三諦論と判断論 (1)論理学は進歩する――思惟を反省する学問

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三諦論と判断論

(1)論理学は進歩する――思惟を反省する学問

 論理学は思惟を反省する学問で、数学と共に形式科学を形成しております。この学は具体的思想を展開するものではなくて、現実知識の・内容や実質・には一切関わりません。その替りに・具体的知識を得るについて、正しい推理に欠く事の出来ない規則を取扱います。こうして推理の形式を組織的に研究するので形式科学と呼ばれ、純粋な<思惟の形式>だけを取扱います。

 この為に論理学では一から多へ向かう演繹推理を行う訳です。これがどういう事であるか・は数学を見れば判ります。数学や幾何学では・諸定理は公理群の中に既に全部含まれています。そこで公理間の諸関係を解きほぐして定理を明らかにする手続き・が<演繹>という事です。

 形式科学は、実質的経験科学である自然科学や精神科学などとは大いに違う訳ですが、一般に<形式>は事物に対して<統一作用>を持ちますから、知識の獲得には欠かす事の出来ないオルガノン(機関・手段・道具) になります。

 形式科学は、どんな経験や思想によっても束縛されず左右される事の無いアプリオリ(先天的)な学問です。何かの経験が無くても誰にでも出来る演繹の学ですから、〔2+2=4〕は真・〔2+2=5〕は偽・の様に、唯物論者でも唯心論者でも・仕方や結論は一致する訳で、この点・絶対確実性を持ちます。

 改まって「論理学……」と言われれば尻込みしたくなりますが、何も恐れ入る事は有りません。余り開き直られても困りますが、極く普通に考えれば大概の事は済むものです。普通では済まないのは・基礎論の方なのです。論理基礎論は極めて重要で面倒です。

 「彼は同時に右と左へ行った」「彼は今年生まれて去年死んだ」……こういうのは誰でもインチキだ・と無経験で直ぐ判ります。「張って悪いは親爺の頭、さあ張った!」――これは無経験では判りません。必ず経験を要します。「物は在って然も無い」「事件は事件であって事件ではない」……これもインチキ(偽)だ・と直ぐ判ります。判るのは形式の持つ統一作用の力に依っています。絶対確実です。絶対明白です。経験無用です。

 論理学は、知識獲得の為の・推理の形式・を組織立てて研究しましたので、アリストテレス以来、哲学を学ぶ者がまず学ぶべき<哲学の予備学>とされて参りました。今では述語論理学の<記号論理学>に迄発展して、客観実在からは全く切離されて、純粋な<思惟の形式>だけが取扱われるので<論理代数>とも呼ばれています。

 カントは「論理学はアリストテレス以来・一歩も前進も後退もしなかった」と皮肉を籠めて言いましたが、形式の学であって、現実世界についての知識内実(情報)を一切持ちませんから、この学からは、事実事象についての新発見は何一つ生まれては来ません。これは仕方が無い事です。

 その替りに、今迄言われて来た諸命題(プロポジション)について、その言明が果たして正しかったか偽であったか・を検証するには極めて鋭利なオルガノンになります。更に、これからの言明について・真偽を糺してものが言える保証を與えて呉れます。

 且つて或る人から「何故論理学と数学とは形式科学なのか」と質問された事が有ります。これは数学と論理学との結び付きに対する疑問であった様です。その時は「数学は数の論理で、論理学は言葉の計算だからです」と答えて置きましたが、<形式>という事へ答えていなかった点で「足りなかったな……」と後で反省しました。

 世間では、物事や社会関係・対人関係では・普通、表と裏・立前と本音・が有るものだ・と能く知っていますから、「形式」と言うと、表・立前・を連想して軽んずる気配が有ります。

 コンピューターには、ソフトとして応に情報の<形式>だけを打込んで、これを更に形式操作させている訳です。それで役に立つ訳です。因果は事物の相続を見る<形式>、人の側に備えた形式ですが、変って行く事象にピタリと当嵌る所に、形式の形式たる真価が有る訳でして、「形式だから……」と軽視する心理が有れば重大な誤りです。づしりとした<形式>の重味を汲取らなければなりません。

 当嵌るからこそ<形式>なのであり、当嵌らなければ形式の名に値いしません。カントは論理学の無進歩性を嘆きましたが、今世紀前半以来・論理学は長足の進歩を遂げ、今後も進歩するであろう事を現代の記号論理学は教えております。

 論理学は形式科学ですので、「若しも○○というものが有るならば、その○○について」という形で命題文を取扱います。つまり・常に仮定の上でのみ論理命題を扱います。定言命題もこの取扱いを受ける訳です。

 つまり仮定した主語と述語とで構成した命題文について、名辞間つまり主語と述語との間の内部脈絡について、その結付きが正しいか間違っているか・を検証して行きます。結付きの形式を判断して・形式真・形式偽・を明らかにして行きますから、これは科学であって哲学ではありません。何処迄も・命題内部の脈絡の正当性を追及する科学です。

 然し、基底に哲学の裏付けを持たない科学は在り得ず、そこは論理基礎論・数学基礎論・という事になります。これは論理実証主義者が手掛け始めたのだそうです。論理基礎論や数学基礎論は、今世紀へ入ってから開拓され発展して来た哲学分野で、日本の場合は、二度の世界大戦に邪魔されて、敗戦迄は入って来ませんでした。

 ヨーロッパでは今世紀初めに、ウィーン学団を形成した論理実証主義運動が起こりましたが、それさえ戦前には日本へは入って来ませんでした。そういう事で、日本としては、世界の大勢から半世紀遅れた事になります。

 この論理基礎論及び記号論理学が明らかにした所によれば、過去の哲学問題は、どれも、その内部に言語問題を抱えているのが多く、言語の問題さえ解決されれば、過去の諸問題は大半程解消してしまうだろう・という事です。これは全く新しい発見でした。