(2)著有と五性各別という悪義
(2)著有と五性各別という悪義
著有の点は容易に判ります。然し<五性各別>は元々『解深密経』と同類の『楞伽経』にそう明示されている事です。そこで現代でも、五性各別を悪義扱いにするのは妥当でない・という考え方が在りますし、昔から論争の種で、伝教大師と法相宗・徳一法師との五年に亘る<確実論争>は余りにも有名です。
徳一側は・三乗真実・一乗方便・五性各別・歴劫成道・を押立て、漢土以来の法相義を主張しましたが、伝教大師の『法華秀句』で幕を閉じました。一乗真実が明らかにされました。
五性各別とは、人には先天的に五種の絶対的差別が在り、声聞定性・縁覚定性・無種性・菩薩性を欠く不定性・の四者は成仏出来ない・と言う説です。大学抄にも「(法相宗は)五性各別を立て無性有情は永く成仏せずと之を立つ殆んど外道の法に似たり自他宗の欺きなり」とございます。この無性有情の<無性>は一般に使う<無自性>の事ではなくて<無仏性>の事です。
この五性各別は<今世だけ>の視点から言われた事です。元祖の天親が『仏性論』で「若し大乗に憎背(憎み背く)するは此れ一闡提(無性)の因なり」と言っている通り、永遠の観点からすると、先世で仏種を誹謗したから今世では無性になってしまったのでして、誹謗以前から元々無性だったのではありません。久遠の昔は一切衆生は皆同じで、無性とも有性とも決まらぬ無記の儘の荒凡夫だった訳です。
ところが法相宗では、五性を完全に実体化・個在化し、絶対化して捉えています。
先世の大乗憎背の因で出来た無性者・つまり無種性の者・先天的に<今世では>仏種を持たずに生まれて来た者は成仏しない……これは当り前の事で何も不思議は有りません。但しこれには<その儘では>という條件が付いている訳です。
今世には四性として生まれた者でも、四性も無自性で必ず変えられる筈のものですから絶対性は有りません。改めて法華の仏種を下せば(聞法下種・発心下種)今度は成仏出来る様に性が変ってしまいます。仏種でない権経ではそれが出来ないだけです。
天親は『仏性論』の中で、「一闡提(無性者)が如来蔵(仏性)によって包容される事により成仏可能になる」事を明かしているそうです。法相宗は大元の始祖天親の説に従うべきです。無性の絶対化は戴けません。
『解深密経』や『楞伽経』は仏種を説いたものではありませから、当然・無性有情不成仏・と説いたのですね。
そうです。これを纏めて言えば、二乗と断善根者は成仏出来ない・という説です。この説は・歴劫成道説と共に・何も『楞伽経・解深密経』に限った事ではなくて、爾前経には皆在る事です。何故こんな事を麗々しく経中に説くのか・と言うと、<動執>……「二乗根性や断善の悪心への執著を断て」という<警告>の意味ではないですか。
又、仏種でない爾前経の経力の分位では、迚も二乗や断善根者を成仏させる力は出て来ない・という事でもありましょう。一切経に共通して説かれる「一切衆生誓願度」に矛盾している訳です。「一切衆生悉有仏性」にも「平等大慧」にも矛盾します。「我與衆生皆成仏道」にも違背しています。伝教・徳一の<権実論争>も・つまりはこの点での論争でした。五性各別を巡った論争でした。
皆成仏道論に違背した五性各別論が説かれたのは動執の為だ・という事は判ります。然し経中に何でこういう事を説かなければならないのでしょうか。
それは仏出世以前から経が成立した時迄のインドの国情に由った・と思います。カースト制による階層差別・人間差別思想は、当時は想像を絶する程非道(ひど)かったのでしょう。若しも経文が日本で説かれたものならば、こんな差別は大々的には説かれなかった・と思います。更に、昔のインドの二乗が如何に頑固であったか・が伺い知られるではありませんか。
とにかく当時の実情に由ったのでしょう。こうした爾前説をその経内だけの適用に留めて置かずに、適用枠を一切経全部に迄押拡げてしまう所に、法相宗などの基本的な誤りが在ったのです。
