(9)科学的形而上学的存在論の乞食スープ

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(9)科学的形而上学存在論の乞食スープ

 或る記事に「三諦の法理はあらゆる存在・事物に具わっている不変の真理ですが」という書き出しで

 「水には”湿り”という性質があり、温度によって変化するという力用(りきゆう)があります。こうした性質は空諦といえましょう。この水はある時には固体の氷になり、また気体の水蒸気になったりもします。そのような具体的な姿形が仮諦です。しかし、姿形は変わってもH2Oという水の本体は変わりがありません。それが中諦といえます。人間の場合においても、Aという人がいて、年齢とともに姿形が変わっていくでしょう。その変わる姿が仮諦であり、AにはAとしての性質や知恵があり、それが空諦。更に三歳の時のAも、四十歳の時のAも、一人のAであることに変わりはありません。このAという人間そのものが中諦といえます」

というのが在りました。これはどうですか。観と諦との相依を無視して、観を除外した諦を説いた・としか見えませんが……。

 これは何とも無茶苦茶でとんでもない破仏法です。この記事が述べた所は全部・推理でしかない比量つまり世俗の分別で、然も偽分別・虚偽にすぎず、俗諦にもならないヴイカルパ(妄分別)でしかありません。仏法には縁も所縁(ゆかり)も全く無い根底から誤った見解です。

 科学知識と形而上学存在論で三諦を手前勝手に解釈したからこうなったのです。摧尊入卑の大謗法です。「仏誡めて云く、謗法の人を見て其の失を顕わさざれば仏弟子に非ずと」と言われております。この破仏法解釈はとんでもない謗法です。大非法です。

 三諦の法理は「あらゆる存在・事物に具わっている法理」などではありません。そんな客観上の「不変の真理」などではありません。これでは三諦は<己心の法>ではなくて<他心の法>ではありませんか。

 三諦の理が存在・事物に具わっているものならば科学のカで見出せる筈です。そうならば製薬会社で”三諦の素”でも造って売りに出したら好いでしょう。挙会社の株価がピンと跳ね上る事・請合です。これでは仏法無用・修行無用・反省無用です。

 存在・事物に具わっているのは常に比量法理ばかりで、だから科学で見出せるのです。自分の勝手な情量に頼って三諦法理を客覿し、そして諦を事物側に寄せて考えている事こそ決定的な迷い・邪見なのです。三諦は智法です。境法ではありません。

 三諦が存在・事物側に具わっているならば、前の沙羅林の実報土・寂光土性そしてその相を・誰でも客観的に実験証明出来る筈です。その性相は比量な筈ですから出来る筈です。ところがどんな科学者でもこれは原理上不可能です。というのは、寂光土や三諦は思量であって比量ではないからです。伝教大師が言う様に「諸(もろもろ)の情量を絶せよ」です。真諦は人智の側にしか無いのです。

 三観三諦について観は因行・諦は果徳ですから、行修の人にしか三諦は得られませんね。その行修の人だけが存在・事物について三諦を得られ、いわばその人が攝取した事物・存在が<その人に対してだけ>三諦を現わし・その己心に現われている訳です。この記事のこの手の論法を流行らせるのは大変な誤りを広める事になる・と思います。

 水の湿りは現量で、湿りという性質は比量です。湿り具合も比量です。固体・気体・液体は現量です。H2Oという本体――これはHとOとの縁起仮有の状態つまり<佇(たたず)まい>であって<本体>ではない――は比量です。こうした現量や比量が、虚妄の仮でこそあれ、どうして空諦・仮諦・中諦なのか。書いた本人が何も解っていない証拠だ・としか言えません。

 Aという人がいて……これは現量です。年齢と共に変わっていく姿……は比量です。Aとしての性質や知恵……は性質や知恵の自己同一にすぎません。やはり比量です。単なる普遍です。空性ではあっても決して空諦ではありません。

 大体、人の性質や知恵は、自性が無いものであって、年と共に縁起無常で必ず変って行くものです。<Aとしての性質や知恵>などという<一個人に属する独特なもの>――これでは自性だ――などは在り得る筈が無いのです。自性では中はおろか空にもなり得ません。

 これはギリシャ存在論の<実体と本質と属性>という在りもしない虚妄な思考に騙されているからそう考えるのです。それへ自分の科学知識をこね雑ぜ合わせたから、こういう解釈になってしまったのです。こういうのを・折衷主義の乞食スープ(レーニン)・と言うのです。

 三歳のA・四十歳のAは現量です。歳を貫く一人のAは時間軸上の普遍で比量です。やはりA個人の<存在としての自己同一>にすぎす、これは空法であって断じて中諦ではありません。比量は俗諦にすぎず、真諦ではありません。凡人が凡夫一般について幾らそんな事柄を推理し叙述しても、仮諦も空諦も況んや中諦など、出て来る訳が有りません。

 凡人の思量でさえ出て来ない三諦なのに、どうして現量や比量(俗諦)を直指して三諦(真諦)だ・と言えますか。それならば禅宗の「直指人心見性成仏」の方が、この記事の論よりも余程益しだ・という事になってしまいます。心性を比量して見る点では全く同じではありませんか。この論は禅天魔にも増した大妄語です。見惑の極です。

