(9)判断の限界と循環問題

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(9)判断の限界と循環問題

 判断論が判断の真偽・正誤・にのみ関わっているだけでは真の判断論にはなり得ない。この指摘は重要だ・と思います。判断の機能は人生のどの部分迄及び得るものか・という限界もまだ決して明らかにされた・とは言えません。

 アリストテレスの判断論の様に、今迄の場合は論理の窓口から見た学説が在るだけで、生(なま)の人間そのものを掴まえて、生の人間の判断が如何にして構成されて来るか・という研究になると、殆ど皆無に近いでしょう。だから今後の哲学界の最重要課題は、必ず・判断論にならざるを得ない・と思っております。そうなったら科学と共同作業になるでしょう。

 科学との共同作業といっても、そう・いう綱目を統一する大綱が要ります。唯・論理の窓口から見た判断の出し方・つまり概念計算を正確にする・という事も大事です。計算を間違えてしまったら何の設計図も出来ません。妄分別・妄概念・邪見・妄見・を生み出すだけです。

 それは確かに大切ですが、概念計算というものは、判断の上では寧ろ上部構造で、下部構造は違う・と思います。生々しい、生理的というか物理的というか・どう仕様も無い自然存立としての判断の傾向……これが下部構造になっているのではないでしょうか。

 この事は唯識を顧みてもそうです。唯識も含めて仏法では、判断という事を<迷対悟>という枠組で捉えて処理して行く事になっております。

 その判断の下部構造とも言うべき、生々しく泥々した人間臭い所を取上げた人として、例えばドイツのハイデッガーが居ります。彼は、単に知の主体としてではない・世界の中に特定の状況の元に置かれて・最終的には死に直面せざるを得ない人間の<関心>という点から、判断を問題にした・と言えると思います。

 それは<存在論的基調>を帯びているのではありませんか。境法側から智法側へ迫って来ているのではありませんか。この点では仏法とは逆です。その<関心>というのは仏法での生死一大事への関心と何か通ずる所が有ります。現象学は純粋意識を対象とする<本質記述学>なのだそうです。

 天台は、この生死一大事への関心から、重大な決意をして法界に念を繋ける行を始めたのです。ですからハイデッ方-の関心を・もっと先迄導いて行くと、天台の止観行の<止>と通ずる所が有ります。「念を法界に繋ける」というあの遣り方考え方です。

 念を法界に繋け・念を法界に働かせて、それで働かせた結果・境と合一して仏界を作る。これが止観行の意味ですから……。然もこの法界や境は、自分の外(そと)の外物ではなくて、自分の一念迷心そのものを法界とし対境とするのですから、境法面ではハイデッ方-の<根源的存在>と通じています。

 一口に言ってみれば、哲学で研究している事も段々と仏法が取上げている問題に似て来た・という事なのでしょう。

 そして判断というものは、口に出して人に言う時には論理的に持って行く訳です。他人に伝えるには叙述化して言表します。とにかく・判断には直接判断(存在判断)と叙述判断というのも在るし、叙述にも帰謬法という間接手法の推理(証明の仕方)も在るし、反省判断も在ります。論理面だけでも充分にややこしい訳です。

 こうして、判断という問題については、要素が余りにも多過ぎて整理が付きません。判断という事は、学問上では<永遠の課題>になるかもしれません。これは<無限>と取組む様なものできりが無いでしょう。然し数学でも<無限論>という形で結着は付けられるのですから、こういう形で結着は付けられるだろう・とは予想されます。

 判断という事は、仏法の側では<分別>という語で扱われ、分別は、仏様の思量以外は、虚妄として扱われている事は、既に論じて来た通りです。

 つまり、根元的な解決は仏法から出されてはいますが、仏法は判断や分別の研究をする場ではありませんから、問題は大いに残ります。判断の問題は永遠の謎を底に秘めている・というのは、只下部構造の底辺が厖大だから・というだけではないでしょう。

 それは、元々判断が<疑問と答との連鎖>で出来ているからです。そして、この問いも答も無窮性を持つからです。答が無限に出せるというのは可怪しい・と思うのは、自分が智慧不足の所為(せい)であって・原理上の無窮性には関わりません。

