(7)<待>と<対>との違い――絶待と待絶

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(7)<待>と<対>との違い――絶待と待絶

 結局、三諦・と言えば法体は円融頓成の三諦しか無い訳ですね。この円頓の三諦の仮・空・中の関係を明らかにすべく、天台は破立とか遮照とか、相待(そうだい)・絶待(ぜつだい)・待絶(たいぜつ)という事を説きますが、こうした昔からの用語は一般に馴染みが有りませんので、ざっと説明を加えて欲しいと思います。

 それらは大体・竜樹から天台迄の間で使い出されたものです。まず<待>の方から始めなければなりません。<待する>というのは<縁起関係>そのものの別名です。ですから相待縁起・縁起相待・と一括して用いる事も有ります。相依相待の縁起という風にも言います。

 心の中で<まちもうける>事を期待・と言います通り、待は<まつ>事です。この世の事象は全て<相い寄り・相い待ち・依り合って・成立し存立し>ていますから<縁起している>訳です。<待は縁起なり>です。

 西洋には縁起・という考え方は在りませんでしたから、何時も相対・絶対という概念を用いています。日本では・相対・絶対・と相待・絶待・は字の感じと発音とが似ていますから、概念上でもしばしば混同される場合が有った様です。

 今の用語で言う相対・絶対と、仏法に出て来る相待・絶待とは違います。相対性原理と言う相対は前者で、その相対に対して絶対が有るでしょう。仏法の方では五重相対の相対が在ります。絶対という用語は、調べた範囲では経文等に仲々見当りません。仏法では・相待・それから絶待、『六巻抄』等には・逆にした・待絶・という用語が在ります。この<待>の字が違うでしょう。

 相対は、現象と現象との間の相互否定的な関係を言っています。つまり対立関係・抗争関係、関係であり構造であり相互否定的な関わりである所を意味しています。絶対は、言語上では相対に<対>している訳ですが、その<対>を超えてしまった理想的な<モデル状能>を指し示しています。

 相対でもそうなのですが、特に絶対という事は、まず直ちに関係や構造ではなくて、その前に個在を仮定して、仮定されたその個の独自存立を言っている訳です。

 個の独自存立は何処迄も仮定でしかありませんが、その個の独立自存の存立と実体というものは、この<対概念>の基礎になっている訳です。ところが学問的に反省してみると、実はこの対概念は・待概念という包攝基盤を持たないと成立出来ないのです。

 それで仏法の場合、<待>は、関係とか構造とかいう意味と共に、その前にまず・相依性と優劣とを言っている訳です。<待>は相い待する二支が互いに相手を求め合っている関係・を意味します。対立し敵対するにも・まずその前に求め合わないと対立さえ出来ません。まず両々相俟って一緒になる必要が有ります。これが<待>です。

 碁・将棋や相撲でもそうでしょう。戦い闘うにしても・その前に対立(睨み合い)段階が在り、その対立の前にまず求め合う待立が必要です。呼び出しが東西の力士を呼び挙げるのが相待です。待概念在ってこその対概念・対立です。闘いは・敵対はその後です。

 それで何よりもまず相待……。待概念は縁起観から必然的に出て来るものです。求め合って相い寄り・相い依り・相い待つから相待です。これが<縁起>という<関係>です。この概念は、何も反省判断を待つ事無く成立する推理上の概念ですから俗諦です。俗諦上の概念ですが、仏法の中では迚も大事な役割を担うのです。

 絶待妙とか遮照絶待・という用語が在りますが、この<絶待>の方は……。

 <絶待>という事は、劣を捨てて勝を取る・それを重ねて行くと・もう相待すべきもの(相手)が無くなる。相待が絶待の中に皆取込まれてしまう。勝劣の儘取込まれて質が転化してしまう。この絶待作用は究極の根源法にだけ備わっている事です。

 ですから、待と対とは字の感じや発音は似ていても、概念内容は丸で違います。「一般には絶待の待は対の字を使う」という某『大辞典』の解説は決定的致命的な誤りです。但し昔の人が当て字に使った例は在るかもしれません。

 更にこれにはもう一段有ります。人法について劣を捨てて勝を取って、然も劣をも取込み生かして用いる(功帰)。法に就いて(就法)これを随義転用とも法開会とも言いますが、絶待の中に取込まれて質が・良い方へ転化したものを・活きの法門として生かして用いる。絶待はそこ迄行っています。

 華厳は<死法門。(一代経中の根源法が判っていない為に法門が効力を失っている・という事)で法華体内(法華の中に取込まれて法華義で解釈されている事)の華厳は<活法門>(根源法が判っているので法門が有効に働いている・という事)なり・と「三重秘伝抄」に在りました。

 体内・体外も又反省判断の所産です。仏法ではこの判断の否定は<無>・肯定は<有>と表現されますが、万象を仏界から見れば、有にも無にも非ず……空と言う。その空を踏まえた儘に有無に非ずして有無の仮に偏する。それを妙とは申すなり、中道一実の妙体なるを云云・と在ります。こういう考え方は<待>からしか出て来ませんね。

 そういう風に・反省の有無を体内に取込んだ一実妙体の中道が<絶待妙>です。この場合の絶待はこちらの<待>です。能く出版物の活字は<待>を使っていますが、正確に言うと当て字も甚だしい所です。でなければ区別が頭の中に無い為の誤りでしょう。

 その絶待に待して<待絶>という用語があります。相待を絶したのが絶待で、これは教の解の上の事。それが行の観の上に転ずれば待絶になる・と言われますが……。

 <待絶>は「待対を絶する」という事で、相待・絶待・共に絶する。解(理解)の分域を断って行へ進む事です。「待対」というのは要するに・取捨の必要から<相依りながら成立し合っているものを較べる>という事、比較判断です。

 その比較判断を絶した行業の領域が待絶です。絶得で理論上これ以上比較する必要の方は無くなったが、まだ修行に使う方の用事は残っている。その<使用>が待絶という事になります。絶待は教での面・待絶は行での面・という事です。同ながら違い目も有ります。

 両者は違ってもいないし・又違ってもいて不一不異。でなければ亦違亦同。教が行と別の事を教えたら教ではないし、行が教と同じなら行は無用、違うなら非行……。

 待絶は「待対既に絶す、即ち有為に非ず、四句(四句分別)を以って思うべからず故に言説の道に非ず心識の行に非ず(『止観』)ですから、絶待を本来の全体無制約無分別界の不可思議妙境へ引戻して捉えた法体・の修行を指す言葉です。例えば止観行を「不思議十乗十境待絶滅絶寂照の行」(『弘決』)という風に表現しています。

 絶待と待絶とはその法体は同じ一つのものですが、解の面から眺めれば絶待、行の面から捉えれば待絶、こういう違い目が出て来ます。両者は勝劣しております。智解よりも事行の方が勝れます。妙解を開いて妙行が立つ訳です。「慧は行を浄くし・行は慧を進め」「一体の二手が更互に揩摩するが如く」(『止観』)修行して参ります。