(3)八識から出る判断する意志と寂静の九識

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(3)八識から出る判断する意志と寂静の九識

 識はまず感覚から始まります。眼耳鼻舌身の五根に由る・見る・聞く・匂いを嗅ぐ・味わう・触れる・の五入識、これは動物でも同じ事です。だがその他に、これらを統一して感覚を纏めて行くものは何か・という事になって入法識の意識が加わり、これで眼耳鼻舌身意の意(こころ)が出て来ます。法を対境とする意根です。「前念を根と言い後念を識と言う」と言われております。

 この意(こころ)という第六の識を反省的に見詰めてみると、そこに自我というのが出て来ます。デカルトが「コギト・エルゴ・スム」(我れ考う故に我れあり)と言ったあの<我>です。自意識です。自我の意識、第七マナ識の所産です。これは妄分別の執識ですから仏様にはマナ識は無いのです。有って然も無いのです。

 このマナ識は漢訳すると「意識」になってしまい、これでは第六の意識と同じになるので特に「末那=マナ」と梵音を残したのだそうです。意訳した場合は<思量識>という事になったそうです。

 前五識から第六識迄の個々の感覚や意識というものは、そこに確かに意志と意識とは在りますが、・それはまだ「我れ何者なりや」という反省自覚的な意識ではなく、何物何事かを・何かである・と断定したい見惑・とか何々したい・という思惑・に属する・欲望上の意志・意欲その他です。これが現量で、次いで比量と思量とが在り、以上三量を司どるもの・それが第六識です。

 その第六識を反省して発見された所が第七識(マナ・思量識)、自我の意識。但し深層なので無意識で意識されない自我の意識……ここ迄はとにかく妄識ですね。自我についてもはっきり意識した所は第六識となります。

 その第七識から深層領域になります。では果たして、そういう第七識の自意識を持たせる自我というものは、如何なる所から如何なる経過によって発現して来るものなりや・と突込んで行った所がここ……第八識・アラヤ識です。深層基底です。ここも又、第七までと同様、汚れているのです。あとは転識得智・と言って暈(ぼか)しています。

 この第八識は、天親-護法系では・染浄二法を含む・とされ、第八が終点です。天親-真諦系では、この奥へ更に・浄法だけの識・として・第九識・を立てたそうです。後に天台もこの事を認め、天台法華以降は、根源の妙法の境智を<九識心王真如の都>としております。つまり一念三千について・一念は心王・三千は心数・と言われております。

 第八識の染浄二法から浄法を取分ければ第九識。すると残りの染法だけが第八識となりますね。転識得智の智分が第九識という事で、両系で別の事を言い立てた・という事ではない様です。本来皆仮名です。

 以上を総括してみると、感覚と感覚を主宰する意識とで六種識。次が、意識を発動するのは誰か・という事で自我意識の第七識・マナ識。次が、その自我意識その他一切の収蔵所として第八識のアラヤ識。こういう組成になります。

 天親は・意識もマナ識もアラヤ識も皆汚れている・と言って、唯・修行して頑張れば染汚の八識は智に転ずる・と浄化可能を言うのです。第九識を暗示している訳です。智に転ずるのは単に第八アラヤ識だけではなくて、前五・第六・第七・第八・が共に皆転ずる訳です。取残しは有りません。

 第八アラヤ識は習気の一切種子を蔵しているから・所蔵識・本識・という意味で・蔵識・と訳されています。習気とは・習慣的な気分・という事で、前世や今世の前業の・余残気分・の事です。これが具体化し顕現した所を通俗では・癖・と称しています。

 それで<宿習>と言うのですね。人の・個性・というのもこれでしょう。宿業の然らしめたものなのですね。ところで、第七マナ・思量識が反省によってだけ発見出来る識で、自我意識を作り出す所なものですから、六種識は表層心理、第七・第八識は無意識層の深層心理・と分けておりますが……。

