(9)三諦の概念化と真徳への転換

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(9)三諦の概念化と真徳への転換

 抑も・相・性・体・は、本来一つのものを三面に分割した話です。それぞれ独立に存在していた三つが寄り集まって一つになった訳ではありません。理解する為に、頭の中だけで三面に分析してみた事にすぎません。こうした相性体と仮空中との関連について考えてみるとどうなりますか。

 相性体は観る対象についての話、有(仮)空中は対象を判断する主体者側の観た操作結果で、その対応によって対象の状況を反省叙述した訳です。相・性・体・は、状況としてその様に・見る窓口を分けて観る・というルールです。それに基づいて、「である」とか「でない」という叙述判断をします。

 ところが、仮空中・という有無二道の操作の方はルールではありません。概念でもなければ論理操作(叙述) でもなくて、反省判断です。有は反省肯定・無は反省否定です。

 仮も空も中も、世俗の用語としては概念として使うのであって、決して判断ではありません。仮空中について、仏法においても概念としての側面は有りませんか。

 世俗は・存在判断→叙述判断→概念・と進みます。論理学ではそこ迄で終点です。勝義つまり仏法では、更にその先へ・反省判断→自覚真徳・へと進みます。

 これによって世俗虚妄の仮が双遮双照されて、建立の仮に質的転換を起こしますから、反省された建立の仮としては、仏法も<存在判断→叙述判断→概念上反省判断→真徳(自覚)>と全体を貫いています。

 この場合、仮空中も当然・概念としての側面が出て来ます。何故なら、事物に就いての仮空中判断であって、事物に就かない空仮中は無いからです。

 そこの所で事物の方から空仮中という判断へ概念が付着して来る訳ですね。

 そうでもあるし、又、そうでもないのです。両側面が有る事を念頭に置いて下さい。言語表現をする時には、例えば「一念心は空である」と言い、これ以外の形では言い様が無い訳です。すると、文面としては、一念心は主語・空は述語・である・はコプラつまり判断詞・という構成になっております。

 空は述語の位置で語用されていますから当然・概念という事にならざるを得ませんが、実際には判断であって概念ではありませんから、この文章は現実と対応出来ない<言葉の遊び>という事にならざるを得ません。

 それにも拘わらず、この言明は決して言語遊戯ではなくて、正しく実相を言表しているのです。こうなると・言語道断である事が判るでしょう。しかもそれを承知の上で「仮り(借り)て説く」のです。今のは事物の方からではなくて、言語の方から概念が付着して来た例です。今の文は「一念心は空ずれば空である」と言い直せば・より正確になりそうです。

 すると今度は、空ずる・という動詞になりました。動詞ですとこれは概念でしかありません。でもやはり判断・反省判断なのですね。正に言語道断です。

 仏法の経釈論では、本来は、対象を判断している判断側について空仮中を論ずるのですが、文章の使い方としては、対象をいきなり空仮中・と言表しているでしょう。ですから、仮はいきなり相であり応身であり・空はいきなり性であり報身であり・中はいきなり体であり法身である・と受取られ勝ちなのです。

 そういう人は、仮イコール相・応身・解脱、空イコール性・報身・般若、中イコール体・法身・法体、という風にイコール化して促えて、空仮中はそれぞれ概念であってそれ以外ではない・かの様に錯覚してしまいます。そうすると、「有無の二道は本覚の真徳」(『要纂』)にはならなくなってしまいます。仏法でのこの二道は反省操作だから真徳なのです。

 その、対象や主語をいきなり空仮中・と言表している所、それが第一段階の概念化と受取って宜しいのですね。

 そうです。然しそれは事物や言語についての形式上の概念化であつて、まだ本当の概念化ではありません。仮りの概念化、仮りの装いです。形式問題でして実質問題ではありません。以下のが本当の概念化です。

 次に、仏法で空だ中だ・と言っている時には、解脱は「それ程清浄なのだ」という想いを寵めて使っている事が多いのです。こういう使い方の上では、空も中も事実<概念化>されて用いられています。

 確かに薄汚れた空や中など無い訳です。又、迷って混頓濛々としている空や中など無い訳です。無常ですぐ消えて行く・常住性に欠けた空や中など無い訳です。この様に・悟り(仏様の我=大我)としての空仮中は、迷いが無くて清浄であり大楽であり常住である・という風に合意内容を持たせられています。常楽我浄です。四大真徳です。

 合意内容を持つ事は概念だ・という事です。ここに第二段階の概念化が有りますね。これが実質上の概念化……。これで終りでしょうか。

 形式論理学ならば、判断は判断で概念ではなく、概念は概念で決して判断ではなく、叙述判断を通じて概念が生まれる・という事になりますが、仏法は直接把握ですから、全面的には、形式論理の網には掛からないのです。空仮中には・更に・熟語化による概念化も在り、複雑です。

 空仮中は判断でもあり・概念としても使用される・という事は、論理学を少しでも習った現代人としては、甚だ迷わざるを得ない事になります。「仮有は差別・空は無差別平等・中は法性」という場合はどうですか。

 空仮中を主語として立てたその場合は、文章形式の上では、概念としての使い方と一致しております。然し内容は、論じた対象について・差別・平等・法性・を言っているのでして、仮・空・中・という判断そのものについて言表しているのではありません。何かが仮有である事は差別を認めざるを得ない・という事です。空・中・も同様です。

 では事象からは全く離れて、「空も亦復(またまた)空なり」と言っている『大般若経』の場合はどうですか。

 「空もまたまた空なり」も、文章上では、上の空は主語で・下の空は述語・とも、又は、上の空は概念で・下の空は判断・の様にも見えますが、この文の意味する所は、「空という二重否定の反省判断行為もまたまた空である」という事で、下の「空なり」という判断は、主語としての上の空つまり<空判断>・というメタ言語の概念の<在りよう>を論じているのです。

 つまり「如何にあるか」に対する答として「空はこの様に在る」と答えたのが今の文章です。何か・何故か・の問答ではないのです。メタ言語である上(主語)の空も、本来は判断であって、概念ではありませんが、<空判断>という行為は特定の性質を持ち、従ってメタ言語たる空つまり<空判断>という用語は、熟語として概念な訳です。

 してみると、仮有とか空性とか中道とかいう熟語になりますと、これは、判断ではなくて概念になってしまう。同じく、仮諦・空諦・中諦・という様に、熟語に形成されると概念になる・という事ですね。

 そうです。とにかく学問として正確を期して説明して行きますと、却って複雑難解になりますから、信仰者の行学の立場なら、とにかく何でも「円融三諦の空仮中は反省判断だ、概念ではない」と心得て居れば済む事です。直載簡明な方が好いのではありませんか。研究家は大いに調べるべきでしょう。