(8)円融三諦しか無い――破立・遮照・中道――現量・比重・思量

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(8)円融三諦しか無い――破立・遮照・中道――現量・比重・思量

 次に<破立>と<遮照>との問題に移りますが、これは仮空中の間の関係を明らかにする操作であり、これによって即仮即空即中の筋道が正当である事が示される・という事ですが……。

 <破立>は・破ると立てる。<遮照>と似ています。ほぼ同じです。仮空中の間の関係を明らかにする事でもあるし、真俗・九仏(九界と仏界)の関係を明らかにして、俗から真へ・九界から仏界へ・の道筋を明らかにする事でもあります。

 遮照ですと、遮はさえぎる・照は照らし出す。遮は、仮なら仮が、その儘では道理上不都合だから・都合が好い局面へ導く為に一旦遮る。照は、不都合でも何でも・その様に在るものは在るのだから、在るべき位置を与えて明らかに在らしめ、その儘照らし出す。大体そういう操作です。破立も遮照も反省操作でして概念操作ではありません。

 破立の破と遮照の遮とは否定的な一面、立と照とは肯定的な一面ですね。仮に就いて破立・遮照、空に就いて破立・遮照、中に就いても爾前の中は破立・遮照。

 破と遮とは悟りを求めて世俗・九界から真諦・仏界へ進んで往く方向で、これは自行。立と照とは自行でもあり・又・真諦仏界から他を化導する目的で再び体内の世俗九界へ還って来る方向で、これは化他。これが空仮中について、次方・不次方・円融三諦にも多様に使われるのでしょう。

 「(衆生は)深く虚妄の法に著して堅く受けて捨つ可からず……是くの如き人は度し難し」(『法華経』方便品)。これは衆生個人個人の迷惑(人に迷惑を掛ける事ではない、自分が迷い惑う事)を指摘して執著を遮っている訳です。

 この様に、遮というのは、結局、断常の二見を遮るのですけれども、纏めて言えば俗諦を遮るのです。

 現われても見えなければ仕方が無い。見える・ということが大切なのですね。

 照というのは、俗諦も悟って用いれば有効なり・と仏界の慧光で照らし出して肯定する訳です。だから遮は否定(反省否定)の働き、照はその否定を経た上での肯定(再反省肯定)の働きです。すると自動的に建立が成就する事になります。これが破立の立。

 仏界から照らせば真実が出て来る。断見はこれこれかくの如く間違っている・というその真実が出て来る。常見はこれこれかくの如く善くないものである・というそういう真実の姿が出て来ます。自行の反省自覚も照立、化他の用教においても照立です。

 してみると、まず仮について虚妄の仮・破・遮・という事は連動していて、一連に何事かを指示している・という事になります。建立の仮・立・照・という事も同様です。この辺を整理してみたい・と思います。

 まず、悟り・としての<諦>ですが、これは梵語の<サトヤ>を漢訳したもので、<諦理・真理・理性(りしょう)>などと訳されていますが、これは或る意味で正確さを欠いています。というのは、外道・仏法を問わず・インドの思考の常道では<事態>と<真理>とを分けないのです。

 寧ろ<分ける事を拒否>するのです。そこで<事態>そのものが<真理>で・又逆に・<真理>と言えばその儘<事態>を指し、事態即真理・真理即事態・という事です。<諦>はこういう用法での真理であり悟りなのです。<法>という語の使い方の場合と同じだったのです。

 諦も又法ですから、その事は容易に納得出来る・と思います。

 そこで<世間で人々の為に施設された世法の悟り・真理><世間の仮名の真法を認める>のが<俗諦>で、つまりは<比量>(推理知識)が俗諦になります。<出世間の人に悟られた悟り・真理><一切法無生・空仮中なり・と体得された悟り・真理>が<真諦>で、つまりは<仏様の思量>(反省知識)>が真諦になります。

 してみると、直接判断は単に主語存在を措定しただけですから、<現量>・(感覚知識)はその儘では俗諦でも真諦でもなくて、只の<虚妄の仮>と呼ばれて<諦>とは申しません。これには真理性が無いからです。

 俗諦は世間の<認められた真法・施設された叙述法>ならば、これは三人称世界での・事物認識の路線・での話になりますから、比量が俗諦になる・という話である事は判りました。仮令一・二人称でもそうです。

