(7)中の実体化と無分別体

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(7)中の実体化と無分別体

 三諦の概念化はすぐその実体化へ繋がりますので、三諦の実体化予防という事について、もう少し話を進めてみたいと思います。

 三諦も「名相無きなかに名相を仮りて説い」(『止観』)たものですから、実体である筈は決して無いのですが、「我見(実体在り・という見解)は諸見の本たり」(同)ですから、すぐ実体視したくなります。少なく共、空仮中の三諦において、中というものが基本で・そこから仮と空とが生えて来た様な形に捉えたくなります。これは誤解です。中が根本で空・仮は枝葉の様に思うのも誤解です。本来の趣旨に悖ります。

 この誤解は随分多い・と思います。仏法は究極では中道を説き顕わすものですから、どうしてもそういう形の考え方に傾きます。

 中から空・仮が生えているのではありません。空・仮・中・共資格としては対等です。中が根本で空仮は枝葉であるかの様な形の誤解も、何が本当の中であるか・が判っていない為ですし、又、中―本尊・空―題目・仮―戒壇・の配当から、三大秘法と三諦の理解とが同一視されて起こる事です。こういうのは皆・三諦の<中>を誤解しているのです。

 寧ろ実践面では如是相(仮)最も大切なり・とも言われています。これは振舞い・として仮諦が実践面に表われた所です。又・報中論三の様に、<空>を通じた智慧の面を中心に据える場合も有ります。局局によるのです。折々の論題によるのです。

 中・の根から生えている・という誤解について……。

 中から空仮を照らすのなら好いですが、今の質問の様になると中の実体化です。空仮が、中から生えて来たものではない・という事は、<円融>の一語を能く見れば判りましょう。寧ろ修行の実践面では・仮諦最も第一なりです。「中は能生・空仮は所生、中は本・空仮は迹」などとは言わないではありませんか。

 だから、仮が大事、空が大事、中が大事……これは対告衆にもよるし、法とか修行とか信心とか理解とか・という立場にもよりますし、どれを重視するか・はその折々の一断面です。本来は優劣無記で、優劣など付けられるべきものではありません。極言すれば「一念三千である」と言っても、三千という法数に纏めた・という事ですから……。

 一念は心王・三千は心数・ではありますが、一念は優れ三千は劣る・という事でもないし、一念から三千が生まれた・という事でもない。同様に、中から空仮が生まれたのでもないのですね。

 一念三千については、そうでない纏め方が成立たないか・と言われても、それに返事は出来ないです。これ以上に巧みな表現が在るとは思えませんが、これも、名相無きなかに仮りて説いた仮名仮設の秘妙方便なのです。

 一念が在るから三千が在る・三千が在るから一念が在る・という風に、<から>という<理由付け>で考えるべき事ではないでしょう。仏眼を以って現実を見通したら<一念三千>という現実が在って・それ以外は無かった……という生(なま)の把握なのですから……。

 その点については 『止観』 にこう在ります。

「もし心より一切の法を生ぜばこれ即ちこれ縦なり、もし心が一時に一切の法を含まばこれ即ちこれ横なり、縦もまた不可なり、横もまた不可なり。ただ心はこれ一切の法、一切の法はこれ心なるなり。故に縦に非ず横に非ず、一に非ず異に非ず、玄妙深絶にして識の識るところに非ず言の言うところに非ず、ゆえに称して不可思議境となす」

 この文意は、生じた含んだ・という実体間の関係ではない・という事です。全体で<非実体なる(縁起した)一実円融中道>なのです。<一念即ち是れ三千の中道>でもなくて<一念是れ三千>です。一念を直指して三千・三千を直指して一念・という事です。

 空仮中の三諦は観た結果の悟り、観た対象は三観の対境である相性体です。相は色質・性は心性・体は色心を体と為す・と言われております。相は仮・性は空・体は中・となって来ると、<色心は体>という事から、相性の体は中・となって、仮空は中・となります。

 そこで、中は仮空両方を持っているから、仮よりも空よりも余分なものを持っている・という考え方にもなります。この辺はどう扱うべきなのでしょうか。

 言葉だけから考えればそういう疑問も出て来ます。言語上だけでは確かに、中は仮よりも空よりも何かしら分量上で余計な要素を持っている様に見えます。判断としても・判断をより沢山持っている様にも見えます。これは言葉に騙されたのです。