 第七マナ識は表と深層との接点役を務めながら深層で働き、第八アラヤ識を対象としてそれを我だと誤認し、つまり一人称代名詞たる仮名我しか無いのに実体我の我だと誤認し、我見の基になる厄介者・だそうです。これが第六識を反省発見して得られるから思量識。これをもう一度思量(再反省)すれば第八識。もう一度再思量すれば第九識です。

 自我の自覚・と言っても、仏法は無我で唯識も無我なのですから、この第七マナ識の自我は、本当は単なる世俗の<仮り染めの自我>でしかないのです。それを捩じ曲げるこのマナ識は、第八アラヤ識の分裂存在でして、表層面と深層面とを繋ぐ鎹(かすがい)みたいなものです。

 このマナ識は・執著を性とする・と言います。膠(にかわ)みたいな性分を持っています。アラヤ識を依り所(所縁)として・妄分別(ヴイカルパ)して我と執する。つまりアラヤから転変して生じ・且つこのアラヤを対象としてこれを我と誤認する妄識です。

 マナ識は・我痴・我見・我慢・我愛・の四煩悩と相応して不断に起きている自我意識で、衆生の迷惑(迷い)の根源だ・と言います。第六の意識は・この第七マナ識を所依として働いている・と言います。第八アラヤの分裂存在マナ識とはこういうものだそうです。これは、第六天の魔王・元品の無明・の正体だ・とも言えそうです。

 そして大事な点は、反省された・或いは第七識から表へ出て自覚されている第六識での我は、既に過去の我・客観された我・つまり我の対象面(ノエマ)で、俗に言う所の・弁証法的に掴まれたもの・だということでしょう。

 既に過去化に由って固型化した不動のものだからこそ、誤認されて<我>だ・と思い込まれる訳です。でもスルメは活きイカではありません。すると、その際・反省している現在作用面(ノエシス)の我はどうなのだ・という事になります。この反省している主観の我(現在作用面)の方は、掴もうとすると途端に過去化してしまい、常に把握不可能です。

 つまり・掴もうとするや否や・途端に何時も空冥の奥深くへ後退して行って掴めず・不可得無所有です。指示さえ出来ません。するとこれは<我>と名付ける事さえも不可能です。つまり我ではない訳です。第七・第八識が無意識層だ・という特徴が能く現われています。

 三諦論においては、仮は意志による判断だ・という事でした。この意志は何識に属するものでしょうか。主観と客体とを分けた上での主観の意志であれば、第六識にも属しそうですし、マナ識にもアラヤ識にも属しそうですが……

 表を見れば当然第六識に属している訳です。第六識を左右しているのが第七識・だそうですからこれに属している・というのも本当でしょう。仮は虚妄の仮も建立の仮も第六識が判断しますが、その意志の出発所は奥からだった訳です。

 つまり本当はもっと奥底の・深層心理の中の無意識基底に在る意志です。主観しつつある現前作用面の意志です。作用面の意志は出発所である基底に在る訳でそこは第八識です。それが第七識目を通って出て来て、それを・ああ意志なのだ・と気付くのは第六識へ出て来た所だけです。つまり基底の第八識のものが根本的な意志です。

 第九識の方はどうなりますか。無関係とも言えない・と思いますが……。

 根本的という事になれば第九識に属しそうですし、それでも好い訳です。でも、第九識は働いて働かない、働かずして働き、染汚には関係しない浄識で・然もノエシス(作用面)ですから、言語道断で論が及び付きません。心行所滅で考えの対象になりません。

 こういう事ですから一応第八識から始まって好い訳です。情報が良いのも悪いのも色々インプリンティングされる溜まり場が第八識ですから、意志の出発所は第八識でしょう。その出口は第六識という訳です。

 してみると、人間は万物の霊長だ・とは言うものの、案外に動物的な意志に左右されながら、それに人間らしい装いを着せているのかも知れませんね。或いは、尤もらしく言訳はしているものの、言訳の皮を剥ぎ取れば動物と大差無い所が多いかもしれません。とにかく・存在判断・叙述判断・反省判断・をする意志は第八→第六識ですね。