インドの下層階級民、特にアンタッチャブル(不可触賎民)つまりアウト・カーストのスートラム(屠者)などは乞食に毛の生えた様な暮らし振りですから、迚も・仏性を持っている・などとは思われなかったのでしょう。
職業は代々世継ぎですから、屠者などは当然<無性有情>として世間から嫌われていた・と思います。殺生が職業ですから毎日地獄ばかり行じて、いわば職業は”地獄業”な訳です。菩薩性は皆無としか見做されないのも当然だった・と思います。
それに、断善根者は、仏在世の提婆達多の様に、上流や出家の中に多く居る訳です。頑固そのものに凝固まった二乗も、多くは出家と上流に居る訳です。人の説などは皆劣る・と思って耳を籍そうとしないのですから、そういう態度では成道しないぞ・と動執する必要が在る訳です。
この対話では法相宗を論ずる訳ではありませんから、これ位にして、唯識自体の問題へ入りたい・と思います。
唯識では、色等の外法は、内法である識の転変を離れては一切無い・と言います。この・識の転変・という事から、本識の第八識と、これが分裂し転変して生じた第七識・それに第六識等が説かれ、その所が深層心理学との比較で取扱われます。唯識は仏法であって学問としての心理学ではありませんから、比較・と言っても注意が要る・と思います。
唯識では第八・第七・第六・前五識・と言って、漢土・日本の法相宗では一つづつが独立個在視され・体化され・実体視されていますが、本来のそれらは実践(修行)指導の立場での仮説にすぎず、認識理論の立場ではないのです。唯識法門では心を客観的に観察し説明したのを、法相の徒が<心が客観存在>である・と誤認したのです。
<識有>という主張はその為に出来た説なのですね。手段として客観化して観察や説明をしたのに、手段だった・事を忘れて、対象をその儘・客観存在化した。これはアビダルマの法有・の場合と全く同じケースです。
第八アラヤ識を本識・第七マナ識以下を転識・と言って働きの区別はしますが、このアラヤ識と雖も、日常生活の転々とする識から掘下げて<用>つまり作用識として認められたもので、一つの<もの>(体・実体・実在)として、科学的客観存在として実在するのでは有得ないのです。客観存在・実在ではなくて、迷著その人に取っての<実存>なのです。
実際について考えれば・表に六つの識・裏に二つの識が<用>として存立しているだけで、アラヤもマナも客観上での独立事実存在ではありません。前五・六・七・八とポツンポツンと切れるものではないが、承知の上で便宜上輪切りにして<観る>訳です。この<前五→第八>は縦型縁起連鎖です。
前五識を離れた第六識は無く、前五と第六とは不一不異です。以下第八識迄同様です。六窓一猿の譬え・が示す通り体同用異の仮名にすぎない・と思います。
ですから法相宗の八識別体説・つまり第八七六前五各識の別体視は不可で、然も一と数える事さえも事実に即しない実体視の考えになってしまいます。第八七六前五は常に体同用異の仮説ですから、客観存在化して心理学と比較すると、どうしても無理を生ずる・という事を心得なくてはなりません。
然も体同用異の体は縁起体で実体ではありません。識は了別の義で、現わすから判る。現わすのは縁起法によるだけですから、識も縁起識で空です。「定んで有なるは即ち邪なり」(『止観』)です。本来は「但名のみ」の仮名です。
唯識の場合は何処迄も禅定修行の心理学です。現代の心理学は客観心理学です。そこが違う。天親の唯識論を一口で言えば心理学的仏法ですが、学として性質的に言えば・主観する心を自分が内観し反省観察する・一人称世界としての心理学・です。そして迷いを無くそうとします。それを<説明としては>客観的に述べよう・としています。他人の心理を調べよう・というのではありません。
現代の心理学は、本来主観的である個人の心理そのものを、個人から切離して徹底的に客観しよう・という方向で述べている訳です。心理の研究とその応用であって、自分の迷いを無くそう・というのではありません。そこが違っております。これは当然・類推でやって行く訳ですが、唯識の方は反省でする訳です。丸で違うでしょう。
