(3)仮(主語)空(反省述語)一如の円融中道

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(3)仮(主語)空(反省述語)一如の円融中道

 始めに世界を内外に分別する事によって、一切法を外法として主語世界が立てられます。ところがその主語の仮を・即是空なり・と内法に攝する述語世界が展開する事によって、外法も所詮は己心の法に収まり、一切法は外法でもあり内法でもあって、内外の区別が消え去る・という事態が明るみに出て来ました。

 アリストテレスは彼の論理学の中で 「述語の位置に来る第二実体(普遍の事)は主語の位置にも来れる」事を示しました。誰にせよ普遍をやたらに大事がる考え・は誤りなのですが・それはさて置いて、これに似た事が内外法の間に起こります。

 一般的には外法を一切法・と言う訳です。では内法はどうなのだ・と言われれば、内法も又一切法の内だ・と言わざるを得ません。外法と雖も内法化(反省述語)する事が出来るし、又内法も外法化(主語化)する事が出来るのです。

 相互に交流円融して、それが実相を成している訳です。つまり外法というものは・内法と呼応して・内外相応法である事に依って己心の法になって来るのです。本来・相応法ですから、内外に分けるのは只一時の便宜でしか無いのです。

 何も・外法という独立したものが、先験的分析的に・それ自体として在る訳ではありません。内外相応法のうちから外法という側面を取上げてみれば、こういう事が論じられる・という事にすぎません。

 そういう訳です。それが結局、内外相応法である・という極点の所へ到達して、やはり外法も己心の法である・という事になって来るのです。内外を分けて論ずればこうだ・という理解の段階から、真実の悟りの極点に到れば、内外相応法という<不思議一法>しか無いのです。これが「諸法実相」の諸法に他なりません。諸法は分別された挙句・結局・無分別法に還るのです。

 自我を反省する自覚においては、自分がまず、見る我れと見られる我れとの二つに分裂します。外に色法の世界を実有として見ている場合には、こうした我れの分裂は有得ません。この反省自覚に対する「心(我れ)は但これ名のみなり」という我れの在り方は一体どういうものでしょうか。

 反省自覚の場合、我れと言い一念心と言っても、見る方と見られる方とが有ります。見られる我れ・見られる一念心の方は、既に過去化し固型化して形の整った・述語し得る状態で縁起仮有の主語世界を構成します。これが所開の辺です。これに対して、見る我・観る一念心の方(能開)は、仮即是空の自覚的述語の実相世界を開く訳です。

 見ている作用我の方については、それが実体か非実体か・体か用か・……・などは一切論じ得ない事です。正に見ているその時点ににおいて見ている我れそのものを論ずる事は、これは万能の神様でも出来ません。論じ始めた途端に過去化し乾上り固型化し対象化して、見ている作用我そのものとは別物(対象我) になってしまいます。活きイカのスルメ化です。

 それは自分の写真を見ている様なものですね。対象我は最早活きてる自分ではない……。

 見ている我れは確かに自分には違い無いが、常に一切述語不可能・思惟不可能な無記の場に居ます。これは「我れ」とさえ・「我が心」とさえ言えない在り方をしています。非我非不我如是我という訳です。

 実は、実相の十如もこれなのでして、諸法(一人一人の作用九界)の相性体力作因縁果報本本末究竟等・このどれも、現じつつ・働きつつ・ある・そのものは、全く無記でしか無い訳です。ですからそれを無理に記述化すれば「体に非ず不体に非ずして如是体なり」(『文句』)としか言い様が無いのです。相-究意等・皆同様です。

 これはさて置いて、ですから天台は、この無記なる見ている現在我を「心(作用我)、は但これ名のみなり」と喝破したのです。「私には……と思われる」と言うこの主体者の私は・但これ名のみの仮名我・でしか有得ない訳です。

 反省思索での見る我れと見られる我とには、仮令瞬時とは言え時間上の前後関係が在ります。一瞬にして見る我れは見られる我れとなって、見る我れが限り無く後退する遡行に果てしは有りません。遂には分別を失って、無分別の境智に立たざるを得ない訳です。そこは反省だけの判断知になります。

