(6)無上智慧による脈絡世界での状況叙述

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(6)無上智慧による脈絡世界での状況叙述

 空仮中そのものは何処迄も判断である事は判りました。判断には、存在判断としての<がある・がない>と叙述判断としての<である・でない>とが在って、形式科学としての論理学が取扱うのは叙述判断の方だけです。つまり、存在判断を承認した上に叙述を築いて行くのが論理です。この辺から更に突込んで話を進めて行きたい・と思います。

 三諦の概念化についての結論は、余り急がない方が好い・と思います。

 三諦がまず判断であれば、判断された事物の方からすると、判断されて<心の中に置かれた>事物側の<状況>というもの(こと)が在る筈です。それがやがては三諦の性質化や概念化へ繋がって来るのではないか・と思いますが、その辺はどうでしょうか。

 恐らく、三諦については、そこの所が一番難しいのではないか・と思います。ここが論理の枠から離れる所になります。まず、その心について<どういう状況か><その事物を含んだ周辺状態はどうか>、これが問題な訳です。三諦の性質化・概念化もまずここから起こります。

 空仮中という判断は・無分別的な分別です。然し判断である以上は分別な訳です。元々・事物は、観の対象にされる以前は、空仮中に対して無記の儘に在っただけです。それが観によって念を繋けられると、仮なり空なり中なりの存在として心のなかへ入り込みました。

 そこで、入り込んだ心についての<状況>、心内の<その事物を含んだ周辺状態>が問題になる訳です。心の中を、その事物の仮の面のみが大きく占めているだけならば、その心は狭くて固く、六道の状態な訳です。

 今度は、空の面が大さく占めている事になれば、その心は広くて柔かく、二乗乃至権の菩薩の状態な訳です。中の面が大きく占めているならば、更に広くもっと柔和でしこりが無くて、不退乃至等覚の菩薩の状態な訳です。

 三諦円融の状態が全面的に心の中を占めているならば、その心は無辺に広く・軽く・非固非柔で浄らかに無礙自在でしょう。双照していて明るく・均衡が取れて実に安定している訳です。これは仏様の状態な訳です。

 以上は、言ってみれば強いて行った説明にすぎませんから、意を汲んで頂く以外には有りません。要するに、判断である三諦が、十界という<性質を持つ>事になり、事物と心とが二而不二で十界のどれかを現じている所が要点です。

 判断は意志から始まって意志に終る・という事でした。三諦共特殊な反省判断ですが確かにそうです。でも始めの意志から終りの意志判断に到る経過を見ますと、そういう意志の操作は、智慧の働きによって裏付けられている事が判りますね。

 智慧です。それも無分別智という無上智慧です。これに裏付けられているから、空・仮・中・という分析分別も・円融という再総合も生きる訳です。この智慧を自らに向けて使用した場合は悟りになるでしょう。

 悟りというのは、これは反省しなければ悟りにはなりませんから、無分別智で空仮中と反省したら、これは悟りです。仮令凡夫の儘でも確かに悟りです。

 その反省は、行者の倫理的な反省であるよりも――これは結果として自動的に付随して来る二次作用である――善悪共に空じて中道へ転化させてしまう反省判断を、つまり、そういう論理的な反省を、行を通じて実現する・という所に、世俗の倫理と仏法の事行との違いが有ります。

 「念々の三仮(心の仮在)を観ずるに、自・他・共・離(諸々の有心体は、自からも・他からも・自他の二からも・更に自他の二から離れた無因縁からも、生じたもの・として認められるものは無い・という事)、単・複・具足(三種の四句分別の事)に非ざるは、見思(惑)の不生なり」(『止観』)と言うのがその適例です。

 この様に<判断→概念→反省判断→自覚真徳>という様に進むのが仏法の特徴です。こういう風に智慧の力で行を進めるのです。

 そういう・否定に否定を重ねる反省によって悟った所を以って、他に対して説明する化他の場合にも、やはり智慧の力を必要としますね。然も反省智・洞察智……。

 この反省という事は、仏法では必ず四句分別的に出来ているのです。四句に重々に反照観察する事は自分に向けても使えますし、他の人・化導する相手に対しても使う事が出来ます。それは、相手を我が己心に抱き取って、自分の己心の法として反照観察するからです。但し凄まじい気迫が要ります。

 四句反省……四句分別による反省というのは、後に第Ⅱ章で詳述致しますが、四度連続して否定反省して行く手続きの事です。前半二度の二重否定が双遮・後半二度の否定が二重肯定の双照・という事になります。その表現が非有非無・亦無亦有・という事です。これが仏法での反省判断・という事です。

 世俗の自己反省の弁証法は正反合だけですが、天台の反省論法はそうではありません。正反合も反正合も合反正も在って融通無礙です。その上に弁証法を突抜けています。仮―正・空―反・中―合と配当して操作して御覧なさい。その事がすぐ判る筈です。

 中が理智による反省的状況叙述だ・と言った場合、この中も判断であって・概念ではありませんね。

 そうです。そしてやはりそれも智慧です。但し智慧が得た法の<理>が表に立ちます。理智・法智です。報中論三・と言うでしょう。現実では常にそうなります。報身のなかに三身を論じ立てる。やはり、中も智慧のなかに立てた中です。

 仮空相等なり・と判断対象の状況を反省叙述する訳です。仮と空とは結局一緒だぞと・こう反省叙述するのですから、やはり法身の中諦というものも、説明をすれば状況叙述です。仮空相等を叙述して判ったり判らせたりしただけでは仕様が無いのですから、仮を空へ導く・相手には導かせる……このエネルギーが大変なのです。だから気迫を要します。

