(5)三諦の空仮中は反省判断の繋辞

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(5)三諦の空仮中は反省判断の繋辞

 仮や空や中は事物の性質でもなく、言語としては概念を表現した名辞でもない。更に、判断ではあるが、普通に考えられる叙述判断でもなくて、反省判断である・との事でした。空仮中は概念でも性質でも叙述判断でもない・となれば、これは完全に論理学の領域からは食み出している事になります。

 確かにそうです。然し又、この事を明白に出来るのは論理学の力による以外には無い事です。ですから、昔ではこの点は明らかになっていませんでした。この為に、昔の人が三諦を理解するのは容易ではなかった・と思います。今ならば、昔の人よりもぐんと理解し易くなっているのです。

 昔は、論理学は愚か、今の様な明白に組織立てられた文法――インドでは声明(しょうみょう)がこれに当る――というのも発達してはいなかったのですから、智解の面からの把捉については、現代の我々には考え難(にく)い困難に直面していた・事と思います。

 現代でも、空仮中を概念であるかの様に思い、或いは、事物の何か特種な性質・であるかの様に思っている例が少なく有りません。寧ろ多いかもしれません。聞いてみると、半分判っている様で・半分判っていない様な・曖昧な答しか返って来ません。空仮中そのものは何処迄も判断である・それも反省判断である・という事は、是非共ここではっきりさせて置く必要が有る・と思います。

 その点では学者の人達でも例外ではありません。本を読んでみると、事物の空と無とが混同されたり、判断側の事ではなくて対象事物側の事だ・としか考えていない様に見えたり、<有に非ず無に非ず>なのに、天台の空は限りなく無に近い・などと、色々と問題を感じます。

 空は限りなく無に近い・と言うならば、反面、「限りなく有にも近い」のです。仮有なる限り無く遷移して行って止まない縁起無常事象には全く正体が無い……そこを抑えて<空>と事象を<判断>したのですから、限りなく有にも近いのは当然です。

 無にも近く有にも近い・天台は常にこの両面の立場です。双遮すれば無に近く・中から空を双照すれば有にも近く・空に寂せられず・無に寂せられず・が天台の心地です。「無に近い」のではなくて「無に似ている」ならば私も賛成します。境法としてはそうです。然し本当は、釈尊・竜樹・天台の空は、境法ではなくて、何処迄も<智法>なのです。

 内包・外延・から概念ではない証明はされましたが、その他はどうでしょうか。

 まず言葉(名辞)を文法上から分類してみましょう。すると、名詞・代名詞・動詞・助動詞・形容詞・副詞・接続詞・そして・判断詞である繋辞・そしてその他の論理語(或る・全て・等しい・等)・という風になります。

 この内、接続詞(そして・あるいは・ならば)と繋辞(である・でない)は指示すべき外部対象を持っていません。命題文内の脈絡関係を指示しているだけです。この他に<或る・全ての・相等しい>という言語も・指示すべき外部対象を持っていません。これらを一括して<論理語>と言っています。

 現代論理学は<もしもⅩというものがあるならばそのⅩについて>……という・仮定の上の形式主語によって形式諸命題を立て、これによって対象(現実事象)からは独立した所の・文脈上だけの真偽を追及する形式科学です。この点は数式の展開の仕方の真偽だけを取扱う数学と同じです。これらの論理用語は皆・形式語です。

 仮・空・中・という三つの単語は、普通ならば明らかに名詞ですが、仏法が三諦論で使うその仮名形式上の内容(語用)は、仮=有・空=非有非無・中=亦無亦有(第Ⅱ章で後述)という事です。

 つまり、有・有でもなく無でもない・無でもあり有でもある・という事で、この有・無・は反省上の肯定と否定とを示す語用でして、存在を示す<が有る・が無い>ではありません。叙述上の肯定否定(である・でない)でもありません。非有非無は反省上の非肯定非否定・亦無亦有は反省上の亦否定亦肯定・という事です。

 空・仮・中・は名詞なのに、その内実へ踏込んでみると名詞ではなくなっている……。論理学の語用論・意味論・構文論の内、語用によって意味内容が変わった例ですね。非有非無・亦無亦有は構文の問題・とも言えそうです。

 有・非有非無・亦無亦有、これ等は名詞でも代名詞でもないし、動詞・助動詞・形容詞・副詞・でもありません。そうすると後は論理語しか残りませんが、<亦>は<かつ>という接続詞ですが、有と無とは論理語の内の接続詞でもありません。<全ての・或る・等しい>などでもありません。

 してみると<ある・ない>という繋辞群にしか所属する所が無い・という事が判って来るでしょう。結局、空・仮・中・はまず以って繋辞なのです。

 これらが繋辞である事が明らかであれば、空・仮・中・が判断である事は確定します。

 結局、空・仮・中・という単語は、世俗では概念を持つ名詞でありながら、その仏法で語用された内容は<である・でない>と同様に、叙述判断の繋辞と同じ様に、反省判断の繋辞な訳です。空=非有かつ非無・中=かつ無かつ有・と、この様に<かつ>(亦=且)という連言の接続詞を含んではいますが、とにかく判断詞でありコプラです。

 只当然ながら今迄の論理学の中には無く、仏法に独特な・反省判断の繋辞・なものですから、何かと誤解されたり問題を招いたりしているのです。然し形式上だけで言えば、空・仮・中・はコプラ以外の何物でもありません。

 三諦から離れて常識で捉えると、仮は<仮り染め>でも<一時的な在り方>でも、とにかく意味を持ち概念を持つ言葉です。空も<からっぼ>でも<ふくらみ>でも、とにかく、用い出された起源においては意味・概念を備えていました。

 中も<あたる><適>(叶)う><均衡を得ている><中正>という風に意味・概念を持っていて、今でもその様に解釈されている文段などが在ります。更に、何かの事象についての空・仮・中・しか仏法では説いておりません。勿も、論理学でも、応用実用の場合には、何かの事象についてしか有・無を論じない訳でして、同じ事だ・と言えばそれ迄ですが……。

 そこが、形式科学である論理学と、直接把握の仏法との違いなのです。全ての事態から切離して、三諦を三諦そのものとしてだけ取扱うならば、円融三諦の空仮中そのものは、形式上つまり論理学的には、メタ言語の場に位置する空仮中であり、これは判断(反省判断・双照判断)であって、決してその儘概念ではありません。

 然し一次言語としての直接把捉の使用上では、事象について空仮中を言うのですから、そこに<宗(特徴)用(働き)教(効果)>を生じて、概念化されて使われてもいるのです。空ずる・という様に用いれば動詞になるのが一例です。つまり事物の側の方から概念が入って来ます。使用する点では智法側からも入ります。

 そうでない場合は、常に<仮有・空用・中道>という様に、他の語との連語・熟語として使われていて、これらの局面での空仮中は、どれも述部に位置する名詞か形容副詞として登場しますから、判断であると共に意味・概念を備えます。メタ言語として・説明される為に主語として挙げられれば「空用とはかくかくしかじかの事である」と叙述されて、やはり意味・概念を備える事になります。

 結論を言うと、境法としての事物の空仮中、判断・智法としての空仮中、この両面を総合しないと真相は判らない事になり、それを合して本当に空仮中の理解になる訳です。そして、基本は何処迄も智法なのです。