(10)反省自覚の筋道――縦型縁起法

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(10)反省自覚の筋道――縦型縁起法

 本覚論に立ちさえすれば、仮であれば何でも仮諦・であるかの様な立論は根底から誤っている訳ですね。そうした議論が流行しているのは困った事です。

 反省する所行妙法の己心にしか仮諦は得意されないのですから、結論を主張として冒頭に掲げて「我が身の色形に顕れたる相を仮諦と云う」(十如是事)と述べられていても、これはまず<條件>を挙げたのでして、「妙法を持った我が身の相」でないと金輪際<仮諦>とは言えません。既に持っている弟子檀那への御教示なので<受持妙法>という條件項が前提文面ではまだ示されていなかったのです。すぐその後の締括りの文で示されていたのです。

 一般の衆生身については、本覚の視点からと雖も、可能態としての理在以上には出ないのですから、気を付けなければなりません。仏身と衆生身とは生活背景が全く違います。貴方も努力次第で金持になれるのですぞ・と言われても、貧乏人はまだやはり貧乏人の儘である様なものです。

 金持ちを目指す努力でさえも大きな障害・困難が伴います。まして仏道修行では比較にならない困難が有ります。

 この表の智目行足について「智目行足清冷池に到る」(『玄義』)と言われ、解行について「解行既に勤むれば三障四魔紛然…として競い起こる」(『止観』)が言われている様に、実際に仮諦という<諦>を得るのは実に容易な事ではないのです。それは「受くるは易く持つは難し」だからです。

 俗諦にすぎない虚妄仮・と仮諦である真諦の建立仮・との関係は大体明らかになった・と思います。現量・比量・思量・の視点から度量(たくりょう)仕直したのは良かった・と思います。

 曽谷入道殿御返事に「此の経の文字は皆悉く生身妙覚の御仏なり、然れども我等は肉眼なれば 文字と見るなり、例せば餓鬼は恒河を火と見る人は水と見る天人は甘露と見る水は一なれども果報 に随って別別なり、此の経の文字は盲眼の者は之を見ず、肉眼の者は文字と見る二乗は虚空と見る 菩薩は無量の法門と見る、仏は一一の文字を金色の釈尊と御覧あるべきなり即持仏身とは是なり」

とございます。御本尊は確かに紙と墨文字です。誰が見てもこの現量は同じ筈です。比量を推量してみても・題目と十界の列衆の個々の意味しか得られません。この比量も万人共通でしょう。以上が虚妄仮です。

 然し思量においてはがらりと変ってしまいます。二乗は理空存在と見、菩薩は無量の法門と見、我々には三秘總在の無量不可思議妙法とは見えても、教えられてはいるものの、直かに元初無作三身如来様とは見えません。そこが浅ましさで凡夫の思量の限界です。

 ところが、仏様の思量では確かに元初無作自受用報身如来と御覧の筈です。ここが思量仮の仮諦です。この様に仏界において建立して、化他の為に我々に示された所を建立仮・と言うのです。だからこそ仮諦という<諦>なのです。

 仮を何でも彼でも皆・仮諦扱いにする乱暴は、竜樹や天台等には全く無いし、三世諸仏に背く事です。これこそ破られ双遮されなければなりません。勝手な情量で捩じ曲げてはなりません。

 照の面についてはまだ本当に明らかにされた・とは言えない様ですが、とにかく仮諦についての肝心な話は済んだ・と思います。俗諦についての遮照は、今迄は主に仮についての遮照でした。次に空へ移りたいと思います。空についての遮照は……。

 空についての遮は、まず、空に著し留まる所を遮ります。これは行道での遮です。教法の上では・小乗の析空や権大乗の体空などの単空及び実教の空に思想が留まる所を遮り、一旦遮った上で、法華の円融中道のものとして更生させる所が照らし出した所です。

 教道では・般若部の十八大空という相待空やそれを超えた純空相の絶待空を・単空の儘では在らしめない・それを基本原理としては認めない、悟道(行道)では・空悟に著して留まるな・と戒める、そこが遮です。円融中道の体内のものとして認める所が照です。

 一般に八万法蔵の全ての仮空に亘って、一度それを遮る事をしないと・照らし出す事は出来ないのです。体外の爾前の仮空を遮して、遮を通じて法華実教の体内の仮空として照らし出して生かす。行道面では・仮を反省して空を得た儘で終るのではなく、もっと進んで中へ達してそこから振返る。中から再度・仮空を照らし出して見る。そこで遮照絶待は、遮照を経て絶待を得る・という事になります。仮も空も中と一体化して絶待の仮空になります。

 仮空の仮について破空立有、空について破有立空・と在り、更にその各々について破立絶待・と在りますが……。

 天台教学のなか・特に『止観』のなかでそう言っています。これは円融三諦に達しよう・とする場合に・兎角・概念した事の反省操作の上で陥り易い執著点を切捨てている操作なのです。これは、まず立空(破有)の方から先に考え、次に破空を考えれば判ります。

 <空を立てる>という事は・悟りを立てる事です。俗諦から抜け出し(破有)て真諦を立て(立空)る事です。その為には、俗諦の諸々の実有の思い・を破さなくてはなりません。この破立を正しく心得れば、そこに絶待と待絶との中道が現われる・と・こうなって参ります。