 仏法に三学が在り、学は<修習>即ち実践問題であって、世俗の<学ぶ>という事とは違う・と言いますが、その戒定慧の三学は、戒は戒行の中に定慧を収めたもので、定・慧・も同様なのですが、その戒は仮・慧は空・定は中・と配当されます。戒は何で仮なのでしょうか。又智慧の裏付けの点はどうなりますか。

 戒というのは自課の自律です。他課の法律や道徳とは根本が違います。上座部の二百五十戒・五百戒などは、出家者の能力低下から増えてしまったのでして、これでは・他課の他律・になってしまい、効果が有る筈が無いのです。最早・死戒な訳です。とにかく、戒とは自課の自律を・戒行として自ら行ずる事でして、姿形に行ずるので<仮>です。

 戒は防非止悪。まず、心からそう念じ信じてするのでなければ、戒行も表辺(うわべ)に流れて、本当の<仮>にはなりませんし、仮から応身を成就する事は出来ませんね。戒目に気を取られていたら本末転倒で、戒は成就出来なくなってしまいます。

 そういう事です。世間の交際は、社会の中で必ず他人との関わりの上で成立っている具体的な露わな関係でしょう。他人と相依った関係である以上、縁起の仮有であると共に、脱線しては失礼です。言う事にしろ・働き掛ける行動にしろ、間違ってはいけないでしょう。誠意が無くてはなりません。ですから防非止悪・と言って悪非を戒めます。

 この自ら戒めた振舞いが仮で、自課自律の行動ではあるがその行の基・それが智慧である事ははっきりしているでしょう。やはり報中論三の仮戒です。定慧も同じ様に推察してみて下さい。こうした三学は智慧に導かれた<実践躬行>です。実際、こうい、つ立場に立てば諸外縁に紛動されなくなります。この外縁を普通<攀縁>と言っております。

 攀縁(はんえん)とは・自分を患わせる一切の俗縁・俗務・という事ですね。これは本当に仏道修行の妨げになります。ところが、事実問題としては、この攀縁が無ければ仏道修行の種が無い。戒行を行ずべき相手や対象が無い・という事になります。

 攀縁にするか諦縁にするかは自分次第です。勤行とか自行に集中する時には、攀縁は一時遮断すべきです。遠避けるべきです。化他の場合には、応に・この攀縁を相手にして化導をしている訳です。紛動されてしまっては化導になりません。

 ここ迄の所は、論理学の方から空仮中を見る・という方向で論じて来ました。今度は、空仮中の方から論理学的な側面を見たらどうなりますか。

 仏法では客観世界は論じておりません。それは諸科学でやれば済む事で、昔から俗諦と言って相手にせず、但「如来は世と争わず」という態度で引用するのみです。従って物理的・世俗的な出来事や物品や自然物などは、直接には取扱いませんから、それらの仮を客観の儘空や中と言っているのではない訳です。

 では何について三諦の議論を立てるか・と言うと、<有為・無為の一切法>について空仮中と判断しているのです。これは人間待自然物・物品・生きもの・出来事、そうした<人間と物事>との<関わり>という脈絡世界の<法>について議論している訳です。

 ここに仏法の叙述判断・反省判断の世界が有ります。十界も十如も三世間(五蘊衆生・国土)も、突詰めれば一念も、これらは皆・修行者本人との<関わりという脈絡世界>内での話になっていて、それ以外ではありません。

 その辺の所が初信の時代に途惑う点です。誰が何と言おうと「在るものは在る、有は有だ」と拘りたくなる所です。又反対に、仏法と言ったって結局唯の観念論ではないか・とも思ってしまう所です。

 客観癖というのは、仏法に取って本当に危いのです。例えば<十如>などは、客観の態度で臨んだら永久に解りません。というのは、作用我(ノエシス)の眼前只今の・応に行為しつつあるその一念について相性体力作因縁果報本末究意等・を論じたものなのですから……。だから、相に非ず不相に非ずして如是相・なのです。一人称己心の法の所・然も只今の作用そのものについての話なのですから、客観では決して解けません。

 その為に「一切声聞辟支仏所不能知」と説かれている訳ですね。推理・客観では決して解らない。「唯仏與仏乃能究尽」で・仏様と仏様とだけしか究尽した所ではない。

 客観や推論では到底究尽出来ないのです。十如と三諦は全く同じものなのですから、只今作用中の十如を取って返して言説化したのが方便品のそれだったのです。例えばそこに山川草木が在るとして、それを客観して直ちに・それは空だ中だ・と言っているのではないでしょう。これらは虚妄仮ではあるが、決してその儘空でも中でもありません。

 それらの対象を我が心の中に取込んで、いわば抱取って行動して、さてそこで自分の心が地獄界を現ずるか仏界を現ずるか・という自分が獲得する果報との脈絡の上で反省して、空だ中だ・と判断する訳です。脈絡上で再判断された空と中とは・抱取った山川草木の方へ放出されるから、その上で客観化の形で言う時には、山川草木も空・中なる存在になります。

 そうなる過程が十如という運動・働き・なのでして、これは誰が作り出したのでもない自然法(じねんぼう)です。この様に、対象判断について、自分の果報との脈絡・関わりの上で再判断を下しています。そこが仏法での反省叙述判断・という事です。

 こういう関わりの上からは、山川草木も空であり中である・と判断するのです。「月こそ心よ」がその一例です。こういう状況叙述は、無分別智の無上智慧が備わらないと出来ない事です。正に唯仏與仏乃能究尽です。