(8)性は体に内属しない――体その儘が性

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(8)性は体に内属しない――体その儘が性

 相については「縁起諸支の焦点について、その法の外面に見えている所を相と名付けるのである」と言えば、余り実体化の余地は無い・と言えます。然し<性>の方は実体化される余地が可成り大きい・と思います。性・性質・と世間で言えば普遍性を持っている事をも意味し、普遍は第二実体として取扱われて来たからです。

 『止観』には「知り易きが故に名づけて相となす」と在りますし、同じく「性はもって内に拠る、性はすなわち不改の義なり、また、性は性分と名づく、また、性はこれ実性なり」と在りまして、形而上学的実体存在論その儘の様に受取られ兼ねません。

 この文を「性は体に内属する不変なる実性つまり自性つまり本質である」と受取ってしまったら、完全に実体存在論になってしまいます。そこ迄は脱線しないとしても、「性とは体に内属する性質の事だ」と誰もが思っています。

 この誤解は非常に多いのです。そこでここから実体化が始まってしまいます。科学知識がそう思い込ませてしまうのです。でも、体の全体がその儘・性の全体なのです。

 確かに科学・特に自然科学においてはそう教えております。「酸素は、水素と化合して、水を作る性質を<持って>いる」と教えています。水を作る<性質>は酸素が内部<所有し>ている・と教えています。

 その<思い込み>が仏法理解を妨げるのです。だから「性は体に内属する」と思い、「体は性よりも大きく広い」とも思い込んでしまいます。ですが、果たしてそうでしょうか。この誤解を振解(ほど)くのは実に困難なのです。体即性・という事に深く注意を払うべきです。解く糸口はここに在ります。

 でも、誤解を解かないと・性の実体化は防げません。それには、何処から手を付けるべきでしょうか。

 性については「性は無自性なる性」でして「性は内に在りて見るべからず」とも述べられています。確かに眼では見えない訳です。然し<法>は「智眼を以って観ずるに一切の性を具す、見るべからずと雖も無という事を得ず」(『止観』)ですから肉眼には見えなくても智眼ならば<観え>る訳です。見と観との違いがここにも出て来ます。

 そして「内に在りて」という所に綿密な注意を払わなくてはなりません。これは「性は体の内に在りて」――これでは自性になってしまう――とは言っていないのです。「性は因の内に在りて」とも言っていないのです。「性は<法>の内に在りて」と言っているのです。この一語の違いは万丈の差です。

 法を直指した存在判断を<体>と名付けた・という話でした。これからは法も体も同一・だと思いますが……。とにかくこうなると、法とか体とか性とかについて、振出しに戻って、原点から再出発し直さなければならなくなります。

 振出しに戻ってみましょう。まず法ですが、法とは縁起の焦点に現出した<出来事>の事でした。二支(又は多支)相待相依の縁起性の<存立>でした。ですから<縁生>です。「相を本となし報を末となし本末悉く縁より生ず、縁生の故に空なり」(『止観』)です。悉く・ですから性も当然<縁生>です。そして十如法は仏界理で法性です。

 ここ(縁生)の所を竜樹は「性は依他起性なるべし」と示しました。つまり相も性も体も悉く依他起性の事柄だったのです。実は、実相説の<法>は十界を示し主には<九界>の事――事仏界は入らない。十如では始覚仏と衆生所具との理仏界(仏界の理)しか入らない。実仏所具の事仏界は入らない――を指して<法>と言っているのですが、ここでは一般化して法一般についての議論にしても差支え有りません。法は無明・十如は明です。

 ところが一般には「十如の法は十界を指す」を事理混合して仏所具の仏界を含めてしまい、九界と仏界とを横並べにして考えています。これは決定的な誤りで、法は十界・主には九界で「諸法」であり、その「実相」は十如つまり衆生所具の<仏界の理>(本地妙法の迹理)で、この九界と仏界(衆生所具の理仏界)とは・縦並べに反省の位置に待置されているのですが、ここの所が仲々理解されていません。九界所具の仏界の理を説いた真意が見失われてしまっています。

 それはさて置いて、論題は・法と体と性との問題です。相は外に拠り・性は内に拠る・のですが、これは法の外(外面)に拠り・法の内(内面)に拠る・という事です。性が法の内に拠るのは当然で構いませんが、唯それだけか・という所に問題が潜みます。

 そこ迄は何の問題も有りません。誰もこの所迄は誤りません。仮令実体論者でも異論は無い所です。

 実は、その<縁起存立した法>が、更に他の法(如是縁)と縁起しない限り、如何なる<性>も顕現しない(無の辺)のです。そして相依した他の法次第で様々異なった(九種類)性が顕現する(有の辺)のです。無にして有(亦無亦有)なる所に・性の性たる本領が在る訳です。然も十如は縦型連鎖ですから決して横型に取扱ってはなりません。

 正にそこの所が誤解される決定点です。誰もが例外無く横型として取扱っています。科学知識の頭がそうさせています。

 自法を正報とし・他法(如是縁)を依報とし、自他縦型縁起の所・にだけ・性は顕現しますから、性は必ず依他起性つまり無自性である事が明らかです。この自法と他法とは互いの位置を入れ替えても同じ事ですから、そうなれば、性は<他法の内>に拠る・という事になります。

 つまり、性は、その<無>の辺では「内に拠って拠らず」<有>の辺においては「内にも外(法)の内にも拠る」(因と縁とに拠る)のだったのです。性は縁起二支の内・つまり・二支の陰に隠れているか・の様な有様を「内に拠る」と言っていたのです。

 正確には、性は、自・他・共・離・よりは生ぜず、唯・因縁からだけしか・生じていなかったのです。無因からも生じない・とはこの事だったのです。これが「縁生の故に空なり」という事でして、性は唯・因縁からだけ生じていたのです。

 それならば、自然科学での化学反応の説明にも充分使えます。寧ろ普通に行われている説明よりも・より正確な説明として使用出来る・と思います。とにかく、必ず依他起性たる性は「内にも・外の内・にも拠る(因縁性)」事は明らかになりました。

 これならば、性は自法の体に内属する事柄ではない事が解ります。従って<自法の本質>でもない事が解ります。性の実体化は充分に防がれました。<性は体に内属しない>……これは、体その儘が性で・体即性・性即体である事を立証する・極めて重大な事でした。体即性よりも体是れ性・がより正確です。

 そして「性は実性なり」ですが、実はこれは、『文句』の十如是の解説の所に「(衆生所具の仏界理の)性は不性・非不性にして如是性なり」と示され、この仏界の理性を「実性と名づく」と教えられておりまして、実性とは中道性の異名だったのです。実性が本質へ通ずる筋道などではなかったのです。詳しくはいずれ後程申し述べます。真相は・体是れ性・だったのです。

 そうしてみますと、「性はもって内に拠る」とは、正報側についてだけの説明であって、依報側からの説明は省略されていた訳ですね。

 そうです。この文は正修止観章での文です。性についての一般論の全ては、『玄・文』及び『止観』の解の章等で悉く説き尽くされた後の・観心章・での話ですから、肝心の話に絞られていて、くどくどした説明は一切省略されていたのです。一を知って全てを知れ・です。一のみを知って後の全ては知らず・では正観章は読めないのです。