(10)空仮中と有無二道――本覚真徳の実際

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(10)空仮中と有無二道――本覚真徳の実際

 三諦での空仮中は反省判断であって、決して概念ではない・という所が一番大事であるだけに・ここが盲点になる、と思います。仏典は形式論理学へ注意を払って説いたものではありませんから、読み解(ほど)いて行くには余程注意深くなければなりませんね。

 仏典は古来の仕来り通り<分けない流義>で説いていますから、空・中・と宣揚的に表明した時には、既にそのなかに四大真徳が含意されています。こういう語用上では確かに概念でもあるのです。<判断プラス概念>という二重機能の下に使われています。

 四大真徳の我は大我とも言い<無我八大自在>の事です。浄は見思惑・元本無明惑の五住穢(見一・思三・根本無明一の五惑)を超えた無比清浄の事。楽は世俗苦楽を超えた(不苦不楽)自受法楽。常は不断不常の中道常住の事です。有無・断常・等の<二辺見>は悟りの大敵です。

 この断は断見・常は常見・の事です。常見とは、生命は永遠だが・人は人として永遠であり・犬は犬として永遠であり・繰返される生死を通じて人は何時も人・犬は何時も犬・決して変らない・という大変なドグマの外道見の事です。二辺見を息(とど)むる止(し)は寂です。観は照です。

 元々・空・中は仏様が悟り出した判断ですから、能生の四徳が所生の判断のなかへ潜り込んで、何時も合体して働く訳ですね。それで、判断でもあり潜在的概念でもある・という事ですね。

 そうです。例えば、法華の常楽我浄の四徳ですが、この内の楽について「楽も空なり・不苦不楽を仏の楽と為す」(『涅槃経』)という風に説明しています。不苦不楽は反省判断としての非有非無(空)の応用表現でして、世俗の苦楽には捉われ左右されてはいない事を示しています。仏陀の自受法楽は世俗の楽ではない・という事です。

 これで判る様に、仏法は形式論理という形式科学には捉われずに――当時は無かったからでもある――常にこの意味での論理原型は説かずに、実際への応用型で説くのです。応用型でいきなり空とか中とか言うものですから、論理原型の空・中か、応用型での空・中か、初信の内は皆ごちゃごちゃこんがらかるのです。

 初信でなくてもこんがらかります。我々でも結構こんがらかってしまいます。

 ですから、空や中を論ずる時に判らなくなってしまうのは、一つには・対象と判断との区別が出来ないからでしょう。二つには・論理という間接認識と・仏法独得の直接把握(レンマ)及び反省判断との違いが判り難いからでしょう。三つには・論理原型と応用型との区別が付かないからでしょう。更に四つには・判断の空・中・と・概念のそれとを区別し難いからでしょう。焦点はこの四つです。

 存在判断→叙述判断→概念・迄の線は、論理の任務つまり世俗で、分別虚妄・概念虚妄で終ります。仏法ではその概念から→反省判断→自覚真徳・へと進む・という話でした。その転換について論じてみたい・と思います。

 論理学や世俗での考え方は、有(肯定)か無(否定)か――二者択一――で決まってしまいます。ところが伝教大師は「生死の二法は一心の妙用・有無の二道は本覚の真徳」(『牛頭法門要纂』)と言っています。

 真徳という所は空仮中の事を言っているのです。有無(肯定否定)で操作する反省判断での悟り・の点を指しています。生死二法を反省判断する訳です。この「有無の二道」という所が面白いでしょう。「これ有なり・これ無なり」とそこだけでストップしてしまったら、世俗一般の哲学と変りが有りません。然し仏法ではその先が有ります。

 有無の二筋道をどう操作するか・というと「有(肯定)にも非ず無(否定)にも非ず空なり」と、更に「無(否定)にして有(肯定)なり中なり」と、この様に反省して行くのですね。

 そうして達した自覚が本覚の真徳。本覚は<本然在りの儘自受用の悟り>ですから真徳です。この真徳は、決定的判断能力・という意味に取っても良いでしょう。凡人には判り難い判断能力・と言っても良いでしょう。四徳兼備の本覚の真徳を備えていなければ、何についてもこういう反省操作は出来ない・事を示しています。

