(4)主語・述語と五蘊説
(4)主語・述語と五蘊説
ここで主語と述語との対応としての五蘊説について考えてみると、元来釈尊の真意としては、アビダルマの様に「色は外法で受想行識は内法だ」と断定したのではなく、もっと広い心地から、内外が相い応じ合った相応法・内外相応法として述べていたもの・と思われます。
まず何よりも・五蘊とは、内外や物心を輪切りにしない・区別しない……主観・客体の対立以前に、自分と何事かが何等かの法則通りに<調和して>有る・という事の・最も基本的な有り方を意味する・自他一切の存立の縁起法でした。そしてこれは智法なのです。一人称の智法ですから三人称の境法ではない訳です。一人称の境法でもありません。
三人称の科学でも・分けたら後で必ず合わせる操作をします。内外を分けるのは一応の便宜処置であって、その儘固定化してはいけない・と思います。
現代風に言ってみれば、何かが在るのは外法が在るのだ・と言うけれども、何かが<その様に……如実に>在る・という事は、受想行識によってのみ在り得る・という事です。何か外的で主語的なものが<その様に>在るという事は・こちらから仕向けた反省述語的な要素が有るからである。これが一人称での特徴です。
もう一つそれを逆に見れば、<その様な>主語的なものが無ければ、反省述語的な<要素>も述語する心の働さも出て来ない・という事です。主語存在が心の扉を”ノック”しなければ・心は”返事”さえしないのです。
確かに主語存在は外的なものではありますが、一念心において<その様に>有る以外に在り得ようは無い。主語存在は主体存在(見る我れ)ではないから、人に対して無記の儘在る事は無い。見られた通りに在る以外に、<在る>か<無い>かを決める事は出来ません。勝手に決めたらドグマです。
諸科学の存在・主語存在では、そこの所が抜けている訳ですね。
そうです。それでは・もう一方の一念心とはどういうものか・と言えば、外的なものが在る事に<依って>一念心が起こるだけであって、外的なものが無ければ一念心も起こり様が有りません。
ですから、こちらは内的で述語的な一念心であり・そちらは外的で主語的な存在物である・という様に分ける事が抑も妥当でない・という訳です。
つまり主語・述語を絶して、主語・述語を引括めたその全体・総体が現実の事象だ・と把握したのが・釈尊の説いた五蘊説なのです。この五蘊説は無味乾燥な数学公式などとは訳が違いますから血が通っています。”血も涙も”有ります。
五蘊は躍動法です。この事は全ての五蘊仮和合体が一切万象を作り、地獄にも天界にも仏界にもなる事で解るでしょう。五蘊は迷いも作るし悟りも作ります。苦も楽も・不苦不楽の常楽も作ります。
それでもやはり色と受想行識との相違は無視する事が出来ません。この為に、色は客体的で外的な物の存在の法・受想行識は主観的で内的な心の存在知覚の法・として色心内外の二種類に分けて解釈する思想が、軈(やが)てアビダルマにおいて支配的になって来ます。
分ける・という仮定操作を通して・全てを客観して行くアビダルマの分析的な手法が、後に竜樹によって、仏法ではない・として破折されたのは周知の事です。
一応は色を外法とし・受想以下を内法とする・という仮定的・便宜的な考え方そのものが間違っている・というのではありません。それは存在と認識・客体と主観・という極く普通で当り前の話にすぎませんから、仏様がそれ迄「やめろ!」と言った・とは思えません。でもこれは世法の手段です。
「如来は世と争わず」で、仏は世法に順じて法を説く・と言います。。仏様の説法も・いきなり仏法・という訳には行かないから、世法を手掛かりとして出発するのだし、又その世法以外に全く別に仏法が在る訳でもありません。但・色心と内外とを分けた儘にして置くのがいけないのです。
「分けたら合わせて元へ戻せ」で、主語と述語・外法と内法とは不一不異・不二一体・だとして、何処迄も引括めて把握しているのが釈尊の五蘊説です。
五蘊説は境智法を説いた智法ですから、分ければ智法にもなり境法にもなるのです。ですから山川草木の存在法でもあります。こういう境法でもあるのです。でも・それだけで終り・では、基本を知らない・と言わなければなりません。分けたら又元の境智法に戻すべきです。
アビダルマが、色は外法で物の方・受想以下は内法で心の方の問題だ・としたのは、現代合理主義に近付いた様ではあるけれども、実は釈尊の真意から離れてしまっているのですね。
そうした区別そのものは間違いではないが、特殊な狭い局面に五蘊説を限定し矮小化してしまったものとして、アビダルマの功績の様でもあるが、実際は罪である・と言わなければなりません。例えば『止観』の正観章に出て来るのは正しく釈尊の五蘊説ですから、アビダルマ的な解釈で理解しようとしてもそれは不可能です。
これと同じに、釈尊の真意に合った唯識説ではなく、著有の法相宗の様に、アビダルマ的な唯識説理解が行われた・等々は、皆・アビダルマ的な考え方に引摺られていたのです。という事は、結局、外道に引摺られた事なのです。方師外道化です。
無分別な法界の中から、色が・見られたものとして・識に包まれた形で現われて来る・という事が<受>の意義です。こういう生(なま)の事実を反省的に分析した時に、包まれた色が主語として・包む識が述語として取出される・という事にすぎません。ですから色受想行識という五蘊の並べ方からして、それが時間的な前後関係を意味するもの・と理解してはならない筈です。