 ですが、「無窮の問いに堕するは非なり」(『玄義』)でして、仏法では問答形態を、無分別に対置する分別と称して、遂には無分別の中に吸収して解消する様に勉める訳です。もう一面では判断を再判断して三諦化して・悟り・にしてしまうのです。

 それが<迷対悟>の枠組で捉えて処理して行く・という事ですか。

 そうです。判断は、論理と思考との面から見ると、結局は迷いで終ってしまいます。というのは、論理と思考というものは、ぎりざり結局の所は循環するからです。ラッセルの階型理論のように、循環を避けようとして・メタ(高次)言語・メタメタ言語・を設定しても、結局は循環から逃れられないのです。判断には限界と矛盾とが生ずるのです。

 ですから判断は迷いで終わり、迷いが嫌なら分別を廃(や)めて無分別の実践領域へ我が身を投ずるしか有りません。これは大事な事です。循環は<後件肯定の虚偽>に堕るのです。御承知の通り・後件肯定とは、正しく論じてから肯定すべき事態を・論じる前から肯定してその論の中で用いる事・です。

 末木先生の 『論理学概論』には「我れ思うという統覚的述語を含む体系は不可避的に矛盾を生じ、この矛盾は階型理論では解消しない。……、論理の終局は非論理である」と在ります。これは仏法の分別無分別の関係に似た様な説で、判断の限界を教えている様ですが、判断はどうして循環で終わるのでしょうか。

 一つには 「個を説明するには、普遍で叙述する以外には出来ない」という事情によっている・と思います。現実にこの世に存在しているのは個だけです。普遍は、但・精神的な要素として・空なる理論存在として・在るだけで、その在りか・はいわば人間の頭脳の中だけです。これは、個々の個物を貫く共通性・として認められた・認識上だけのものです。

 元来、個物の個々から導き出された共通性が普遍概念です。その普遍概念でしか存在の個を説明する事は不可能ですから、元々個と普遍とは相依の縁起関係でのみお互いが成立っているだけです。ここに論理と思考とは・循環せざるを得ない必然性の根を持っております。これが循環という事態の全てかどうかは知りませんが、重要な一つである・という事は確かです。

AからBを導いてBでCを証明すれば、Cの真実性はAの真実性に依存します。それなのに、Aの真実性はCの真実性に依存しなければ成立しない・という事では、Aの真実性もCの真実性も何等保証されない事になってしまいます。

 これが<循環>という事で、Aは前件・Cは後件・ですから、循環は<後件肯定の虚偽>を生みます。論じてから真理性を証明されるべきものが、実は論じる前から先取りして・真理だ・と主張されていた……という虚偽になっている訳です。

 個と普遍との循環は応にその事になっている訳です。ですからこれによって生まれた<概念>というものには、純学理上の真理性は何等保証されてはいないのです。唯・日常の常識・日常言語の語用の支えで成立っていただけなのです。純学理の上からはまさしく分別虚妄・概念虚妄でしか無かったのです。竜樹の概念不信用は正しかったのです。

 循環問題などは判断論の重要課題ですから、専門の論理学者にもっと研究を進めて貰いたい分野ですね。

 そうです。序(つい)でに申し上げますが、この対話ばかりではなく、私は何時も<わかる>という事を<判>か<解>の字で書いています。当用漢字では「分かる」と書く事になっていますが、そう決めたのは無謀だった・と思います。これでは<分析する>という意味合いは含まれてますが、<物事がわかる>(判断)という事の本来の意義は失われる・と思うからです。

 <わかる>のは主語述語で叙述した後の事です。分析して分けただけでは<わかり>ません。総合して再び合わせないと<わかる>にはなりません。<合>が必要です。<わかる>のは言語計算を正しく仕終えた後の事です。

 「命題を正しく推論して下した<判断>を信ずる事」……これが<わかる>という事ですから、わかる・は<判る>でないといけない・と思うので・私は<判>で通すのです。

 「貴方の話の趣旨は能く解った(理解した・承知した・賛成した)」という事や、問題が解けて「解った」と言う場合も有ります。解った・でも好いのですが、能く考えると、解った・は判った・の枠内の一分節ですから、基本はやはり<判った>です。判断問題の序でですのでここで申し添えて置きます。