(5)主述分離への終局的な問い

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(5)主述分離への終局的な問い

 五蘊説は、客観上の合理的な世界認識ではありません。単なる一つの現量知でもありません。内観上の自分の世界です。

 その現量知を生み出す<からくり>が五蘊という縦型縁起構造の内外相応法です。外物の現量知を生み出す場合については理解し易いと思います。ですが、自分の一念作用を自分で見(観)る場合の五蘊作用を理解するのは、これは困難なのです。ここに反省としての大止観行が在る訳です。この時の<色>は自分の只今の<現じつつある九界>なのです。自己の九界を相手取って色としているのです。

 今は外物についての現量知を取上げたい・と思います。この時の外法としての色も、自然科学の対象の様な自然界を意味するものではありません。それ(外法)は何処迄も・感受され・意欲され・反応され・そして知覚され・自覚された所の、内外相応上の・生きた現実世界です。人が生きて行くのに深く関わっている環境世界です。

 「そこに美しい桜の花が咲いている」と知った時には、それは単に一つの客観的な認識を表現する知的命題・というのではなくて、そこにはもう・桜自体を美しい・と見ている感覚や価値観などが入り込んでおります。花の美を言語道断と感じて「ああ」と賛嘆したら、賛嘆する・という畏敬の思い……価値観が入って来ているのです。

 すぐに散る・と思うと諸行無常の無常観も忍び込んで来ておりますね。

 全体を<その様な>全体そのものとして直接把捉する・というのが無分別の態度で仏法の行法です。ですから解行の途中迄は分けもするけれども、結局は全体観で、認識でもあり反省でもあり自覚でもあり、その全てを引括めているのが五蘊説です。

 そういう全てを含んだ・事物の存在の仕方とその知り方・が相呼応する<相応の型>を示しているのが、五蘊法の場合での<法>という事の意味合いです。この法はテレビカメラみたいなものでして、何でも写し取ります。色を識った際のその人の心性迄写し出します。写し出された心性が表へ表われたのが九界・十界です。

 ですから五蘊説を何か<無味乾燥な法理だけ>のものとして受取っては誤りになります。そこには事物も知性も理性も感覚も感性・感情も活気も・物と心との遷異性(変り異なって行くうつろい)も、何も彼もが入り込んだ全体・が有ります。その上で理法が骨格を成しています。

 分ける事と分けない事との話が進んで参りましたが、論理学によれば、命題はその<人称主語>の種類に従って、一人称命題・二人称命題・三人称命題に分けられ、それぞれ・自覚・価値観・対象認識・を構成します。

 今の場合、外法として立てられた色が、如何なる人称主語として示されるかは、自覚を求めるのか・交流を求めるのか・認識を求めるのか・という人の欲求態度の相違による事になります。人称を分けるのは人の側の方です。

 その<人称主語>というのは、説明しないと一般には判りません。

 主語の分類には、主語となって述語にはならないもの・としての<人称代名詞>が挙げられます。人称代名詞は名詞の代理だ・と思い易いのですが、実はそうではなくて<個物を指示する単語>です。これ以外には表現機能を持ちませんので・人称代名詞は<純粋主語>です。

 純粋主語は、不定人称ならば<どれか>です。一人称は<我れ・私>・二人称は<君・貴方>・三人称は<これ>(近称)・それ(中称)・あれ(遠称)です。これらの人称代名詞が人称主語になります。

 その程度で好いでしょう。

 一人称での自覚も・二人称での価値観も・三人称での対象認識も・全て<無分別の一念>の中に包み込んだ上で分別し、知られて具体的に存在している境智相応法が五蘊に他ならない訳ですね。但・法という言葉が、そういった法を意味するばかりでなく、五蘊の話の中でさえも、存在する事物そのものを<法>という言葉で表す場合も有るのは微妙な問題を投掛けます。

 それは、仏法では<分けない>という流義が有るからです。仏法では内外を無理に分けない。分ける前に手で掴み取ってしまう。主語・述語を分けない。思惟の爼上に乗せる前に抱き取ってしまう。だから何でも<法>という一語の中に収めてしまうのです。