 この見られる我れは時間的には過去の我れの影像であり、見ている我れは現在の我れですから、同時ではなくて、この反省は矛盾律の手が届かない場で行われている事になります。

 この反省は矛盾律が関与出来ない操作です。然し「矛盾による攪乱は伴う」とされています。一なる我れを二にしてしまうからでしょう。そして我れの反省に限りは無いからこそ、円融した所でストップになる訳です。そして、我れ我れ・私私・という我執を捨ててしまうのです。俺が俺がという思い<我執>を捨てるのです。

 するとそこでは、縁起仮有なる主語世界と・仮即是空なる自覚の述語世界との両方を引括めて、境智和合の中道・だという事になってしまうのです。仮空一如・主語述語一如なり・というのが円融三諦中道の世界となって来ます。これで空仮中です。

 『大般若経』の<八不中道>は八支を立てて空だけを論じています。然しそれでも決して「八不空道」とは言いません。必ず「八不中道」と言います。竜樹は何時も空ばかり説いています。それでも決して空道とは言わず中道と言います。釈尊が大経で中道から空を説いたからです。

 『中論』でもそうです。空しか説かなくても『空論』ではなくて、『中論』と名付けられています。<中>はこの書のなかでは標題に一つ、論文のなかに一つ、たったそれだけです。

 だが、説いた分量で空と中との値付けをしているのではない。又・八不中道とか一色一香無非中道・と聞くと、初めは、中の値打ちがうんと大きくて・空の値打ちはその次に大きい・仮の値打ちは一番小さい・という風に思い勝ちです。これは増減の謗です。

 それは、仮を説いた阿含諸経は低く・空を説いた般若諸経はより高く・中を説いた諸経はもっと高い・という・諸経勝劣を知っている事の連想から来た事だ・と思います。

 その点も在るでしょう。だが空仮中の値付けは誤りで、仮空相等・仮中相等、空中相等・空仮相等、中空相等・中仮相等、三つは決して別ものではない。離れない・値打ちの格差も無い・というのが円融三諦の真意です。値付けは全く旨くない誤りなのです。

 仮と空とは外見は全く違うが、万法について仮が無いと空の悟り様(自行)論じ様(化他)が無い。空が無いと<仮有の連鎖相続>の認め様が無い。相依です。仮空相得です。仮空無尽縁起です。互いに最小限なる必要充分條件だからこそ・この関係が中道になる。中は空でも仮でもない儘に空でも仮でもある。ここが円融三諦です。

 只思索の世界に留まっていたのでは、自我の反省を止める事は出来ません。出来ないばかりか行先が判らなくなってしまいます。この迷いを解くには、分別する思惟の世界から、無分別な行為の世界へと・自分の立場を転換する以外には出来ない事です。

 仏道の信行は・言語道(論理展開)断・心行所(概念操作)滅・を起点として始まりますが、反省操作は言語道でも心行所でもありません。従って信行をする事は、反省操作を止める事ではありません。寧ろ、行に依って全的に思量を押進めている訳です。反省の極地から見返して知識を捉え直すのです。こういう知識・智慧だから悟りです。

 そこが人間の行為としての・成し得る終点です。人間の行為として・という條件を見逃がしてはなりません。人間の行為としての終点はそれしか有得ません。これが又その儘仏道修行の要(かなめ)でもある訳です。

 <解>の段階では、元より反省的思惟の限界を超える事は出来ません。それでは、縁起する現象を仮として肯定する事と、空としてその仮の実体性・実有性を否定する事と、更にこの二つに両肯定を行った中道という事も、<解>の段階から<行>の段階へ入らない限り・把捉する事は出来ないものなのでしょうか。一見した所<解>の領域内でも充分に正しく理解出来そうですが……。

 中道というのは、理論的にも導き出す事は出来ます。然しそれでは究極にはならないのです。言替えれば、行の世界へ徹底しないと・解の世界も徹底しない・という事です。行に通じて初めて解が完結するのです。何しろそれは『摩詞止観』の第六の巻の一番終りの辺りから第七の巻の始めに掛けての大問題なのです。

