(2)繋辞、存在判断・叙述判断、概念

f:id:ekikyorongo:20181112185229j:plain

(2)繋辞、存在判断・叙述判断、概念

 論理学では「ある・ない」を<繋辞>(コプラ)と言っています。コプラは<主語と述語との間の関係・を言い表わす言語表現>です。述語に付かないコプラは何の働きも無く、述部に位置せず述語に付かないコプラは在りませんが、述語から切離して形式上だけで取扱う事も出来ます。

 そういう取扱いの一つとして、アリストテレス以来一貫して「……がある……がない」と「……である・……でない」とは全く違った事だ・と言われて来ました。「がある・がない」は、直接判断とか存在判断とか或は単に判断と言い、「である・でない」は状況叙述とか叙述判断とか或いは単に叙述と言っています。

 その<叙述>という事ですが、論理学は思惟を反省する学問だ・という事でした。叙述する・という事は、主語や述語の指す所を見たら、その見た所に一旦踏留まって、反省的に振返る事ですから、<叙述>も又<反省>の一種・と言うべきでしょう。

 <叙述判断>は事態を平面的に横型に展開して見る事ですし、<反省判断>は事態を縦型に掘下げて観る事ですから、この二つは違った事ではありますが、高い見地から眺め直せば、叙述判断は反省判断の大枠の中に組込まれたもの・つまり反省判断の一変種・と言っても好い・のではないでしょうか。

 尚、末木教授は 「現在では、存在判断は特殊判断(叙述判断の内の一つである選言判断の無限和) の中に解消される。選言判断の一種と見做されている」と言っておられました。今の論理学は述語論理学ですから、存在判断・というのは無い訳です。

 空仮中のうち、空と中とは論理学の枠外・という事を承知の上で、空・中と判断の問題との関連を取上げてみると、これは形式科学としての論理学の分野を超えて、どうしても論理基礎論・という哲学分野になる・と思いますが……。

 論理学と三諦論とは、結局は噛合わないで終りますが、とにかく噛合う所迄追及してみましょう。「……がある」というのは直接の存在判断であり、仏法ではこれを仮有、略して仮とも有とも言い、又・現量(直接知識=感覚で知った事)とも表現しています。

 感覚知の現量も、存在判断だ・とは言いながら、感覚知という<知>の面・知識である面・を見ると、これは<概念>で構成されており、この点で<記号という代理者>で知られておりまして、この点では過去の叙述判断経験に依存しております。ですから述語論理学では、叙述判断としての特称判断だ・とされている訳です。ですから次の様になります。

 論理学も仏法もこの存在判断の「がある」から出発せざるを得ませんが、一旦出発してしまうと、論理学も仏法も・最早「がある」を相手には致しません。常に「である・でない」 の叙述判断か反省判断だけしか取扱いません。言い替えると、叙述判断とその所産である<概念>しか相手にしないのです。

 概略は了解しました。念の為ですが、仏法は比量つまり叙述判断は相手にしない・という点をもう少し説明してみますと……。

 仏法は現量―思量という反省コースを縦に辿りますから、叙述という横型のコースは相手に致しません。これは既述の通りです。この横型コースの叙述が比量(叙述知識)ですから、仏法には比量は登場しない訳です。登場する比量は常にメタ現量化して、再び現量としてだけ登場します

 ところがそれをも含めた一切の現量というものは、今述べた通りに、その内容は特称判断という述語側の窓口のものなのです。この意味で、「である」の叙述判断なので、「最早『がある』は相手にせず、常に『である』の叙述判断しか相手にしない」と言ったのです。この意味で、仏法には比量は登場しない事と矛盾している訳ではありません。

 了解です。してみると、私達の概念というものは・どういうものであるか、又、どういう風にして出来て来るのか・という事から始めなければなりません。

 簡単な概念でも難しい概念でも結局同じで、全てについて「これは何だ」と疑問的に関心を持つ事から始まります。それは、実際の現実眼前から離れた……それだけ過去化し”スルメ”化した事象への反省から始まっています。こうして分析・総合を経て<再構成された固型化仮構>から生まれざるを得ないから概念は虚妄なのです。正しい概念であっても抽象有にすぎず、究極においては虚妄です。その<概念>は経過の上では否定の上に築かれた肯定です。

 その、否定の上に築いた肯定・という事は、思考の上では、分別つまり・無分別から切取って立てた分別という点で、一種の切取り操作・という事になりそうですが……。無分別を否定して分別の方を肯定した訳です。