そうしますと、本来主観的である心を、唯識論の場合はその儘主観的主体的なものとして扱っている・と言って好い……。
そうです。主観的なものとして扱う・と言っても、現代の常識で言ういわゆる主観・客観・と分けた意味ではありません。説明は極めて客観的でも、そういう自分の実存を取り抑えた内省内観的なものです。修行上で直接掴まえているのです。
それでやはり目的は解脱に在る。だから・悟れば染汚の第八識は智に転ずる・と言っています。智に転じた局面では、第八識は・在るとも言えないし無いとも言えない訳で・空の<無の辺>になります。無辺に化してもゼロの真無とは違う訳です。生活には実存の<有辺>(客観有ではない)として出て来ます。ここは凡夫と仏様との違いで仕方が無い事です。
普通・今の仏教学では、唯識は唯識、中観の『中論』は『中論』と、ばらばらにそれだけを研究して発表しています。『阿含経』・阿含部のアビダルマ・空観修行の般若部の『中論』・『解深密経』の唯識・果ては『華厳経』や華厳宗義・『法華経』『涅槃経』と一貫した<脈絡>の方は研究して呉れませんから、こういう所は随分片手落ちですね。
そうです。唯識の識、これは阿含部の十二因縁に出て来る識・五蘊の識・そのものでしょう。『法華経』迄来る途中の『華厳経』の「心仏衆生」の心・法華の一念の念・それらと・ここでの識とは、何も当体において変っている訳ではないのです。
華厳宗についてですが、今は普通・天台から遥か後の澄観(七三八-八四二年)を宗祖として取扱っていますが、<華厳経最第一主義>は天台以前の十派(南三北七)時代から既に在り、この澄観の華厳宗以前に、杜順(五七七-六四四年)によって天台(五三八-五九七年)と同時代に華厳宗教義は成立していました。
天台が『華厳経』の「心仏衆生」や「華厳心造」の文を引用したのは、これら華厳宗の教義とは全く関わり無く・独自の見地から引用されたものです。
天親は彼の『倶舎論』の中で「識とは正しく生を結する蘊なり」と五蘊の識を正しく認め、この識を広説するのが唯識の役目である事を『唯識二十頌』や『三十頌』その他を通じてはっきり認めております。然も「法華は秘密(他経には説かれていない極意・という事)なり」と認め、識を法華己心の念に通ずるものである・と連絡付けております。
『華厳経』の方は法界無尽縁起を説いて、無礙円融の一心法界・心仏衆生無差別(三法無差)の理・を明かし、法華での一念三千への下拵(ごしら)え(三法妙)を進めているでしょう。華厳宗義は別に法華の下拵えはしていませんが、『華厳経』は下拵えを進めております。
ですから天台もこの文を引いて一念三千の説明に使っています。唯識の第九識も用いています。こうした各種の爾前経での縁起法門は、実相法門への下拵えの役目で説かれているのです。当然・理解に共通点は在るのですが、天台の引用は華厳宗義とは一切関わり有りません。全く独自のものです。
『中論』の立場は、説次上『華厳経』と『法華経』との中間に位置する『般若経』に依ってはいますが、方便般若と実相般若のうち、法華の義に依る実相般若の立場から・空義を表にした空仮中を説いています。何も唯識とは矛盾しておりません。
こうして、阿含部の五蘊・十二因縁・四諦・から、『中論』の一心空仮中、唯識で代表される『解深密経』での識、『華厳経』での一心法界・という風に、心・識・というものの中味が・諸経を通じて段々深く説かれて来たからこそ、心というものが明らかになり、この明らかになった念を用いて、法華で一念三千に総纏めが成立している訳です。
小乗・権大乗・法華実大乗・と段々深まって来ております。こういう諸経間の脈絡に無関心の儘、生んだ『解深密経』の一切経中の位置には論及せずに、唯識・唯識と・こればかり研究して・さも大事そうに発表するのでは、一面で読者を迷わせ、一切経の大局・諸教行全体の流れ・を見失わせる罪も在る・と思います。