 そして、現量と共にこの比量つまり俗諦も又・仏法では<虚妄の仮>なのです。

 真諦は<出世間の人に悟られ体験された真理>なら、これは三人称の事物認識ではなくなります。一人称世界での<反省体得>ですから、言語道(論理)や心行所(概念操作)ではなくて、反省自覚された<事法>です。つまり菩薩界・仏界における<思量>が真諦の内容になる・という話である事も判りました。菩薩のは・與えて言えば・の事です。

 現量は本来・一人称のものですが、すぐ三人称世界へ置き替えが出来ます。比量は三人称のものですが、現量と共に一人称界へ引戻して、一人称の境法つまり一人称の主語存在・として取扱えます。ここが虚妄の仮になります。

 虚妄の仮に対しては建立の仮が真諦に当る事は、以上の事から容易に推察が付きます。俗諦の比量は三人称世界での事、真諦の思量は一人称世界での事。一般にはここの点が混同されて、議論を判らないものにしてしまっております。

 誰のものにせよ、直かにぶち当たった縁起仮有の現量仮は、その人の直接把握によった・眼・耳・鼻・舌・身・での感覚知つまり直接知識ですから、その儘<悟り>としての<諦>ではありません。俗諦でさえありません。デカルトが言う様に「感覚は信用出来ない」のです。これは何処迄も虚妄の仮で、六道九界に属しているにすぎません。

 だから、真を求める為に、破とか遮(双遮)とかの反省操作を加えて捉え直す必要が有る訳ですね。

 そこで、二重に否定し更にその上に二重に肯定する・という反省操作――これは思考での概念操作とは全く異なる――を加える訳です。「現量仮は有(肯定)にも非ず無(否定)にも非ず空なり」、更にもう一歩進めて「その仮と空とは無にして有なり中なり」と<思量>(反省知識・反省の事)する訳です。

 そうすると<立・照>という事で建立仮に変ります。これが仏法の<諦>です。真諦の諦は仏界にのみ属しています。ですから円融三諦の仮は<仮諦>と諦の字が付いて、九界の虚妄仮とは全く違う訳です。仏界の思量仮でないと仮諦ではないのです。これが<建立の仮>す。

 縁起仮有の現量仮は信用出来ない感覚知で虚妄の仮であり、仏界から反省された立・照の思量仮でないと悟りではない、仏法の諦ではない、仮諦は仏様の思量仮つまり建立仮に限る・という話でしたが、ここでの<思量>という用語は能く聞きますが、・<現量><比量>という用語は聞き慣れません。これらはどういう事でしょうか。

 現量は感覚知識・比量は推理知識・思量は反省知識――知識は判断でも好い――という事で既に申し上げた通りですが、問題は<量>という事でしょう。

 <量>というのは・計る・測る・謀る・等に通ずる用語で、直接には<はかる>と読んでいます。意味も正に読んだ通りで<はかる>という事です。有形無形の万端の事物事象に亘って・測り得るものは全て<はかる>・それが量(プラマーナ)です。量論はインド哲学一般(含・仏法)での大問題なのです。

 <はかれ>ば大小・多少の具合が決まりますから、測った対象に連れて量の内容が鮮明になり、そこから<量>に色々な概念が付いて来る事になります。人物の才能を計れば「あの人物は器量者だ」という風に使います。この<量>という語は・仏法でも仲々大切な用語なのです。仮名だからといって軽視する訳には参りません。

 今では美人を「器量好し」と言います。これは用語が俗化してしまった訳ですね。推量や思量は能く耳にします。これらは知識に関しての用語になっておりますが……。

 熟語は色々在ります。思付く儘挙げてみますと「予少量為りと雖も忝くも大乗を学す」(立正安国論)。「諸法は現量に如(し)かず」(真言見開)。「(声聞衆は)思を尽くして共に度量(たくりょう)すとも仏智を測ること能(あた)わじ」「咸(ことごと)く皆共に思量すとも仏智を知ること能わじ」「是の法は(声聞の)思量分別の能く解する所に非ず」(以上三・『法華経』方便品)。「心が籌量(ちゅうりょう)するを名づけて意となす」(『止観』)。