五蘊も又名のみの仮名で、この仮名なる五蘊は現前一念の所作です。一念の所作・というものは時間を超えている――作用時間は常に対象時間に成り得ない――のですが、無理に時間的に言えば一瞬という事です。五蘊の並べ方は、説明の手段として順序を立てているのですから、理性的な・つまり論理的な前後であって、物理的な時間の前後関係ではありません。
但、論理的な順序で述べないと人が理解出来ません。然し・何処迄も論理的な説明を押詰めて行くと、今度は何処かで論理は循環し・行詰まってしまうものです。そこで究極には・論理では駄目だ・と言って離れなければならない……。離れたら実践世界へ移らなければなりません。
五蘊説の前提である<受者空>という無我の教えは、『雑阿含経』(巻十)の次の一節に大事な主張として出て来ます。「為誰受 我不言有受者 汝応問言 何因縁故生受」 (誰をか受くると為すや、我れは受者有りとは言わず。汝まさに問うて言うべし、何の因縁の故に受を生ずと)
これは色受想行識の相待連鎖について、「色を受用するのは誰か」と考えるのは間違いだ・と言っています。「何の因縁によって受用という働きが起こるのか」と考えるべきだ・と言っています。
現に三人称世界ならば<見る人>は誰でも構わない訳です。特定の<私>は無用です。二人称・一人称の世界になって初めて<私>が登場し、「私にはこう見える」と、何時でも<私>というものを立てて、それに執著しているけれども、そういう考え方自体が迷いの出発点だ・というのが、仏様のこの教えです。無我の教えとはこういう事でした。
抑(そもそ)も・見つつある我れの私というものは、無記なる非私非不私の仮名で、私とも私でないとも言表出来ない無制約者なのだから、「私にはこう見える」ではなくて「何の因縁に由ってこう見えるのか」と問うのが正しい・と言う。
無我の教え・というのは、単に但、自分にも何にも実体が無い・と言っているだけではないのですね。無我から必然的に引出されて来る<発展理論>が大事ですね。
そういう事です。全ては縁起によって存立しているのだから、「私がこう見る、私によってこう見られる。だからこう在る……」――その<私>というものを引込めてしまわなくてはならない・という主張です。
見つつある作用我は・私でもなければ私でないものでもない。それをさも確定した不動者の様に決め込んで持出すのは、無根拠なドグマにすぎないのです。この様な<私>なのに、それをさも確定した事柄の様に持出すのは、無根拠なドグマの横車を押す暴挙なのです。つまり<妄分別>なのです。
そうであれば、デカルトの「コギト・エルゴ・スム」(我れ思う故に我れ在り)はドグマで、否定されてしまいます。
この様な、”権利”も無いのに勝手に入り込んだ<我れ>を引込めてしまって、その”空席”へ縁起法を入れるべきなのです。そこで、何の因縁によって主語世界を立てているのか、何の因縁によって反省述語世界が存立しているのか・という様に考えなければならない訳です。
「物事を考える場合には、どうしても考える主体者である我れ・というものを想定せざるを得ない」という考え方を乗越えてしまうのです。色も受も……識も<因縁生>で、自よりも他よりも自他の二よりも二から離れてよりも無因よりも生ずる事は無い・と判れば好いのです。
そういう<私中心>の考え方が唯一絶対ではない……寧ろ虚妄なのだ・と判れば視野は大きくなります。「私にはこう見える」と「何の因縁に由ってこう見えるのか」と・どちらが勝れどちらが劣るか、それは言う迄も無いでしょう。
ここで、無我という事に付いて回る一つの誤解に対して、注意して置く必要が有る・と思います。それは、無我の立場が・一切の我(実体)を徹底的に排除する・とは言っても、現実の日常生活で喜怒哀楽を経験しているこの我れ迄も「無い」と主張しているのではない・という事です。これは継続して在ります。
この我れは、常に縁起法を現じ続ける不一不異なる私でして、三世に亘って何時でも現象として縁起存立しているのであって、実体存在ではない・という事です。日常の<我れ>は唯の呼び名にすぎません。中味は無常継続体です。
「受――識の当体者である我れ」という考え方は不都合千万ですが、そうは言っても一人称代名詞としての我れは在ります。普通・日常生活或いは日常の思索で「我れ、私」と言っている一人称代名詞の私・というものは、続いては行きながら瞬間的な・局面的な・断片的な自分にすぎません。
要するに、私と貴方とが話をしていて「私が、私が……」と言っている時には、それは、<貴方に対する私>つまり縁起関係で生じた<自他>であり<折々の我れ>なのです。映画のフィルムの一駒一駒みたいなものです。
それは何等<自覚された自我>の様なものではなくて、自覚以前・或いは究明以前のものとして、只そこに縁起を現じ続けながらもう一重・縁起存立して続いている<小間切れの我れ>というもので・しかありません。二重縁起の無実体です。無常変化継続体です。
それを今度は、時間的に、昨日の我れと・今日の我れと・明日の我れとを並べて、実体が在るか無いか・という<我れについて>の議論を始めると、仏法以外では殆ど過半が有我の実体論になって参ります。
そういう弁証的反省自覚・という作業を通じて、反省された時に初めて把捉される哲学的な自我・というものは、本当に在るか無いか・は別として、一人称代名詞としての我れとは違ったものです。これも又・作用我とは言えない代物――乾上った”スルメ”――で、前述の通り・作用我は我れとも私とも言えないものです。