(5)見る識も見られる色も仮和合

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(5)見る識も見られる色も仮和合

 抑も主観と客体とが唯混沌としているだけなら、そこには・意志・というものは在り得ないですね。

 そうです。意志が意志としてはっきりしているのは第六識で、第八識ではまだカオス状態です。能く智情意・と言いますが、これも分析すればそう分けられる・というだけの事で、分析して・これは智である・これが情である・これが意である・と固定してしまったら、これが又実体化です。

 或る意味では・実体というのは・客体を概念の中で固定した所から始まるのです。何処迄も実体に非ず・と踏まえている所が仏法でして、エッセンス(本質)とサブスタンス(実体)は仏法の大敵なのです。本質と実体とは<言葉に騙され>た妄念概念なのです。

 第八識の衝動意志というものは、単に主観の意志とは言えない……。何の因縁で受という作用が起こったのか・という問題が在った様に、自分の自由な意志でもあるが、反面・いわば客体から強制されたから起こって来た・という被制約な面も有る・という事ですね。「自由意志の理論的考察は形而上学的困難に終局する」という問題がここに有ります。

 結局・見る識も見られる色も仮和合だから・そうならざるを得ません。客体から強制される・という作用実体と・自由意志・という思弁実体とを取払ってしまえば、その問題は消滅してしまいます。

 識と色との関係を追って行くと二重構造になっているのです。見る人間も見られる色も仮和合しております。人間も客体の色も地水火風空の五大縁起仮和合体ですし、その上で人の識と客体の色とが更に仮和合しています。色受想行識と書いて・上へもう一つ識と書いてみるとはっきりします。独立した色を独立した識が見ている訳ではないのです。

 上へもう一つ書くと、識色受想行識……。色は物質的な要素で外法、受想行識は精神的な要素で内法です。五蘊は外部(物質的又は事件的要素)と内部(精神的要素)との一体化を示しています。

 識は始まりであって終りなのです。五蘊は無限連鎖ですから・その一駒の終りから又始まりが続くのです。だから上にもう一つ書いて見れば好いのです。そうしたら能く判ります。

 おまけに・色・受・想・行・識・という個々の実体が在る訳ではありません。識色・色受・受想・想行・行識(識待色……行待識)という縦型の相依相待の縁起連鎖で存立しているだけなのです。五支は皆仮名にすぎません。五蘊連鎖は法成立の規範で、仮和合の連続です。無窮無尽です。

 その縁起連鎖の仕方は……。

 受けるとか受けないとか言ってみても、眠っていれば何も判りません。目を覚ましているから受けるのでしょう。だから目覚めている状態・それがこの<識>です。目覚めているから何でも<受>け入れてしまう訳です。受け容れる・と言うか・受け収める・と言うか…取り込む・と言うか・関係を結ぶ・と言うか、とにかくそうなります。

 そうすると・これに対する<想>いを生ずる。心の中で「これは何だ・何故だ・如何にあるか」という問答を生じます。この問答の答によって<行>を起こす。好きだとか嫌いだとか・何だ彼だ・と色々な肉体面・心理面・両面に亘って行を起こすでしょう。この行によって色質を取る。この<色>の受取り手は<識>です。

 そこが納受了別。色によって特色付けられた個別識・という事ですね。

 こうして識が色質を取収めて判断し了別する訳です。了別の原語を直訳すると「現わすという作用」の意味で、現わすから判る、だから了別と漢訳したそうです。識とは了別で、感覚・知覚・判断迄を纏めて指します。これが<識>。この判断が又心の中の第八識へ溜まり込んで来る。インプリンティングされる訳です。刷付けられます。

 色識・識色・の相依相待ですから、色は又その儘判断でもある。外法の色に即して内法の判断を生じ、内法の判断の他に外法の色が実有しているのではない……。

 識の他に外(げ)の色法が実有している・と思うのは世俗の妄分別です。「これは茶碗である」という外の色法について言うと、その様に限定したのは識です。「である」と言った以上、単に物が在るだけではなくて叙述した判断でしょう。限定とは・限った点を鮮明にする替りに・その他・を全て切捨ててしまう事です。

 分別して・取上げ・切捨て・を行使して判断了別すると・又これが第八識の中へ溜まり込んで来ます。ですから第八識という所は・体験・記号・情報・といったものの「出入は瀑流の如し」と言われております。

 だから普通言われている茶碗……「これは……である」と判断された茶碗というものは、色と識とを一緒にして五蘊の記述の頂上に持って来ただけなのです。<仮りの在りよう>という事です。仮りの在りぶり・です。

 それが・五蘊仮和合・という事ですね。無常で次には又さらりと変って行ってしまう……。

 五蘊仮和合は五蘊世間・と言って人心・人身の構造ですが、又、人が認識する外界の対象の構造でもあります。花なら花が実体を持って実有しているのではなく、<見られた通りの仮和合の色(姿)>として在るのです。見られた通りの在りぶりです。

 識とは作用識だ・との事ですが、詮じ詰めた所、識とは一体どんな事態を指示したもの・と言ったら好いのでしょうか。

 広い意味での精神活動です。総体的総合的心理活動・と言っても好いでしょう。一口に言えば心。「心はただこれ名のみなり」……建立の仮名です。同じ様に色の方も又建立の仮名です。受相行も建立の仮名です。然もその儘智法です。そして識は人間の精神活動ですから・マインド・スピリット・の両方を含んでいる・という事になります。

 これも又<インド流義>の<分けない>仕方の方が好い訳ですね。

 識は作用識だ・という所を能く考えてみる事が大切でしょう。対象無くしては思考も識別も有得ないのは当然の事です。そうすると・色に依存しているのですから・体識とか識体とかの独立存在識は在り得ない事になります。この事を反対側から考えてみると、識抜きの独立存在色や実体色・実有色も在り得ない事が判って来ませんか。一人称世界では必ずこうなります。

 色識は物(形)と精神(心)との一体化・というよりも本来分離不可能なのです。三人称世界で論じれば又話は別になってしまいます。そこは理上の抽象であって・真の生活世界ではありません。

 実際には分離不可能なのに分離して考えているのは・人の思考上の方便にすぎません。便宜上のその方便を真実だ・と思うので困ります。

 思考上の便宜手続き・という所を忘れるから、実体化が始まったり実有思想が生じたりします。色識分離不能な無分別の所を直接に把握するのが唯識法門及び全仏法です。

 昔のインドでは唯識派中観派とが対抗した歴史が在りますが、両学説は本来争うべき筋合いのものではない・というお話でした。その辺の関係についてはどうでしようか。

 両学説とも取扱った中心課題は一念心で目標は解脱です。これについて唯識は一念心を・反省を通じて心理的側面から解明し、中観派はその一念心に・反省という行的な論法的側面から肉迫して行った・という差が有るだけです。

 ですから天台の『止観』などでは・両説は補完関係として取扱われ、敵対関係は見受けられません。中国から日本迄長く尾を導いた<三論(中観宗)法相(唯識宗)久年の諍い>は、インドの両派対抗史をその儘持込んだ無益な争いでした。天台において既に関係は正常化されていたのです。