 それは仏様の立場ですが、凡夫の我々の立場では、自分の一念心を対境にしてそういう反省操作をしないと、本覚の真徳も、唯・仏性として備えている・という、理上の話だけで終ってしまいます。

 三諦の・仮なり空なり中なり・その一つ一つは、有・有でもなく無でもない・無でもあり有でもある・という事ですから、確かに、状況叙述に基づいた反省判断ですが、空仮中と纏めて真徳と照合して取扱った場合には、唯・反省判断だ・という事では済まなくなりますね。

 中も同様なのですが、空というのは二つの性格を持っています。つまり、論理的に二重否定と言われる面は、叙述判断に基づいた反省判断です。もう一つは修行体得の面です。これは、自分が仮であり空であり中である・という状態に成れるかどうか・という面です。外見はどうあれ内面で成就出来るかどうかです。

 両方は全く性格の違った事柄で、二重否定の反省判断が出来る様になつたからといって、それだけで「有無の二道は本覚の真徳なり」という<真徳>が成就した事にはなりません。逆に、仏様ならば、真徳を備えた仏様だからこういう操作が出来るのですから、その操作能力は真徳の一部な訳です。

 空仮中が単に反省判断であるならば、論理として形式だけの事になりますから、その局面では積極性・消極性という事は一切関係有りません。ところが実際に使用する時には・積極性――菩薩道の向上路・向上性――が含味される・と言います。この辺はどう説明すべきなのでしょうか。

 空仮中それ自体の基本は、間違い無く叙述判断の上に立った反省判断です。決して概念ではありません。だが、仏典でこの語を使う時には、それだけの使い方では済みません。再々申して来た通りです。使えば菩薩の位(五十二位)が上って行くのです。

 空(シューニヤ)の非有非無の場合、この非有は、全面否定・真無・全無・虚無(ナーステイ)とは全く違う・と説明した上で、非常に多義に使いこなしています。「若し般若の方便を得ずして空に入れば無の中に堕す」(『大論』)と言う通り、虚無化するのは修行者の間違いから起こる事です。

 その実例は、独覚や権の菩薩等がそうでした。西洋哲学者の中にも・歴史上に色々似た人達が現われました。ショーペンハウエル等がそうだ・と思います。

 普通、小乗は人空を明かし・大乗は人法二空を明かす・と言われますが、その空が消極的な判断で、結局・虚無論を展開する・とするならば、それは断見に堕るだけで、仏様の真意とは逆になってしまいます。

 空なり中なりを体現した人が覚者・仏陀なのですから、非有(反省否定)には・何としても悟ろう・とする積極性が有る訳です。この体現して一身に展開された所を<空性>と言いますから、一切法に当面して開顕された境地が空性で、これは清浄不変で貴重な事態・事柄を指しています。これも真徳です。

 そういう境涯になれば「生死の二法は一心の妙用」になってしまいますね。そこが無作三身如来・という事でしょう。

 こうして、事態は無著清浄な空を基軸にして展開して来る訳です。こういう空性が仏界のなかで実際に働いている妙用を<空用>とも言い、その場面のなかで、事件・事物が空として現われ、物事の相(色・姿)の上に空が実現している所を<空義>と言います。いずれも一連に現われます。

 又「法は知るべく学ぶべく著すべからず」(『止観』)と有為無為一切法への執著(法執)を断った悟りも<空>である・と言います。執著を断つとは、執著して引摺られない・執著から離れる・という事ですから、執著の怖さを明らかにする事です。「令離諸著の離は明なり」と言うのがこれです。

 これで空・中も有無二道の実際も明らかになりました。<有無>は智法でした。

 「有無の二道は本覚の真徳」とはこういう事ですから本当に真徳な訳です。然も以上で尽きるものではありませんから、生涯・行学を積んで会得・体得して行くべきでしよう。真徳は体得事法なのです。

 以上の論議論から一つの結論を出してみますと、同じく智法でも論理学と仏法とは結局は噛合わな い関係下に在りますが、論理基礎論と仏法とは立派に噛合い、その所述の指向線は見事に一致しています。これは大事な事柄です。