 一切の事象は全て無常ですが、無常という事態の存在の仕方には、その<型>自体としての法が常住しております。諸仏の悟りとしての・如来の作でも余人の作でもない<常なき縁起法>は常住しているのです。

 だからと言っても、この法の不変常住性にしがみ付いて、アビダルマ論師の様に、法を実体視・実有視するのは誤りです。仏法は徒らに境法を説くものではなくて、智法の方をこそ説くものです。

 元々・分別というものは、主語と述語とを分ける所に初めて成立した訳です。これを分離しなければ知的な言語表現も推理推論操作も不可能です。然し主語と述語とを徹底して分ける・という方向を推進めて行くと、挙句の果ては自己矛盾に直面して、分別の限界に行当たらざるを得ません。ここで、最初の前提であった・主語と述語との分離・という事への抑もの妥当性への問いが、終局的に浮かび上って参ります。

 アリストテレスによれば第一実体である所の・或る個物の<実体と本質>を例に取ってみると、実体の方は体の問題ですから明らかに主語側の問題です。本質は実体の質ですから本来・何の添加も無しに、実体と共に主語側(外側・物の側)になければなりません。これは当然です。

 ところが、実体の方はともかくとして、本質の方は、述語側を通じないと絶対に把握出来ない(感覚知・現量知では把握不可能)のですから、この点では述語側(内側・心の側)になければなりません。ということは、物の側へ何か心の側の要素が付け加えられた・という事です。これは<型付け>という要素です。

 この”添加物”つまり<型付け>を見る方の<見るからくり>が五蘊の<受・想・行>です。ですから、本質は述語側に掴み・第一実体は主語側に掴んで、そこにバラバラになる矛盾する事態が出て来ざるを得ないのです。無添加である筈なのに”添加物”が入り込んでしまっている……。可怪しいでしょう。

 この矛盾事態は、実体・本質・が本当は無い為ではなくて、何の体・性・でも生じます。色眼鏡で物を見ている様なものです。

 では、どうしてこういう矛盾が起こって来たか・というと、主語と述語とを分離する・という基本的なルールを立てた所に起因しています。巡り巡ってその大前提(ルール立て)が問い直されている……そこが・前提は常に問い直される・という道理なのです。

 一応の理由は有る・としても、分別という事の前提として、主語と述語とを分けよう・という仕方そのものが・果たして何処迄妥当か不妥当か・という問いを突詰めたらどうなるでしょうか。その分ける事への執著・が反省される以外には無いでしょう。そうしたら否定し双遮して、その後に再び照らし出す他は無くなります。

 天台が「絶言」と言うのはそこなのです。以上が悟りへの・自行への過程です。次に、悟りを人に説くには、論理というものの不完全さを承知の上で、論理規則に従って法を説く。

 そこから今度は、分別を徹底する事による矛盾をバネとして無分別へ入り、無分別に立った境涯から、主語・述語の分別という操作を照らす立場が出て来ます。終局には廃さざるを得ない主・述の分別・という途中の過程を通じてこそ・人智が開けて来る・というのも興味有る現象です。

 又、何処でどう迷ったか・も歴史の上に明らかとなります。然し時代が替わっても、以前に迷ったのと同じ道筋で迷っている場合も決して少くないのも、興味有る事実だ・と言わなければなりません。

 六師外道がウパニシャツドを乗越えようとして果たさずに逆戻りし、又、後期アビダルマが大勢としては実体論(実有論)に転落せざるを得なかったのも、唯識法相宗が仮名存在にすぎない識を実有実体視したのも、結局は主語主義に引摺られたからでもあります。

 我々でもそうです。日常生活は特にそうでして、事物つまり主語存在に引摺られて暮らしています。世の中は、主語(存在)を巡って解釈競争をしている様なものです。生存競争は主語解釈競争での智慧較べ・力較べです。それで自分を見失ってしまいます。

 元々・言語世界というものは、極端な言い方をすれば、実体仮定の上から出発しています。「一陳述が終わる迄は・一用語の概念内容を固定して変えない」という語用上の約束が、論理を実体化の方向へ追込みます。この為に、言語で説明すると、実体としてモデル化された世界の方が、より根源的な実在世界(法世界)の様に錯覚されて来るのです。一旦錯覚したら心へ染み付きます。