 『速証仏位集』のなかで天親の『仏性論』を解釈した文に「一切の法無我の中において有我の執をなすを虚妄執と名づく」と在るでしょう。それがこれ(破有)に当ります。その虚妄の執を破するのです。虚妄事に対する執著心を捨てるのです。この有我の有と実有の有とは同じものです。空を立て、その空の力に依って有我・実有の<思い>の執を破る訳です。

 有を破するから空が現われるのではありません。闇雲に破ったとて空が現前する事など有得ません。これでは逆です。空に依るから有を破る事が出来るのです。破する・と言っても破る道具が無くてはいけないでしょう。そのオルガノンこそ正に反省否定で、有に非ず無に非ず(非有非無)と二重に反省否定する事が空ずる事なのです。遮遣成立です。遣蕩成立です。

 有を空じれば自ずと空が立ちます。確立します。この様にして破立が正しく使われて空に寂せられなければ中道が現われます。この中道は有にも動ぜられず空にも寂せられない・非仮非空・亦空亦仮の円融中道です。

 そこ迄が破有立空・即ち仮→空→中への道順ですね。求道の自行面……。

 それを踏まえて、今度は破空立有つまり中→空→仮への道順を考えるのが順序になります。これは自行であると共に衆生済度の為の化他面です。

 求道の自行に由って悟って中道の立場に立てば、今度は化導の為にもう一度立還って有(仮)を立てなければならない。言説の世界を立て、説法しなければいけない。立てた有は言説・理論・仮名・仮設で、不可説を可説化するのですね。

 その有(仮)は最早仏法哲理です。仮諦です。それは空ではないのか・と思うかもしれませんが、空なる儘の仮諦なのです。心法所具の仮諦です。立証は省略します。言説で言えば元来は純世俗や俗諦の言説ですけれども・真諦化して立てるのです。立仮・立有。

 そうする事によって、自分一人が悟りの世界に安住している態度を自ら破するのです。自分一人が安住していれば、独覚二乗と同じで、それはエゴイズムで空病ですから、空のそういう間違った使用法を自分で破る訳です。自分で破るから自行です。

 別の側面から言えば、但空の立場・析空・体空の立場を破るのです。これが中を用いた破空。そして立有。この様に破立を正しく用いれば、仮諦即絶待中道なり・となります。空諦即絶待中道の場合も同じ事です。

 その局面が・即仮即空即中・と言われる所ですね。結局、一諦も三諦なり・で円融三諦ですが、以上は『止観』の解の章で述べられてはいますが、元々は正観立行の問題として扱われている・と思います。

 その後に中空仮と言って、中について又・但中・不担中等の破立を立てます。更にその上で、破立絶待・成すべき破立は皆済んだ・済めば照らし出された待絶の無分別行だけだ……となります。

これが遮照中道です。天台というお方は、徹底的に分析手法で以ってこまごまと述べ立てております。本当に頭が良過ぎて追(つ)いて行けない感じです。

 それはそうでしょう。章安大師は『止観』の序・縁起項で『法門浩妙なり、天真独朗とやせん、藍よりしてしかもより青しとやせん」と賛嘆しております。

  天台が行った<内観>とは、妙法を持った自己の内なるもの・つまり只今現前当面している<迷蒙なる我が刹那一念>を、己心の内において、他ならぬ自分自身が<観る>という事です。この<観る>は<見る>や<考えてみる>事とは違います。

 その観る操作は、虚妄なる我が刹那一念の仮心を、これは九界なるが故に実有に非ず・肯定受容するに足らず、肯定受容するに足らずと雖も九界の故に実無にも非ず・完全否定するも当を得ず(以上・非有非無)と二重に反省否定し、更にその上に、その虚妄仮心は九界にして妙法仏界に非ず(無) と雖も、九界の虚妄を却けて反省建立した妙法受持の建立仮心には亦・妙法仏界有り(以上・亦無亦有)と二重に反省肯定するのです。

 それが四句分別(後述)に依る反省操作なのですね。四句分別は智法……。

 これが円頓の一心三観の因行。その行果が円融の三諦でして、これは反省→自覚→再反省→再自覚の操作になります。縦型四句反省の手続きです。始めの反省は双遮による無明の断破、次の再反省は双照による法性の照出。ですから円融三諦は円融無分別の双照三諦に他なりません。

 真の<中道>とはこの事態を指している訳です。これが究極の第一義諦つまり円融頓悟道第一義諦です。釈尊が一代五十年の説法を通じて説いた究極の理の面はこれです。一切経の理面の終点はこれだったのです。双遮も双照も己心内の<九界待仏界>の関係を基軸にして、縦型縁起法で組上げた反省自覚の道筋だったのです。

 三観三諦の<観>という事は仏法が決して境法ではなくて智法である事を能く示している・と思います。<反省自覚>という事も同様です。四句分別も同様です。

 そうです。そして判断とか演繹とか帰納とか類推とか弁証や四句分別とか……つまり論理学論理全体も智法であって決して境法ではありません。他の諸科学は境法ですが、数学と論理学とは智法である点で仏法と共通しているのです。四句は中道へ通じ易いです。