 だが、何回否定反省を重ねても、増えたのは<回数>だけで・判断が増えた訳ではないし、仮の相・空の性・中の体・などは、分量や数量上の事柄ではありませんから、それは何か・言語使用上の・つまり語用上での錯覚です。相性体の体とは如何なる事か・がはっきりすれば済む事です。円融上では、仮にも空仮中を・空にも空仮中を・中にも空仮中を備えて欠減無しです。

 「……のその体如何」と言う時の体は、対象を直接指示した存在判断を示しています。これは無分別界の対象を切取って存在判断をしただけですから、まだその体については何事も語られてはおらず、この意味ではまだ無分別の儘です。相性体の体にもこの一面が残って附随しておりますね。

 体というのは縁起体であって、縁起の焦点として現出した<法>である訳です。五重玄義の方から言うと「名付けられた実相」という事です。つまり、体とは<事理法について直接指示した面>を言います。ですから三身との対応では・体は法身(仮は応身・空は報身)と言うでしょう。

 『止観』 によれば、その諸法実相での体は、外相と内性とを表裏に備えて一身を支持するもの・という事で、「形成主質」と言われています。<体>の内容は<質>という<法>なのです。つまり「一身支持の形成法(縁起法)」……これが体です。

 体を何か物質的なものに想定して理解したがるのは大いなる誤りなのですね。体は質であり法なのですね。

 そうです。陰妄なる五蘊一念の能作の有様を・取って返して所作という境法の形にして出したのが十如ですから、これは、体とは<一念>そのものを指しているのです。ですから外相である<相>も『心に一切の相を具する事を信ずべし」(『止観』)と強調されているのです。これは、五蘊を説いて十如を具する事を明かした・正観章の文です。

 体は形成主質であって、決して、肉体という形成物質などではない。何処迄も・一身支持の形成法である。ここの所が実に難解・という事になります。

 では、どういう形成法か・と言えば、法界の四大(地水火風)を以って空大(空間)を囲む・という形成法です。但しこれは物体の話ではなくて<識体>としての話です。これは五大形成で識を包み込み・そして識に包まれますから六大形成法になります。五大縁起・六大縁起・というのがこれです。この五大六大形成法を相とも性とも体とも言っているだけなのです。主質は法たる形成六大でした。

 では何処が違うか・と言うと、体は相と性とに待しては、無制約無分別(分別以前)に主語存在として単純に指示されている所、これが体なのです。この主語存在の体に、述語存在として・分別領域の存在として待して来るのが相と性です。主語は述語されて初めて主語の内実が決定されるのですから、主語が大で広く・述語はそれより小さく狭い・などという事は有得ない道理です。普通は述語の方が<より大・より広>です。勿論そうでない例も有ります。

 「あの人は美人だ」という様な情念判断は別として、論理学が取扱う叙述判断では、類種関係の三段論法ならば、常に述語の方が主語よりも概念の粋が大きい・という事になっています。今の場合はそうではありませんね。

 ですから体と相性との関係は、無制約と制約(分別)との関係――これは判断者側の態度の違いにすぎない――では違っていますが、そのものの内実において違っている点は有りません。一法上の相性体・という事です。一法是れ相・一法是れ性・一法是れ体です。一法の三面です。

 ですから相性を体とする・と言っても、体の概念内容は相や性のそれよりも・何かしら余分に多いものを内蔵している・などというのは有得ない事です。違い目は捉え方が違っただけです。見る窓口の違いだったのです。体これ相・体これ性・だったのです。

 ですから、体から相と性とが生えて来る・という関係や、中から仮と空とが生えて来る・という様な、いわば親子や大小の様な考えは見当違いにすぎません。これは体を文字通り<実体の体>と思う実体観から生じた誤認です。相も性も体も実体存在ではありません。縁起相・縁起性・縁起体です。

 但・如是体の場合は、存在判断として「体がある」という事から、反省で相・性との関連へ置替えられて、「その体は相・性である」という反省状況叙述の場面へ転換した・という事です。「がある」から「である」への転換で制約されたのです。