 筆者はこの記事に自信を持っていない筈です。まず自分が知りもしない癖に、三諦論を安直に現代風にアレンジ(整理)し・科学論化して人に解らせようなどと、浅はかに思い上がって考えるから、こういう大邪見の記事になってしまうのです。全く以って良い所・正しい所は一箇所も在りません。大非法の極です。こういうのを六師外道見と言うのです。

 この記事についての事は判りましたが、どうしてこういう事になってしまうのでしょうか。自分の才を頼んだのか、勉強不足から来たのか、仏法を軽く考えて取扱った為か、周りの教えて呉れる人がそう教えた為か……。事情は色々存る・とは思いますが……。

 教えた師匠が悪い事は言う迄もありません。条件は色々在った・と思います。その中で一番基本となる条件は、身を以って反省修習していない・という一点に集中する・と思います。仏法の<三学>の<学>は<修習>です。これに身が入っていないからです。修行への態度が逆様なのです。

 <修行>で<実存>を得ずしてどうして<事法>の<形而下世界>の<真>(仮)が得られますか。事法の形而下世界の真を得ずしてどうして<形而上世界>の<理法>(空)が解りますか。況んやどうして反省事理法(中)が解りますか。所詮この人は無反省で・自分自身と戦っていないのです。

 年が若かろうと何だろうと、真に<理法>が解るのは、正しい<修行>を正しく真実真剣に実践して・なにがしかの<実存>を得ているからです。これが「剣豪の修行を思わせる厳格なる鍛錬」というものです。我々でも誰でもそうです。竜樹・天台・皆然りです。そしてその為に憎まれ煙たがられるのです。

 現量や比量の仮は全て虚妄の仮・という事でした。こうした現量や比量――比量はメタ現量となる――を再々思量した出世間の思量仮でないと建立の仮ではない。これが仮諦であって、虚妄現量仮(含・比量仮)は仮諦ではない・という事は明らかになった・と思います。

 <量>の理解が大切である事は判りました。これらの量知とか推量の様に<量>の付く用語は明治期迄は沢山使われていた様です。今でもその一部は結構残って日常使用されております。俗化してしまったのもあります。

 寿量・無量・現量・籌量・推量・詮量・比量・思量・情量・器量・度量・測量・計量・局量・酌量・裁量・などと沢山在りますが、この<裁量>というのは「或る分別や反省について、自分の考え通りに判断を決めて処置する事」を言います。能く出て来る「裁量権」などと言うのがこれです。

 人は法(現量)に当面すれば当然何等かの対応をしなければなりません。処置に迫られます。そして、現量(虚妄仮)はその儘では信用出来ませんから再び裁量し直さなければならず、それには計量上・比量と思量との二つ・つまり論理操作(推理・叙述判断)と反省判断との二筋道が在ります。そこで次の様になります。 

 

 

 

(把握)

諸 法

 (仮)

 

 

 

 

 

 

 

裁量

 

 

 

 

 

 

 

 

推量

 

 

 

 

 

 

 

 

 

智目

 

 

 

分別

 

 

解=比量→思量

 

(修習)(思考)(反省)(遮)

 

(三観)(反省)(自覚)(照)

 

行=思量→詮量

 

 

 

建立

 

量知

 

体得

 

 

 

 

二而

 

不二

 

一如

 

 

 

 

得意三諦

 

覚了三千

 

成就菩提

 

 

 

 

 

 

 

 

行足

 

 

 

 

無分別

 

 

但し以上は妙法を持(たも)っている人についての話です。妙法を持たなければこうはなりません。

「但己心の妙法を観ぜよ……若し妙法を捨てば何物を己心と為して観ず可きや」(立正観抄)です。観は推理ではありません。反照観察・と天台が述べている通りに<反省>の事です。反照は推論ではありません。

 ですから「十如是事」では・本覚の視点からは相性体の三如是が三諦である事・をまず挙げて「かう解(さと)り明らかに観ずれば此の身頓(やが)て今生の中に本覚の如来を顕わし即身成仏とはいはるるなり」と締括って示しておられます。<観>が条件です。

 三観三諦は『止観』に示した止観行で、天台の説己心中所行法門です。立正観抄に「説己心中所に行法門……天台の所行の法門は法華経なるが故に」とございます。

 前表について、立行量知は、仏智つまり無上智慧の無分別智という自受用般若の智徳で体得知された自覚知ですから、虚妄の仮であった現量諸法を種(因)として、思量仮つまり建立仮という仮諦が会得(果)される訳です。修行因果で得る訳です。

 ですから妙法を持(たも)たない己心など、幾ら観じても、所詮・出て来るものは流転の六道だけ……つまりは消化不良の現量諸法虚妄仮か、せいぜい俗諦の比量仮(これも虚妄仮)ばかりで、仮諦は絶対に出て参りません。前出所載記事に騙されてはなりません。

 

龍樹 (講談社学術文庫)

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