 「この法を修するとき、心を一つにし志を専らにしてさらに余を縁ぜず、決定の一心にして……」(『止観』)という一大決意で望んでも三障四魔に妨げられて容易でない・と示されています。

 理解が真に正しい理解であるかどうか・という<保証>は一体何によって得られるのでしょうか。一本の物差しを持って来て、その物差しの目盛りの正しさを・その物差しの目盛りで検証し保証する事は出来ません。パリに在るメートル原器で検証しないと<保証>は得られません。

 検証されざる理解は原理上、<理解であるかどうか>定め様が有りません。智解で理解の正しさを保証しよう・というのは、”仲間誉め” の類いで・自己満足にすぎず・成立ちません。それでは「教のみ有って行・証無し」になってしまいます。

 ですから、物理法則ならば実験結果で保証し、仏法では<行>による体得で検証して、成仏という現象で保証する・という事になります。

 そういう訳で、特に一人称世界では、学問の領域内で充分に正しく理解出来た・というのは、その実、正しいかどうか・定め様が無いのです。冷静に他と比較出来る客観世界ではないからです。そこで、その学理を実生活へ適用してみて・良い効果が現われたかどうか・という検証が必要だし、これが理解の正しさを<保証>する訳です。

 悟りの立場からすると、次第の三観・不次第の三観がそれぞれ独自に成立している訳ではありません。唯ひとつの真実である円融三観の体内に包まれたもの・として成立しているにすぎません。

 でも、縁起仮有なる見られる我れ・それを見る一念心での反省を繰返して、仮即是空なり・と反省述語して行く自覚操作の段階では、実際に自分で次第の三観を我が心に行じているの同じ事になります。

 つまり、仮即是空の方は「唯是の心・但是れ法性なりと信ず」る自覚的な反省過程として、<不変真如の理>に帰って行く側面・と言っても好い訳でしょう。

 どういう風に言ってみても同じです。仏法を奉じている人は、無反省な人は別として、反省を実行している以上は、自覚は無くても、皆実際にその線に添ってやっている事です。そこには実際の成長が見られます。

 論理という話の筋から言って、これ迄は<三諦>の方の話が中心になっていました。これは悟りを得た結果(行果の徳)です。三観の方は・その悟りとしての三諦を得ようとして立向かって行く因行で、能動的な勢いそのものです。

 丸きりの白紙状態から出発すれば、時間上・三観に時間のズレが起こります。まず仮観から始めないと空観へは入れない。次に空観を経ないと中観のやり様が無い。それが次第の三観の立場です。これを繰返して馴れると、反省的に、何だ・三観を一時同時にやれない事はない・出来るではないか・という事になります。

 これが円頓止観(円融頓成三観)です。つまりこれは・反省を先取りして一時に施す方法な訳です。以上が天台の立場です。我々はこの観法はやらない方が宜しい。出来っこ無いのですから……。だが・学理として空仮中が円融する筋道は知った方が宜しい。知らないと一念三千が解りません。

 初めは次第の三観の形で、見られる一念と見る一念とが・仮即是空・と双達して行った終局において、今度は、<隋縁真如の智>に基づいて・空即是仮・が双照されて来ます。これで双遮双照して円融中道となり、隋縁不変一念寂照して「一身一念法界に遍(あまね)し」の貫徹実現となる・と言って好い訳でしょう。

 双遮の場合・と双照すべき立場で論じた場合・とでは違って来ます。迷っていたのが修行で悟り、今度はその悟った立場から・逆次に見返しているのが双照の方です。天台は何時でも照らしている立場から言っているのです。照らせば世俗の一切は蘇生します。

 竜樹は双遮を武器にして法を説き、天台は双照の立場で『止観』を述べたから、二人の主張は異なって見えます。「中論は遣蕩し止観は建立す・いかんぞ同じきことを得んや」(『止観』)という疑いが昔も在りました。遣蕩は・論敵の理論を蕩(とろ)かし遣ってしまう……双遮で破り去る意です。遮遣です。

 然し、二人の主張が異なって見えるのは外見だけで、言っている中味は全く同じものです。観心が同じなのですから、教相の優劣を言ってみても・余り有意義ではありません。『般若』と『法華』という依所依経の差は時代の違いによる訳です。