(3)判断は理智作用ではない――判断は意志の行為

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(3)判断は理智作用ではない――判断は意志の行為

 論理学も仏法も「がある」という存在判断から出発せざるを得ない・という事でしたが、この<判断>という事は、どういう心理作用なのでしょうか。心理作用には智・情・意の三面が有って、元より実体ではないし、完全に切離して取扱えるものでもありませんが、好き嫌いの感情は情の働きですし、概念は智による……智で理を追及する思考作用の産物です。この場合、判断はどうなりますか。

 存在判断には当然・智慧も働いてはいますが、その判断そのものは意志によっています。存在判断は意志決断という事です。存在判断というものは、各自が<どういう風に見るか>というそれぞれの見方に従って、最終的に認めた所それ自体が意志の決断で、これが意志判断です。判断は理智行為ではないのです。対象側から制約された範囲内から合理的に選び取って判断を下す意志行為です。

 好き嫌いは感情で決める訳ですが、その好悪判断の判断も意志の決断ですか。概念操作は思考と言って智慧の働きですが、その叙述判断の判断も意志の作用ですか。

 そうです。例えば煎餅について「これは丸いものである(丸い煎餅がある)」「これは薄いものである(薄い煎餅がある)」と形について言っても間違い無いでしょう。「茶色いものである」と色について言っても、或いは「軽いものである」「米で出来ているものである」……更に又「美味しいものである」と味覚を論じても間違い有りません。以上の様に、があるとであるは換置出来ます。

 だから「これは何々である(何々なものがある)」という選定と判断とは意志によっています。何を取上げたか、色・形を取上げたか・材質を取上げたか・味わいや栄養分やカロリーを取上げたか……どの側面を取上げるか・そしてどう結論付けるか・は意志に由るでしょう。問題意識というのは結局は意志です。結論付けも意志です。

 そうすると、感情判断も思考判断も、その出発点の「がある」と終着点の「である」とは意志の作用であって、決して智や情の作用ではない……これで宣しいのですね。

 始めの意志から出発して、言語計算・概念操作をやり、叙述してみて、最後に「である(……であるものがある)」という判断を下すのですから、判断は最早概念操作や好嫌の比較を超え――ここに曰く言い難い<飛躍>が在る――て、意志が選択的に決断する事です。<選択>は意志行為です。

 だから、存在判断も叙述判断も、全て意志から出発して意志判断で終ります。その中間だけを理性(智)や感情が担います。出発点も意志であり終着点も意志判断です。「がある・である」というのが意志なのです。繋辞は認定意志を表明する判断詞です。

 「がある・がない・である・でない」は論理語の中でも、連言の「そして」・選言の「あるいは」・条件の「ならば」・などの接続詞とは区別されて「繋辞」(コプラ)と呼ばれ、繋辞は主語でも述語でもなく、単独で使われる事も無い・ので特殊な扱いを受けております。

 がある・である・がない・でない・と判断を下したのが意志なのですから、繋辞は人間の判断意志を表明する記号であって、これ以外の何物でもありません。だから「存在(ある)は概念ではない」と言うのがこれです。能く、安直に「有無二概念」などと言いますが、これは誤りです。単なる語用上の取違えではなくて、思想上・思考上の誤りです。<有無の二判断>でないといけません。

 「ある・ない」は概念ではなく判断です。存在判断か叙述判断か反省判断か・のどれかです。「ここにみかんがある」と言えば存在判断です。「このみかんは美味いものである」と言って主語・述語の操作の上から性質を論じれば、ここに初めて概念が成立し、これは叙述判断になります。どちらにしても「ある・ない」というのは、概念ではなく判断です。この事はカントが証明しています。

 少し専門的な事ですから説明して下さい。

 その点は沢田允茂著『現代論理学入門』に次の様に在ります。

「昔から『存在は述語であるか』という問題が哲学者のなかで論じられてきた。もし存在(アル・ナイ)が述語であるならば 『赤い』とか、『丸い』という述語と同じように、主語についてこれらの述語を否定すれば主語の性質は変わってくる。『バラは赤い』と『バラは赤くない』 とではバラの性質に違いが出てくる。しかし『バラは存在する』といっても『バラは存在しない』といってもバラ自身の性質には関係がない。カントは……したがって『存在は述語ではない』といっている。」

ここで「存在」と言っているのは<ある・ない>という判断の事・繋辞の事です。だからそれは「概念ではない」と言っております。ですから「有無二概念」と言うのはとんでもない間違いです。正しくは「有無二判断」でないといけません。

 繋辞・存在判断・叙述判断・概念の繋がりが明らかになって来ました。判断と概念とは異質なことである事も明らかになりました。この辺からそろそろ空仮中三諦の話へ入りたいと思います。

 それには、存在判断・叙述判断に対して、第三の判断たる<反省判断>という事を提示しなければなりません。これは論理学には無い事です。論理の終点を突抜けて非論理・非合理(反合理ではない) つまり基礎的体験へ入って初めて出て来ます。

 普通、反省と言うと自分の行為を顧みる事ですが、仏法ではその中でも<判断行為を更に反省>して反省判断という事をするのです。これは<論法的反省>です。判断の再判断です。<観>という行為です。