです。

 つまりは<実存>の連続仮在です。そしてこれが厄介なのです。自分の身体も決して<自分のもの>ではないのです。<法器>であって<我所>(自分の所有)ではないのです。太った人が痩せたい・と思っても出来ないのは、身体が我所(我所有)ではない事を物語っております。<法所>であって<我所>ではないのです。

 科学の世界でも現在は、世界や宇宙というものは、存在しているのではなくて・存立しているのだ・出来事の集りなのだと、こういう考えになって来ました。特に物理学でこれが顕著です。

 これは竜樹に非常に近いです。縁起して・お互いに相い依り合って・そこに成立っているものなのですから、それを存在している実有だ・と見たら虚妄だ・と言う。竜樹の言っている事はこれです。

 分別虚妄と言いますが、分別は、在りの儘の事実存立(無分別)から切取った分別領域だけを相手にしているから虚妄だ・と言います。概念は、分析・総合を経た抽象世界の然も過去化して既に無くなってしまった事象・から生み出すので虚妄だ・と言います。ここでは又違った局面で虚妄が主張されています。虚妄というのは非常に奥深い指摘なのですね。

 概念の場合は、抽象世界から・然も既に無くなってしまった事象から引出している訳です。無から有を引張り出しているのです。亦無亦有です。<記憶>を命綱にして引張り出した訳です。ですから結局は<己心の法>だし、存在上、<無から引き出した有>ですから<虚妄>です。

 無から出る有を<本無今有>とも言います。天月・池月を相対して、池月は本無今有で・体無し・と教えています。池月は迹影であって存在としては虚妄だ.と教えております。

 虚妄という言葉には、私、若い時に、最初は非常に悩みました。事実有るのに何が虚妄だと、掴み方が本当であろうと嘘であろうと、とにかく有るものは有るではないかと、こう思った訳です。

 だが能く能く噛締めてみると、要するに・独立した実体として・実有として・在るのではない・という事が判りました。俗人の見方は虚妄ではあるが、そこにそういう現象が<思われた通り>に存立している事迄否定しているのではない・と思いました。

 そこにそういうものが・それ自体として存在している・と見る単純な直接判断が<虚妄>(世俗)であり、縁起して存立している・と見て再判断した反省判断が<真実>(勝義)である・と、こういぅ主張に理解しました。勿論・仏典に導かれて理解した訳です。

 今想い返してみると、悩み苦しんだのは、頭の中から先入知識を追だしてしまう為の悩み苦しみだった・と思います。頭の中味を仏典の教えと全部入替えてしまったら・苦も悩も無くなってしまいました。

 とにかく、竜樹や天台は、人間が仮名の上に置いて見ている事態は皆・虚妄だ・と喧しく言うのです。そこで馬鳴も<因言遣言>(言葉で言葉を追払うこと)と言って、概念への追放令を下しています。言語で言語の限界を教えて・概念を追放してしまう・という事です。

 未反省の場合は、判断が虚妄なので・存在も虚妄化しています。

 それから、「何々は虚妄であって、何々は真実である」と言うと、真実なものは絶対に正しい・という錯覚に陥り勝ちです。今度は・真実・という事を実体化してしまう。これだと二乗や権の菩薩にも及ばないのではないでしょうか。少なくとも仏界ではありません。唯の人界です。虚仮なる人界です。唯世俗・純世俗です。

 例えば、アインシュタイン相対性理論は、運動は相対的な事だ・と言います。確かに物理上ではそうなります。そうすると、途端にそれを実体化してしまう訳です。

 真実という事自体も実体化してはいけない・と思うのです。という事は、普通の真実というものを一つ縦に乗越えた・如実なる空・の立場に悟りが在るのではないですか。然し二十世紀の科学者がやっと到達した所を、竜樹や天台はずばずば言っているのですから凄い事です。

 竜樹は当時の万学に通じていたそうで、その証拠は『大智度論』の内容で知る事が出来る・と言われております。仏法のみならず・科学者としても充分以上の才能に恵まれていた人の様です。

 判断論から言うと、彼は反省判断を非常に大切にしている訳です。直接判断や叙述判断は虚妄だ・と主張しています。存在判断を材料にして反省判断に立たなければ悟りにならない・という言い方です。この面から言うと、直接判断が有って・それから反省判断が有る・と判断は二重構造になっております。反省の方は四重(第三章で後述)になっております。