 これは一体何だ・何故だ・これは一体どうなっているのか・と、こういう風に疑問を持つ関心の発動、これは否定性の上に立った一面です。イエスかノーか・という否定ではないけれども、とにかく目当ての対象以外のものを一時一切遮断してしまう。これも否定の一種です。すると目標物がはっきり見えて関心の焦点が定まります。これは自問の問いです。

 それは全体集合(無分別)から肯定集合(分別)を取出して、補集合(否定集合=無分別マイナス分別)を切捨てた事(否定)を意味します。そういう一種の切取り操作になります。これによって<命題>がそこに立つ事になります。

 そして「ああこれはミカンだ、酸っぱい物だ」と答を出す。この事は・ミカン以外を否定遮断し、酸っぱい・という在り方以外を否定遮断して、その上に、みかん・酸っぱい物・という肯定を築いた事になります。この様に・否定に対し疑問に対する答、この肯定された答が概念です。概念は<意味>を担います。これが自答の答です。

 そうすると、最初の「これは何だ・何故だ・どうなっているのか」という所は問いで、「ああそうだ・こうだ」というのは答で、自問自答の問答形態から概念が生まれる・という事になるのですね。

 問答形態を経ないで生まれる概念は一つも無い訳です。これが本来の正統なる<弁証>という事です。ソクラテスは、この仕方を無知なる人に仕向けて、自他問答の形にして行いましたから、彼は<正統なる弁証家>であった訳です。

 この問答形態を叙述判断とも<思考>とも<推理・推論>とも<概念操作>とも言います。存在判断は事物認知と言い、「存在判断は論理ではない」とは言うものの、実はその心理内では<個を普遍で叙述している>訳で、この点では、叙述判断に帰着している訳です。ですから、選言の特称判断だ・と、述語側に吸収されている訳です。

 例えば「これはミカンだ」という存在判断が成立ったのは、それよりも遥か以前に、沢山ミカンを集めて、ミカン以外と比較して、ミカン集合だけに普遍で然も独特な諸点(諸性質)を取上げて、それへ<ミカン>と命名してミカン個物の呼び名にした・歴史が先行していた訳です。つまり、個は普遍で叙述されていたのです。

 そうすると「がある・がない」と「である・でない」とは元来違った事だ・と言われて来た事が怪しくなって来ます。又、叙述判断が存在判断に帰着するのか、存在判断が叙述判断に帰着するのか」という永い間の論争も、どうやら後者に軍配が挙がりそうですが……。

 ところが、叙述判断で得られる普遍概念は、個物集合から得たものであって、個物が先在しないと普遍概念は獲得されない訳です。個物の先在は、存在判断の方が叙述判断よりも先行している事を意味します。局面のこの時点では、大古ならば「劫初には万物・名無し」の状態という事です。そこで「聖人・理を観じて準則して名を作る」(『玄義』)事になります。この準則作名が、存在判断から普遍を作り出す叙述判断・に依っている訳です。

 我々の場合はもう劫初の大古の時代ではなくて、万物に名付けが終ってしまった世の中へ生まれて来ておりますから、いきなり「みかんだ(みかんがある)」と存在判断をしています。そして新しい概念を・叙述に頼って作って行く事になり、ここでも個物が先行し・存在判断が先行します。今の・初めに言った点とこの点との二点では、叙述判断が存在判断に帰着している局面を示しています。

 すると両者間の関係は、応に<鶏と卵>で、循環だ・としか言えなくなります。それでも、昔は・両判断は違った事だ・と言われて来ましたし、現在の叙語論理学では、存在判断は、特称判断として、叙述判断の中へ吸収されてしまっております。

 両判断は元来違った事だ・と言うのは、これはその分域内では正しい・と思います。然しそれで全てが尽きるのではなく、その奥では<元来違ってもおり・違ってもいない>という四句分別の答え方・竜樹の<不一不異=同に非ず異に非ず>と言うのが正しい答になります。

 というのは、両判断は相依の縁起関係になっているからです。「是れ有るが故に彼れ有り」です。両判断の帰着論議についても、どちらが正しいのか・という二者択一は誤りなのでして、事実は循環関係になっていて、その辺が論理(分別)の限界なのです。では?・という事になれば、出発点は日常語用・つまり俗世の<習慣>に求めるしかありません。日常言語に始まり日常言語へ帰るのです。