(2)縁起仮有の主語世界を述語し反省する――その二

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(2)縁起仮有の主語世界を述語し反省する――その二

 内外法或いは心法が特に<己心の法>として表現された場合に明らかな様に、それは、万人に取っての・ではなくて、当事者一人一人に取っての己心の法です。

 そこで、主語世界も詮じ詰めれば己心の法だ・という事も、その当事者の一念心つまり一人称世界において成立する事で、客観して言う場合はそうはなりません。

 普通・日常生活では、客観視した場合の事だけを考えている事が多いので、己心の法・という事の理解は容易ではないし、又その困難さは、仏法成立の大前提である縁起無我・つまり実体否定・の把握の困難さに繋がる様に思います。

 元々客観という事は所謂(いわゆる)認識の立場です。傍らへ放り出して外から眺める認識の立場からすれば、外は何処迄も外・内は何処迄も内です。いわばそれは動物園の檻にライオンを入れて檻の外から眺めている見物客の立場です。

 園の飼育係の様にライオンの事を心配しながら暮らそうというのではない……。又、犬を家族の一員同様に可愛がり自由にさせて飼っているのと、他人に飼われているのを時々眺めて吠え付かれているのとでは、全く違う様なものです。

 一人一人がそういうその人だけの一人称世界を持っている。この意味では確かに・世界というものは人類の数だけ在る・という道理も領けますが、日常の生活意識では仲々……。いきなり言い出しても急には受入れて貰えません。

 自分が子供だった時の事を考えてみれば好いでしょう。子供に取って、大人というものは非常に大きく見える筈です。例えば1メートル70センチなどとは迚も見えないでしょう。もっと巨大に見えている筈です。子供が外を歩く。上り坂の前に来ると、大人には坂の上の建物が見えても、子供にはそれは見えない。そこにいわば”明”と”無明”との差が出ています。

 よちよち歩きの子供から見たら、東京の道路などというものは恐らく化物の世界ではないでしょうか。自分よりも大きなポリバケツの様な物がデンと据えて在ったり、見渡し切れない花壇が延々と続いたり、傍らを見ると二メートルも三メートルも有る様な大人がいっぱい歩いている。丸でジャングルの中へ迷い込んだ様に危く威圧的な感じではないでしょうか。

 子供がうろうろしてすぐ母親にしがみ付くのはその所以(せい)ですね。

 そこヘトラックが音を立てて遣って来ると、それが途轍も無い大音響に聞こえる。我々大人にはそうは聞こえない。道路に花壇が在っても、上から見ているから、ああ綺麗な花が咲いている……と大人には見える。大人と子供では世界が丸で違うのです。これと同じ様に、人類一人一人の窓口によって、世界は人類の数だけ在る訳です。

 だからと言って、そういう個々人の差別世界だけに拘(こだわ)っていては、人間の世俗での成長は有りません。拘れば紛動され流されて行く事を免れません。

 我々としては、そういう個人毎の仮有そのものを消す事は出来ませんが、仮有への執著は消せます。それが反省否定としての<無に非ざる非有>つまり空です。これが判断の空・智法の空です。

 物理空間は、物的な要素は何も無いが、月や星などを受容れる収容能力だけは在ります。ですから幾何学的体積的存在です。そこで仏法の空は、語源は、この物理空間を指示したシユーニャ(ふくらみ) から来ています。

 論理学では、非有は無ですが、仏法での智法の反省判断の空は純無ではありません。判断としての<事物の空>は何処迄も<無に非ざる非有>です。然も折々に<有>か<無>かへ片寄って来ない<空>は有りません。

 ですから智法の空は、感覚上・事物が在る事を否定しているのではありません。不断に遷り変る仮りの有で正体が無い・と示しているのです。更には、境法としては、事物の空とは、無は無で何も無くても・活性だけは持った無だ・とも言えます。

 すると、空については、智法側・内法側の面と、境法側・外法側の面と、この両面から考えないと正しい理解にはならないのですね。我々は兎角・境法側のものとしてだけ見る癖が付いしまっています。境法側の相・性・体について、智法の側から仮・空・中と見るのだ・と言われて、やっと、ああそうか・と気付く仕末です。

