主語世界と述語世界と反省世界 (1)縁起仮有の主語世界を述語し反省する――その一

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主語世界と述語世界と反省世界

(1)縁起仮有の主語世界を述語し反省する――その一

 これまでは空仮中の三諦を<判断の繋辞(コプラ)>という側面から考察して来ました。つまり、述語側に属しながら主語と述語とを一つの判断の中に統一する所の、肯定又は否定の<結合子>(コプラ)という窓口から眺めて来た訳です。そこで今度は<主語>と<述語>という・言葉による分別表現の最も基本になる場面から、空仮中を掘下げてみたい・と思います。

 分別・という二文字は・分けて別ける・ですが、分別の実際の機能は<分ける>方に在るのではなくて<統一する>方に在る訳です。多様を統一する所に或る一分別が完結し機能する訳です。これは大事な事です。

 分けてバラバラにすると、樹替えの無い元々の<統一や調和>が破壊されてしまいます。今の学校の試験制度などは、全人格・全能力を見ずに、全人格を分けてバラバラにした学力だけを試す弊害の最たるものでしょう。輪切りにしたら独立人格が独立人格でなくなってしまいます。

 仏教でも聖俗(仏界九界)を分けてバラバラ輪切りにしたら教えが成立ちません。一切経もそうです。各経は正に輪切り状態に分けて説かれた一つ一つですから、バラバラにしたら、切角の五十年説法の脈絡が失われ・一貫性が壊されてしまいます。右を説いたものやら・左を説いたものやら・見当も付かなくなってしまいます。

 この様に、聖俗や一切経は・分けるべきもの・ではありません。外道・仏教を問わず、インドでは<分けない主義>で、法概念等も多様な儘に用い、多様な儘に会得しよう・というのは一理有る事で、寧ろ非常に奥深いのです。<統一>の方こそ大事なのです。

 分別表現の基本から掘下げてみたいというのは、主語抜きの結合子は有得ませんので、有・無を言い・或いは空・仮・中を考える場合に、抑も一体何について有・無や空仮中を論じているのか、その主語が明示されない事には、論議は虚論に堕してしまう他無いからです。又そうした作業を通じて、科学や論理学と対比した場合、仏法が開示する主語・述語の世界が、どういう特色を持つかも、明らかになるでしょう。

 「諸法皆空=一切の仮有なる法は是れ全て空なる物事である」……これは「諸法=一切仮有法」が主部、それ以下は述部な訳です。こういう悟りは自行の反省自覚法で得たものであり、自行自覚法は反省の積重ねであって縦型論法です。

 つまり横型の論理学や因明の手法とは異なり、論理の規則に縛られる事はありません。然し、化他の為にその悟りを他人に伝えようとすれば、その方法は論理学に基づいた言い方でしか出来ませんから、当然・論理学規則に縛られます。その結果が今の文章です。

 仏法では一切法について<内法>と<外法>という事を言います。例えば色受想行識という五蘊のうち、最初の<色>は外法であり、以下の<受想行識>は内法です。色心の二法に分ければそうなります。その外法乃至色法としての一切法が主語世界を構成し、内法乃至心法が述語世界を構成している訳です。そして縦型二支毎の縁起連鎖をして生涯続いて参ります。

 記述や対話におけるこの主語世界は常に万人に共通します。つまり、三人称世界という客観世界を構成し、その主語述語の記述が、二人称の記述だろうと一人称の記述だろうと、記述である以上は、主語世界が始めは三人称世界のものである点は変りません。そして実は、その主語世界は、当人に取っては、感覚受用した時には一人称のものでした。

 寧ろ、記述や対話での場合は、主語世界は、始めから三人称世界のものとして立ててしまう・と言った方が好いかもしれません。というのは、感覚は信用出来ないものであり、感覚知は一人称であって人毎に違って参りますから……。それは、なにがしかの修正を加えないと、記述用・対話用の主語世界にはなりません。

