現代諸学と仏法 序 第一原理考争 2 法身中心は一応の話 (3)仏法は反省自覚法――自覚の上での認識論

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(3)仏法は反省自覚法――自覚の上での認識論

 そうすると、仏法の論は自覚論であって、存在論でも認識論でもない・という事になりますが……。

 仏法そのものは・小乗から文底迄全部・修行論による自覚論であって、その他の何物でもありません。そこがややこしい所です。仏教は、自分を含む世界をどう認識するか(存在論)・という目標を立てたものではありませんし、又、全世界を認識するその認識はどの様なからくりで成立するのか(認識論)・という哲学レベルを目標にしている訳でもありません。目標は解脱に在り・です。

 反省自覚法として、何処迄も修行の勧めなのですね。六道流転への誡め・仏界への勧め……。

 つまり仏法というものは、存在論でもなければ認識論でもないし、修行論とは言っても単なる経験論でもありません。然し世俗からの現実の超脱正理(ニャーヤ)を説いて修行を勧めるのですから、正理を明らかにするには・存在論も・認識論も・経験論も・皆登場して参ります。これは皆・正しい自覚論へ集約するものとして、合理性を貫いて説かれている訳です。

 仏道修行は必ず、信と信から出た知慧・とが基礎になります。仏法は<知慧の学び>であって哲学ではないが、大いに哲学面も説かれている・という事ですね。

 そうです。その哲学面を取上げて言うならば・仏法は認識論が中心です。哲学面での中心の<説かれた理論>の<骨組>は徹頭徹尾・認識論です。決して存在論ではありません。存在論は境法です。仏法は智法ですから認識論――自覚認識論――の方を説く訳です。

 というのは、枝葉を払除けた仏法理論の根幹は、色受想行識の五蘊(ごうん)という事を挙げて、<自分が如何に拘って・どの様な構造・仕組で世界を識り己れを識るか>を中心課題とし、結局は八万法蔵の哲学面での議論がこの一点に尽きるからです。

 顧の五蘊縁起説が・事(じ)としては自覚論であり・理としては認識論だからです。この五蘊法は智法であって・本来は境法ではありません。対象化すれば境法にもなる・という事と・元来智法である・という事とは違う事です。

 そうすると、仏法はその立場上・認識論を展開しているのであって、この事は「存在論よりも認識論が優れているのだ・こちらが第一原理だ」と主張しているのではありませんね。敢えて認識論を存在論よりも優位に据えているのですね。

 そうです。仏法は・哲学的説明や知識理論面は徹底して認識論であって、どんなに存在論の部分が在ったとしても、それは常に認識論優位下での・それへ役立てる為の存在論になっております。経も釈も論も全てそうです。更に、認識論と言っても・それは自覚論の体内(その大枠の中)の認識論です。

 自覚内容を他者へ語り掛ければ、成行きの必然で認識論にならざるを得ません。そこは仏と衆生・能化と所化・我れと汝・の二人称世界です。社会関係の領域です。だから元々自覚一人称の仏法から、仏教という・客観化し二人称化した教法・が成立っています。そしてその教法の<述べ方・記述の仕方>は三人称化しています。三人称化は方便・手段です。

 自覚世界は個人個人の世界で一人称世界・我れと汝との社会関係は二人称世界です。これに対して・三人称世界は、個人からは外化して独立してしまった所の・その替りに万人に共通する世界です。存在の世界はこうした三人称世界ですから、仏法は存在論でない事は能く判ります。

 仏法理論は一貫して認識論である・という事は、認識論や認識が優位であって・存在論や存在とか存立とかはそれより劣る・とか、存在や存立に動かされて人間は認識するのだ・という事とは違う事ですね。混同したら大変な事になります。

 <認識>と言うと普通は、誰にでも受容れられる認識・つまり二人称・三人称の枠内での認識になります。<存在>についても事情は同じです。ところが<認識論・存在論>という事になりますと、元々は一人称世界を舞台にして思考される事が殆どで、この為に・諸説相容れない・事が多いのです。この事から哲学は<孤高の学>だ・と言われています。

 然し能く考えてみると・孤高であっても、認識論は存在論形而上学を除外しては論じられないし、存在論形而上学も認識論を除外しては論じられません。どの論もお互いに<含み合い>の上で成立している訳です。そこで・どれを原理上優位に置くか・はその論者が立場で決める事です。つまり・どの論を論ずるか・に従って決まる事です。

 優位や従属関係は自然決定するのではない・という事ですね。そうかと言って勝手に好き嫌いで決められても困りますが……。

 もう一つ。仏法は終始一貫<反省自覚実践法>で、説かれた法門の哲学理論は徹底して認識論なのですが、ここから一つの混同が生じます。仏法は徹頭徹尾・認識論である・と言うと、反対解釈をして、すぐ、それでは全て認識が中心なのだ・と認識優位論が出て来ます。これは誤解ですが、大抵そこがこんがらがるのです。

 存在の世界(三人称世界)では存在が優位に立ち、認識の世界(二・三人称世界)では認識が優位に立つ。これは当然な事ですが、そうかといって、三人称世界と二人称世界とどちらが優位に立つか・と問うのは成立たない設問になります。

 認識優位か存在優位か・どちらが第一原理か・と言うのは、論争自体が成立ちません。過去の哲学史上ではこの点・無意味無効不毛な論争をしていたのです。そういう風に優劣を着けたがるのは、心情から出た事で、理性の預かり知る所ではなかったのです。間違いだったのです。

 その論争の代表例は、割に近い所では、マルキシズムの側から盛んに仕掛けられました。物質を第一原理と固執して、意識は物質の反映だから物質優位だ・観念論は皆逆立ちだ・と主張されました。これも結局・理性を装った心情論であった・事が明らかです。

 但・念の為に了解を求めたいのですが、普通<認識>と言うと、それは<理智によって客観対象を合理的に知る事>を意味します。だもここではもう少し広い範囲で用いた事を認めて欲しい・と思います。

 概念操作以外の認識も在るのでして……、というのは、信仰して知られた仏法は非合理体得事法ですし、信仰者の認識は、対象を客観して得るのではなく、直接把握した対象を再度想い返し・反省して認識するからです。然も必ずしも合理的に思考して認識するのではない・からです。信の上での反省自覚の認識になるからです。

 そこが仲々大事な問題です。直接体験における自覚認知結果としての認識そのものと、その体験内容を過去化し一般化した理論としての認識とでは、同じ言葉で「認識」と言っても、違った内容の意味を帯びて来る訳ですね。

 先のは現実生活の上での・後のは理論としての・認識です。実際に環境と関係して自覚した内容を理論化すると、どうしても認識論にならざるを得ません。存在論には成りません。

 

 

ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学 (中公文庫)

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