(6)心はただこれ名のみなリ――無所有不可得

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(6)心はただこれ名のみなリ――無所有不可得

 仏法では分別虚妄・と言って、世俗での判断は全て虚妄だ・と退けます。一方、論理学には虚偽論・と言って虚偽予防論を展開する分野が在ります。

 この虚偽論は・内容としては・アリストテレスの詭弁論駁論その儘で、唯その整理の仕方について、近代のミル等の科学方法論が取入れられ、「研究法に関する虚偽」「統整法に関する虚偽」という風に手直しされて現在も用いられています。仏法でも論理学でも・虚偽を避け真実を追及する・という態度は共通します。その辺を比較してみたい・と思います。

 科学・哲学・宗教・を問わず、虚偽を排し真実を追及するのは当然ですから、そこに虚偽論の存在価値が有り、学問としては重要な分野を占めるのでしょう。論理学のこの虚偽論は・真か偽か・正か誤か・という<二者択一>が前提されている所が重要だ・と思います。

 世俗の判断は概ましそれで尽きますが、仏法ではこの二者択一自体が反省的に取扱われ、判断の反省操作から二者択一でない局面・が現出して来ます。二重否定の非有非無と二重肯定の亦無亦有・というのがこれですが、これは四句分別を詳しく解明しないと論じられませんから、ここでは省略せざるを得ません。

 世俗の判断は存在判断から始まり叙述判断で終ります。直接判断(感覚)を間接手法で推理して叙述判断が出来上り、その・真か偽か・が検討されれば判断として完成です。ここで既に偽は排除されますから、世俗で通用するのは・真なる判断・だけになります。従って仏法で・虚妄の仮・として排除(否定)される仮は、この<真判断>という事になります。

 その・真判断であっても虚妄の仮だ・という意味は、得道に対しては虚妄である・苦からの解脱には役立たない・という観点から、<虚妄>と名付けられているのでして、それは決して「叙述上でも真ではない」という意味ではありません。真でも無明覆障の産物な所が虚妄性です。

 真は真だが解脱には役立たない・という事です。例えば・病人には病身と病心とが事実現前していて、これは判断上<真>です。でも仏法はその真を否定して「一念病心非実非真・即是法性法界」(『浄名経』【唯摩経】)と述べています。

 この場合の<否定>は・論理上の否定・とは違って、<開く>という<反省作用>を指します。切り開いてみると・一念の病心・という虚妄の仮は消え、法性法界と化すべき・建立の仮の病心・が仮りにそこに佇(たたず)んでいるだけです。

 この事は死についても同様で、「死という仮存の在りよう(現象)が一時的にそこに佇んでいるだけなのだ」と仏法では教えています。死も病心も・一時の仮存(虚妄の仮)です。ですから非実非真です。三世永遠の中での一駒としての生死ならばこれは・本有の生死・です。仮存ありぶりの儘・本有です。

 この場合は、仮有仮存の病心はその儘空であって、真実在の実有ではなかった・という事になります。売薬で治そうと・医師に係って治そうと・針や灸で治そうと、とにかく治る事によって、実有ではなく仮在であった事が立証されます。勿も・病心や死に実体が在ったのでは堪ったものではありません。仮有病心を治すには謝業の懺悔が要ります。

 判断論というのは、こうした意味でも非常に大事な問題だ・と思います。虚妄の仮である世俗の存在判断(現量)を<直接判断>という事にして置きましょう。これを批判して分析し総合すれば叙述判断です。

 すると、仏法の空仮中は、この直接判断や叙述判断を<反省批判>しながら再判断して行く操作を取りますから、上の二つの判断に対して、これは<反省判断>と言って好い・と思います。世俗を再批判して勝義です。

 この反省判断によって建立の仮が現出しますが、その反省操作が双遮双照という二重の手続きです。これによって円融三諦が成就します。仏法においてはこれが<虚妄>に対する<真実>です。世俗の手は届きません。

 世俗での真実が実は虚妄であり、その虚妄が更に真実に転化する・というその<真実>は、解脱して人生苦の材料ではなくなった・という意味なのですね。

 究極ではそういう事です。然しその究極の一歩手前の認識論の段階においても、能く詮じ詰めて行けば、世俗での二判断は虚妄であった事は明らかに出来る・と思います。早い話、自分の心と身体とを考えてみると判るでしょう。

 大雑把に言ってみますと、人間の心というものについて、マインド・スピリットを含めて、一応皆で心・心と言い交わして、お互いに・心という実体が在る・と思っています。実体と迄は思わなくても・実有だ・とは思っています。身体についても事情は同じです。世俗では・判断として、これが真として通用しています。

 ところが<心>という通念は在っても、「心は唯是れ名のみなり」で、心という実有や実体が存在する訳ではなく、唯・色識一如の仮存現象心しか在りません。待境という外縁と一体化して初めて心は覚知され、そうでないと心は意識されません。

 独立した心など無いのですから、一念と言い心と言い・それ自体実体は在りません。立場次第でくるくる変る心の他に、変らない心の<基体>の様なものが別に在る訳ではありません。心は物とは違うのです。

 例えば、心はプロペラとは訳が違うのです。プロペラは羽根が二枚か三枚かの一組で出来ていて、廻せば丸く見えます。見えた丸型の基体は丸くない二・三枚の羽根でしかなかった訳です。これは基体に基づいて丸型が現出するのですが、心はそうではないのです。

 世俗では、こういう事から・連想・類推――これが邪見――で、心に基体が在る様に思ってしまうのです。この連想が手前勝手な推理だった・ドグマだった・という検討・反省を欠いているのです。

 それについては、仏法では<六窓一猿>という誓え話が説かれています。一猿というのは一念心の事で、六窓とは眼耳鼻舌身意の六根(六感覚機関)を指します。六つ窓が在る檻とは身体の事を表現しています。

 猿がやたらに飛び廻って六つの窓から顔を出すが、その六窓から出す猿の顔の他に別に一猿が居る訳ではなく、六窓顔の他に一猿無しで、一猿という実在が在る様に思うのは間違いだ・と教えております。

 それは六窓猿顔を指して一猿と名付けているだけなのだ・という教えです。一念心は、いわば<不一不多・不同不異なる”基体”>そのものがくるくる変っている訳です。この”基体”は名付けも概念付けも出来ない代物なのです。指差して指示する事さえも出来ません。「あれ・これ・それ」とさえも言えません。それは実は”基体”が無いからです。

 現在作用面(ノエシス面)の心は、掴もうとするとすぐ後退して行って、常に把握不可能不可得で所有が在りません。所有が無いのですから対象化は出来ず、対象の無いものには名前も付けられません。つまりこれは心と名付ける事さえも出来ません。非心です。

 そこで、心の”写真”みたいなノエマ面(過去化したものの想起上の対象面)の心を捉えて心と名付け、不正転用なのですが、この仮名をノエシス面に転用して使っているだけなのです。これが非不心です。第八識だろうが第九識だろうが皆そうなのです。識・念・命・生命・何と言おうと内実は皆同様で仮名にすぎません。無にして有の亦無亦有なのです。これが<非心非不心なる如是心>です。