 そこで、前提が常に疑われて、怪しい怪しい・と言いながらも、結局はそれに掴まってしまわざるを得なくなる。こういう基本的な性格が学問には付いて回ります。考えてみると、六師外道やアビダルマと現代の我々とは・随分違っている様ですが、案外・躓いて低迷している基本線は同じだ・という事も有るのです。これが<法執>というものです。

 そういう基本的な躓きの根の一つとして、<無我>という事の理解の困難さ・が有ります。私にはこう見える・と、何の因縁でこう見えているのか・という大きな差の話が前に在りましたが、有我からは、こういう発想は到底出て参りません。主語の・何であるか・は低い問いで、何故か・はより高く、如何にあるか・が一番高い問いです。有我・無我の立場はこれにも対応している・と思います。

 何であるか・は、答の方も主観的にならざるを得ませんから、ここには<私>が登場し易い訳です。「何であるか」・「答う、私には・こうである・こういうものが在る・と見える」という事になります。

 何故か・如何にあるか・に対しては、問いも段々と普遍化して来ていますから、当然・答えの方も・普遍化した答えになります。普遍化に連れて<私>からは遠隔りますから、ここでは<私>は不要で、無我の方が好い訳です。そこで、高級な問答として「何の因縁に由ってこう見えているのか」という事になって参ります。すると主語主義に引摺られる必要は無くなります。

 ともすると陥り易い常識的な立場・が無意識に前提している<素朴実在>というものは、結局は自分の外側に仮構された主語世界です。然しそうかと言って、仏教は、そうした主語優位の世界に対立する・述語優位の世界に定位するものとして、単なる述語主義の宗教だ・と言って好いかどうか……。

 普通・世間で言われている様に、超越神・創造神を立てるキリスト教イスラム教が、一種の存在論であり主語主義の宗教であるのに較べて、仏教は唯心論であり述語主義の宗教である・と言うのは一応の所は正しいのです。

 けれども・仏法の場合は内外相応法ですから、主語・述語を引括めて己心の法としている・という意味で、単に・述語主義の宗教だ・とは言えない事になります。こういう限定の仕方は余り芳ばしくありません。感心致しません。世法に随順しすぎています。

 主語と述語とを包攝した・というよりも、一心の展開において・世界を肉団で体当りして掴み取る宗教、無分別智で照らし出す中道不可思議・不可説の宗教なのです。ですから常識では到底・仏法は理解出来ません。仏教は、述語主義の宗教でもなくて、反省自覚主義の宗教です。いわば、反省自覚述語主義なのです。主義化は感心出来ないのですが……。

 何々主義・というのは左翼系で使う語用ですから感心出来ませんが、主語主義の宗教・という使い方は世間の一部には在りますから、それに従ってみた迄です。常識で仏法は理解出来ない。この事は、六道の衆生と仏様との境涯の落差が余りにも大きく、反省自覚の困難さがそれに輪を掛ける為でしょう。

 だから取付き難(にく)い。信心し難い。世界中で一番信心し難い宗教だ・と言われております。信心しても教学の方は放り出してしまう。各宗派の僧侶は仏法を俗化して大安売りをする。車の守り札の乱発はほんの一例にすぎません。”バーゲン宗派”ばかりが流行る。それを見た民衆は、仏法はそんなものか・とバカにする。この様に、衆生とは仲々もって誠に面倒なものです。

 「(諸仏)世に出ずるとも是の法を説くこと復難し、無量無数劫にも是の法を聞く事亦難し、能く是の法を聴く者・斯の人亦復難し」(『法華経』方便品)と言われております。困難は三重だ・と指摘されています。

 「無量の国中に於いて……真の仏法の)名字をも聞くことを得べからず」(『同』安楽行品)とございます。常日頃目に触れている一般の寺や”バーゲン宗派”など、あれ等は仏法ではないのです。この頃堕落したからではなくて、抑もの最初から仏法ではないのです。その上に、法を聴く者亦復難し・だから益々大変なのです。