 「寿量とは諸仏の功徳を詮量す故に寿量品と云う」(『文句』)。「此れ即ち不可なり……何(いか)に為(せ)ん何に為ん学者思量せよ」(末法相応抄)。「不思議円満……諸(もろもろ)の情量を絶して亦三千三観並びに寂照等の相無く大分の深義本来不可思議なるが故に名づけて蓮と為すなり」(十八円抄)。「(禅宗は)己が情量に著し封ぜらる所をば知らざるなり」(諸宗問答抄)。「諸人は推量も候へ」(教行証御書)。その他沢山在ります。

 度量(たくりょう)は今では「度量(どりょう)が大きい、度量が狭い」などと使われています。情量はフィーリングで得た知識の事でしょうが、今では使われていません。現量は法に就いての感覚知識・直接知識・という事でした。思量は沈思量知で反省を意味する・という話が前(序章)で在りました。反省判断・反省知識・という事でした。

 <量>は計る・考え分ける・明らかにする・調べる・つまびらかにする・みつる・いっぱいになる・等々ですが、調べて計って考え分けて明らかにつまびらかにするから知識が得られます。測る操作つまり<量>が<知識源>になる訳です。

 この知識源としての<量>が仏法に登場して来る訳です。「得意とは……不思議円融三観……聖智の自受用の徳(反省智徳)を以って量知すべき故に」(十八円抄)と言う様に、円融三諦は自受用の円融三観の智徳で量知する以外にありません。この智徳知は推理知(推量・比量)ではなく、内観知・反省知つまり思量の知識なのです。思量量知なのです。

 量という事や現量・思量の方は判りました。然し<比量>は仏典に出て来ない様に思います。今の所・経典等に見当りません。

 比量が仏典に無いのは、仏法は推理推論を排するからでしょう。思考推理知の方は論理操作つまり概念操作で、これは<比量>と呼ばれ、経典には無いかも知れませんが、現量と比量とはインド論理学である<因明>に出て来ます。唯識派では「現量とは対境を無分別に量知する事」と言っており、これは一人称の立場で現量です。これから三人称の現量が登場する訳です。「諸法は現量に如かず」(諸法を知るにはまず現量が最優先する)は、この<法の無分別量知>による直接知識を指している訳です。

 この現量から比量と思量とが得られます。比量からも思量が得られます。更に比量と思量とは、境法の座に据え直して置くとメタ現量となり、再び我々の眼の前に現量化して現われます。<メタ>は<高次・高次元>という事です。経文に残された仏様の思想の文章などがその例です。

 デカルトは「感覚は誤る、信用出来ない」と言ってその証明をしました。現量が感覚知ならば当然…その儘では信用出来ない事になりますが、理論ではなくて具体的に見て行きたい・と思います。

 水を例にしてみても、喉が渇いた人には甘露です。この感覚は誤っておらず・信用出来る訳です。これがその人の現量です。満腹の人には無用の長物という現量になるでしょう。胃腸の重病人には毒薬でしょう。これが当人の現量というものです。

 科学者がH2Oと見たらこれは比量です。反省知である思量はもう少し高度な事になります。それには<沙羅の四見>などが適例でしょう。

 沙羅の四見とは、釈尊入涅槃の沙羅林を、或る人は凡聖同居土と見・或る人は方便土と見・或る人は実報土と見・或る人(仏)は寂光土と見た・という話ですが……。

 これを現量で見たら只の林でしかなく、同居でも方便でも実報でも寂光でもない訳です。ところが見る人の境涯が凡夫か二乗か菩薩か仏かに連れて、同居・方便・実報・寂光と、実際の生活関係が違って来ます。これは各々の思量が違ったからです。各人の反省把握が違っている……これが思量というものです。

 ですから、仏法に無縁な人が如何に現量を比量しようと思量しようと、出て来るものは諸行無常の仮(現量)と科学的な仮法(比量)ばかり、つまりは虚妄の仮しか得られません。これは決して<眞諦><仮諦>ではないのです。

 能く凡身その儘仮諦であるかの様な本覚論者の説を見掛けますが、これは決定的な誤りです。衆生の凡身を仏様が見れば仮諦ではあっても、他人に取っては・そして当人に取っては、唯の虚妄の仮でしかないのです。ましてや空諦・中諦は思いもよらない事です。