 そこが怖い所です。何でも<存在>として見る<妄念の習気>が強いのです。自分のそれと戦わなければ正見が出て来ません。仮も空も中も、まず内法・智法としての<判断>なのです。そして、判断は常に事物事象についての判断ですから、ここから外法・境法と関わって、境法側の相・性・体の<有りよう>としての仮・空・中が論じられて来るのです。

 「一色一香無非中道」と天台は述べましたが、一色一香は外法側・境法側・主語側です。無非中道は内法側・智法側・述語側です。境法側と智法側との一体の所・その境智一体の所が本当の中道(三諦中道)な訳です。そしてこの境智一体法・境智相応法が又・その儘<智法>な訳です。智法側から論じて境法側へ達し、両面から会得すれば好いのです。

 我々は日常・仮有の差別世界しか見ていませんが、仮有への執著は消せる・という事でした。仮有は<不断に遷り変って行く仮りの有で全く正体が無い>という事でした。体は全く不可得で、この観点からすると、仮有は幽霊と全く同じで、<有る>とさえ言えなくなります。虚仮です。一瞬妄有です。

 無いのでもないが<有る>とも言えませんから非有非無で空なのです。空とはこういう事だったのです。万年億年存在している巨岩でも、火山噴火から誕生したその成立の始めから、数百数千億年後の姿迄、続けてビデオカメラで撮り続け、それを一時間位に早廻ししてみたら、全く正体が無かった・事が能く判ると思います。やはり空なのです。

 ではこの仮有への執著が消えたらどうなるか・という事になります。この執著が消えたから・と言って、外法である仮有差別の世界が消え去るのではありませんから、新たに発見された空なる世界と元の仮有の世界との関係はどうなのか・という事になります。

  執著が消えれば精神の自由が獲得されます。結論から先に言えば、空なる世界がベースで、その上に仮有の世界が成立ち現出している・という事です。世俗の日常ではそのベースに気付かずに、現出している仮有の世界だけしか無い様に思っている訳です。

 だが誰でもそれだけでは物足りない感じはしているでしょう。心が貧しく不自由です。そこの所を救うべく空を教えて下さったのが仏様で、その空なるベースを説いたのが般若部の諸経です。

 一例を挙げると、供養について「施者空・受者空・施物空」(『大般若経』)と説いて、「俺がこれだけの物を供養したのだぞ」という執著慢心が如何に貧しい心で・如何に誤った邪念であるか・を教えています。馬鹿に付ける薬は無い・と言いますが、執著や慢心に付ける薬は在る訳で、総じて執著に対する最人の良薬がこの<空>なのです。

 仏法は智慧の学びである・とも言われます。仏法の反省修行は馬鹿に付ける薬でもある・と思います。愚痴煩脳の病は仏法でしか治せませんし、又・治ると思います。

 それが般若(智慧)修行です。般若部では、五蘊も空・一念も空・空もまた空・と教えて、一切無実体無本質・空もまた無実体無本質・一切皆空無所得、実体思想は捨てよ・と戒めています。心が本当に自由なれるのは是れしか無い・と教えています。不自由は自縄自縛から起こり、自己束縛は執着から起こるからです。

自由な世界(空世界)の上に不自由な世界(仮有世界)つまり束縛世界が現出している事を知ったら、自由への見込みが期待出来ます。この空と仮との相依相待(求め合い)を普通<仮即是空(遮破)・空即是仮(照立)――この<即>は反省に由ってのみ成立つ――と言い慣らしている訳です。空体というものは無いが空用(空の働き)が仮有の世界を支えている・という事です。

 空が有るから仮が有り・仮が有るから空が有る・となれば、仮と空も又縦型相依の縁起関係においてのみ両者が有る・という事になります。片方づつの独存ではない訳ですね。

 両者の関係は、空に体無し全く仮有に依る・仮有に体無し全く空に依る・という縦型の相待関係になっています。地球の大地は広漠たる物理空間の中に位置を占めつつ自らも空間を有らしめ展開して存在しています。その様に、縁起仮有の物事は・空の唯中の間に存立しつつ・自らも空性を展開して空を空たらしめている訳です。仮即是空・とはこの事です。「色即是空(双遮)・空即是色(双照)」(『般若心経』) も同じ事です。