(4)無量世に於ける眼根の因縁は――妄念を生む五蘊の心作用

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(4)無量世に於ける眼根の因縁は――妄念を生む五蘊の心作用

 その予備知識とは・どういう問題についての知識ですか。勿論<識>に関係した事・とは思いますが……。

 ええ。<識>にも関係するし、<色>にも<現量>(感覚)にも<分別>にも<五蘊>にも……とにかく色々広く関係する問題です。<根・境・入・識・十八界>の話です。

 根は・眼・耳・鼻・舌・身・意・の六根。境とは六根それぞれの対境になる・色・声・香・味・触・法・の六境。入は根が境に入いる事で・見・聞・嗅・嘗(なめる)・(澁滑を)貪嫌(する)・審思量(思返して審らかにする)の六入の事です。

 それぞれの根がそれぞれの境を所縁として働く作用が六入で、これに依って六識を生じ、つまりは<認識された根境識十八界>がそこに成立する・という段取りになっています。我々の日常生活はこの様にして組成されております。

 『文句』によると、耳根は「内外十法界の音声を聞く。六道を聞くは即ち肉天の二耳、二乗を聞くは即ち慧耳、菩薩を聞くは即ち法身、仏を聞くは即ち仏耳なり……眼亦是くの如く……」と示されていますが、今はこの局面の話でもありません。

 と申しますと……。

 分別・という事の面に関する話です。まず<眼>の話から始めます。人間では・眼は六根一番遠く迄感覚出来る器管ですが、人が物を見る・という事は一体どういう事なのでしょうか。

 明るくないと・つまり光が無いと・何も見えません。ですから眼根を通じて<物を見る>という事は、実は、物へ光が当たって、波長に従って・波長毎にその物体に吸収されたり反射したりして、偶々見た人の眼へ当たって来た或る<反射光>のその<光>を眼で受止めて、神経がその<感じ>を脳へ伝えて・脳が像を纏めた・という事です。

 この様に<感じ>を脳へ伝えたのですから、眼の良し悪しその他で、人毎に・伝えられた感じと纏め方・が違っているのは当り前で、昼白く見えた雲が夕方は夕焼けとして赤く見える様に、時に依り場所場合により人に依って、見えた世界相・は千差万別になります。誰もそれを拒否する事は出来ません。幾ら眼を擦って見ても無駄です。

 デカルトが「感覚は信用出来ない」と言ったのは当然でした。仏法ではこれを現量と言って、現量虚妄仮と<虚妄>の二字を付けて示す訳がここにも在りました。

 つまり我々万人は、<反射光を見て>いるのであって、物そのものを見ている訳ではありません。暗闇では見えない事がその証しです。神経が伝えた・光の感じ・を受けて、脳が<感じ>をそう纏めたのですから……。新入社員が課長を見ると偉そうに見え、社長が見ると偉そうには見えません。これが<眼識>というものです。この見えたのが<色(しき)>です。

 ですからこの仮立作用の仕組内容を色受想行識(五蘊)と言いますが、その全てが<仮>であって、然も<見>も妄・色も妄・識も妄・な訳です。五蘊の心作用は妄念を生み出していたのです。影像門の唯識で「対象界は全て識(妄識)の影像の顕現である」と言うのは誠に尤な話だったのです。

 こうなると、意識は物質の反映である・というのは成立たなくなります。

 この虚妄を受納した識で我々は納得している訳ですから、納得した分別は虚妄です。分別虚妄・は正しかったのです。ですから仏法では「法の真寂の義を思うて諸(もろもろ)の分別の想い無かるべし」 (『普賢経』)と戒めています。「物を見ている」という想いからして誤りだったのです。見ていたのは反射光だったのです。 

 劇場へ行って見ると、色々な色のライトで舞台を照らします。赤で照らせば皆赤く見えてしまうし・青で照らせば青く見えてしまう。物に色が備わっているのではない事がこれで判ります。日常・白色光の中で暮らしている習慣で、物にそういう色が備わっている様に騙されているだけなのです。

 物は本来・色(いろ)については無記なのです。この無記の所が「法の真寂の義」です。色(いろ)……従って色(しき)は「分別の想い」だった訳です。境法の力に強制された<想い>に過ぎない……これが分別というものです。

 してみますと、事情は他の四根(耳鼻舌身)についても同じです。それが悉く妄念しか生まない・となれば、これは大変な事になってしまいます。いや、現に念々に大変な事になっている訳ですね。この現量から概念操作をして比量を生み出している・となると、比量も又・正しくても<虚妄>にすぎない……。

 比量止まりの世界は「世間虚仮」です。これに対して「唯仏是真」と言いますが、妄は真に対しての妄・ですから、妄を対治して真を得る方法は思量しか無い・反省以外には無い・という事になります。

 その本当の思量は己心の妙法に求める以外に有りませんから、その手立てとして、天台は<妙法大禅定止観行>を教えた訳です。この大反省の元となる虚妄仮について説いた文……法華結経である『普賢経』の次の文を能く能く味わってみて下さい。

「無量世に於ける眼根の因縁は、諸色に貪著し・色に著するを以っての故に諸塵を貧愛し・塵を愛す るを以っての故に女人の身を受け、世々生処にて諸色に惑著せり。色・汝が眼を壊(やぶ)りて恩愛の奴(やっこ)と為(な)し、色・汝をして三界を経歴せしめし故に此の弊使(貪使・愛使・著使の三を指す) の為に盲(めしい)て所見(二乗・菩薩・仏の四聖の慧見・法見・仏見・の三見識の事)無かりき。……眼根は不善なりき、汝を傷害せしこと多かりき」

眼根は不善で我々を傷害していたのです。この様に現量虚妄仮は虚妄分別を強制していたのです。生まれてこの方・慣らされてしまって、可怪しい・と思わなくなっているだけなのです。

 この経文では・他の四根・についても詳しく説いております。同趣旨で、誠に考えさせられる事ばかりです。

 そして・身心については

「心を観ずるに心無し、(心在りの思いは)顛倒の想(おもい)より起こる。此くのごとき相の心は妄想 より起こる」

 「身は機関(全身の全機能の事)の主たり、塵の風に随って転ずるが如く・六賊(六根での六識の事) 中に遊戯すること自在にして〇礙(さわり)無し」

こういう……以上の様な事態が我々の<判断する意志>を覆って支配していたのです。我々の日常はこういう事態下に置かれているのですから、日常生活というものは、転々と六道を輪廻して、只では歯止めが効かないのは当り前なのです。無明覆障です。

 滑って転んで、起きて又そこで滑って転んで「又転ぶのなら起きなければ良かった」などと言ってはおられません。「地に倒れたる者は地に依って立つ」(『止観』)で、仏様の御指南を仰いで立上がら なければなりません。

 只の意志でもそうならば、衝動意志では尚大変です。無意識層で判断を指向する意志について、 判断する主観側と判断される客体とに対する・衝動意志の役割・はどうなっておりますか。

 判断を指向する無意識層での意志というものは、主観と客体との接着剤です。右手と左手とは胴体で食っ着いているでしょう。第八識での意志衝動というのは・内外法に対するそうした”繋ぎ役”です。主観と客体とが縁起存立している場合、第八識の意志衝動がそれを繋いでおります。

 然も、何を客体として選び取り・その客体のどういう側面に関心を持つか・という<関心の有りよう>を決めるのもこの衝動意志の役です。と言っても又・各意志・各識・それぞれ実体が在るのではなく、意志・識・の立て分けも所詮は方便で、元は一つにすぎません。そして一つと極め付けるのも不可です。心は名のみで不一不異です。