 その・現われる意志・は第六識です。然しそういう風に「である」と判断をすれば第八識へ収納されて来る訳です。これはインプリンティング……<摺込み>の問題です。我々の歳になってしまうとそんなに強烈ではないですが、子供やら中学生・高校生・ヤング、あの頃ですと・経験した事が全部強烈に摺込まれてしまう。

 心理学のインプリンティングです……摺込まれて、無意識の領域へ溜まり込んで来るでしょう。それがその人の一生涯の行動の傾向を支配する。これは明らかに第八識の領域です。そこで指導や教育は恐いのです。下手をすると・嘘の始まり・にもなり兼ねません。悪道の始まりにも善道の始まりにもなるのです。

 これは・摺込む側の問題を考えさせられます。責任問題だ・と言えます。猛母三遷の教え・も道理有る事ですね。逆に”無菌培養”でもいけない訳で、その辺の兼合いが大切です。

 ですから、自分ではちゃんと能く考えて動いている・と思っているけれども、然し自分を突上げて来る衝動というものは、知らず知らずの内に、皆・第八識から、第八識の癖(習気)・薫習種子から出ているのです。自分では認めたくなくてもそうなのです。

 こうやって話している私は、甚だ・理屈っぼい衝動・に駆られている訳ですが、この理屈っぽい衝動は自分で自覚出来ないのです。考えて喋っている様でも、本当は、考えているその奥は、第八識での無自覚な衝動の突上げによって考えている訳です。それで理屈っぽく喋っているのです。

 そういう型の人を心理学では分裂型・と言っています。精神分裂という事とは違って、関心と無関心との在り方が分裂している。興味有る事には猛烈に関心を持って熱中し、他の事には全く関心を示さない。

 この分裂型の他に躁鬱型と粘着型とが在る・とされていますが、これは・生まれ付きの気質と体型的な差であると共に、アラヤ識への情報の摺込まれ方の差でもありますね。もっと元には前業の所産……。

 その第八アラヤ識は激しい所でして、濛々ぬめぬめして爆発を続ける温泉の泉源地獄みたいなものです。「出入瀑流の如し」と在ります。気性の激しい人はアラヤ識の活動も敏感で激しいのでしょう。ですから・自覚し自分で意識化出来るのは前五識・第六識迄です。無意識層は第七思量マナ識と第八アラヤ識です。

 人の意志・と言っても、意志として自覚されて判断する意志は第六識ですが、実はその意志の出所は第八識なのです。おまけに・前五・第六・第七・第八・第九識・と言っても、各識の当体がそう重なっている訳ではなく、融け合った唯一つの識しか無く、然も一と数えるのも不適当なのです。全部仮名なのです。前五-第九は作用の種々相なのです。

 天親では、第八識が転識得智して仏果を得る・と言い、第九識・という名目は出て来ません。護法系では転識得智で第八識の浄法分が第九識を兼ねる事になっています。

 ここ迄は天親の唯識説で論じた訳です。そしてその第八識は、実は九識心王真如の都・という絶待不動の浄界領域から出て来るのだ・と、こう来て妙法当体蓮華の一念という真如の都・になります。第八識以下は心数で第九識だけが心王です。この第九識は唯識系でも真諦三蔵の系統では・アマラ識・無漏識・を九識と呼んで認めていたそうです。

 この心王から見れば・心数の第八識は大いに動いている訳です。根本浄識の第九識は静寂な訳です。「動いて動かず・動ぜずして動ず」(亦動亦不動・非動非不動)という所です。分別不可能です。

 心はバイタリティに満ちていて働くが、心王の第九識はそれ自身が動くのではない。西洋で言う<不動の動者>(自分は動かずして一切を動かすもの)みたいな按配です。そして、第九識や判断意志を論ずるには、実はもう一つ予備知識が必要だ・と思います。