 もう少し言ってみますと、諸科学は実体仮定の上に築かれています。科学ではまず、その主語世界を実有なり・実体なり・と捉えて懸ります。然もそれを、三人称の客観という手法を用いて、分析総合を展開して行く所に科学の世界が出来上って来ます。横に空間軸へ拡げたり繰めたりして行く訳です。これは初夏の着物の虫干しに似ています。

 つまり、科学では観測対象を実体と極め付けて科学を開始し、果たして実体かどうか、という反省はせず、この点は哲学に任せてしまっています。自然科学では<物質・エネルギー不滅原理>がその実体観の最大のツッカエ棒になっています。

 ところが今度は、同じその主語世界に対して、自覚的述語の一人称世界を展開して行く所が仏法の世界になって来る訳です。つまり科学は横・仏法は縦な訳です。ですから相容れない関係ではなく・両者は相互補完の関係を持つ事になります。

 純粋な形式論理学の場合では、仮定命題について主語と述語との間の結び付きに関する形式真偽を追及しますが、今はそれはさて置いて、現実の事物を追及する場合、それを論理学の立場で言えば、主語世界は物乃至出来事の・即ち多様な事物の世界です。これに対する述語世界とは、そうした事物の多様性の世界を統一する<解釈の世界>という事になります。

 主語世界は事物が多様であるばかりではありません。感覚して受取る知・つまり直接判断としての知識も又・人毎に異なって、この点でも<多様>なのです。結局・人毎に<己心の法>なのです。

一人称世界なのです。論理学とは異なって、仏法ではそれをその儘主語世界とします。

 科学の世界も仏法から見ると、主語世界というものは、諸行無常な縁起仮有の現量世界に他なりません。一切法は縁起仮有の世界なり・と抑えた所が、仏法では主語世界になって来る訳です。一切法中の任意の一つが、更にはその全てが主語世界になります。

 然も一切法の要点を詮じ詰めると、対象化した<我れの依報>というものでしかありません。この<依報>とは、我れの只今の一念心を・或る形態に特殊付けている外法の全体です。こういう対象世界が主語世界です。依報で特殊付けられている<我れ>の方は正報と呼んで、依報・正報・妙境を述ぶ・と言われております。

 主語世界の方は判りました。では述語世界の方は……。

 それに対して、反省で自覚述語的に開いて行った縦の統一世界が<仮即是空>という内法乃至心法の世界になって来ます。<仮即是中>でも同じです。これが仏法の自覚における述語世界である訳です。ですから始めの現量から終りの思量迄・一貫して<己心の法>です。

 という事は、つまり、我々の眼前に物的な対象として存在する所の・客観視された山川草木について、そういう物が在るとか無いとか・何であるか・とかを仏法では言い立てる訳ではない・という事ですね。

 そうした対象を我が己心に取収めて観た時、そこに果報として生ずる己心の<法の有りよう>(十界)について、有・無(反省肯定・否定)を言い或いは空(反省二重否定――叙述二重否定ではない)を論ずる・という事になります。

 ですから仏法では、一切法は皆<己心の法>だ・と言います。これは自覚述語の立場で言われているのですが、この事は曖昧にしか把捉されていない場合が多い様です。「心の外(ほか)に法無し」と言っても、物は現実に在るではないか、眼の前に私が生まれる前からの家は建っているし、電車は走っているではないか・と反論されてしまいます。

 然しそれは何処迄も主語に執著して、客観主語の窓口から見ているからなのです。主語の窓口を絶対視すれば原始的な存在論素朴実在論)乃至唯物論にしかなりません。仏法では主語の窓口からではなくて、反省述語の窓口から見てそう言っているのです。

 述語の窓口からの立論を主語の窓口から否定しても、これは反論として成立致しません。一般にそこの所に仲々理解が届いていない様で、唯・観念論だ、と軽蔑的に受取ってしまう様です。大いなる誤り・と言う以外には有りません。