現代諸学と仏法 序 第一原理考争 2 法身中心は一応の話 (5)如来秘密(体験)と神通之力(表現)

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(5)如来秘密(体験)と神通之力(表現)

 各宗派の本尊を見ると、禅宗は本来は無本尊で、法身本尊は真言宗だけです。東南アジアの小乗仏教には応身本尊が見られますが、あと、中国や日本では報身本尊が圧倒的に多い・と思います。この事は、仏法は報身中心が当然の常識になっていた・という証拠である・とも言えそうです。

 その反面、人法体一の報身・という事を説いたのは『法華経』寿量品だけで、あとは法勝人劣を説く経ばかりですので、真の報身中心思想は仲々浸透し難(にく)い・とも言えます。この辺はどういうものでしょうか。

 その寿量品に「如来秘密神通之カ」と説かれておりまして、『文句記』には、如来秘密とは、昔からこの寿量品迄まだ説かなかった人法体一の自受用三身即一の報身如来という事・これが<秘>であり、唯・仏と仏のみがこの事を知ろしめしていたその事を<密>と言うのである・と述べております。

 この事が正に如来の秘密だった訳でして、報身中心が仲々浸透し難いのは寧ろ当然だ・とも言えます。この究極が説かれた以上は、これに背いて法身中心や単報身を固執すれば、何宗であれ非法な訳です。応身本尊主義も同様です。

 自覚と認識との関係からしますと、「如来秘密神通之力」という事は、大変な事を教えている・と思います。「如来秘密は体の三身にして本仏・神通之力は用の三身にして迹仏」と説明されておりますが……。

 その局面からの問題としては、如来秘密は、<秘密>と言っても、何も意地悪で勿体を付けて隠している訳ではないでしょう。仏様が悟った自覚体験というものは、説いても説いても言葉には言表わせない部分が残ってしまう。その部分は自然に秘密になってしまいます。

 妙楽大師は「一身即三身三身即一身が秘密だ」と教えております。人法のうちの人の方で示しています。

 それで説明しきれたか・と言えば、そうではなくて、まだ余りが在る筈です。それで妙楽大師の言わんとする所は、一身即三身三身即一身・という言表を通して、それによっては説明しきれない仏様の生(なま)の自覚体験・これが如来秘密なのだぞ・と教えている訳でしょう。だがそこでストップすると衆生へ伝達出来ないから神通之力を出す訳です。

 神通之力というのは、様々な表現をして、法説・譬論説・因縁説・あらゆる説を動員して、なるべく相手に判る様に判る様にと肉迫して行く力が神通之力で、それが用だ・と言うのですね。体と用とは一体化していますが、尚その間には本迹関係が保たれています。用の三身の方は迹です。

 如来秘密である体の方は説明しきれない訳です。説明しきれないから・と言って、始めから諦めて誰にも言わないのでは化導になりません。そこで用の力を出して頑張って説明する。その部分が神通之カでしょう。この、体験における自覚認識・と聞法における説かれて知った認識・とは違うでしょう。前のは体の方で後のは用の方です。

 仏法は認識論だ・と言うのは後者の方の<用の認識>に関してなのですね。

 そうです。「説示」と言いまして、仏様が衆生に教えるには<説く>方法と<示す>方法との二様が在りますが、用の方は<説>の方として理論化されたものですから、そこの所が、表現で言えば<間接表現>になっている訳です。ところが如来秘密の方は<示す>以外には教える事の出来ない<表現以前>の直接体験なのです。

 若しも衆生がその仏様に直かに御目に掛かっていれば、その場の仏様の慈顔や御振舞いなどから直接表現(示の方)を受取る事は出来るでしょう。これは感応という事になります。然し滅後の衆生は、間接表現としての<用の認識>である・説法・の記述としての経文にしか接する手立ては無い訳です。

 直接体験における自己認識や世界認識と、それが後に理論化され間接化されたものとは、同じく「認識」と言っても中味が違って来ております。後者は中味が減っています。言葉が同じなので混同され勝ちです。

 自行の体の所は自覚であって、最早・論理や認識ではありません。化他の用の所へ来て初めて論理や認識という事が浮かんで来るのです。論理以前・認識以前の自覚世界というものは如々とした状態でしょう。これは正に只今も如々真実の道に乗じつつある進行形のものです。

 「如来如実知見……無有生死……非実非虚・非如非異」(寿量品)と言われております。

 <体>の進行形の如実知見とはそうしたものです。この知見者は他ならぬ報身如来様で、「如々の智・如々の境に称(かな)う」(『文句記』)て人法体一になっている訳です。人法一箇のこの称(かな)うている所を境智和合とも冥合とも言うでしょう。この様に仏様の自覚世界は如実で、他からはどう仕様も無い境智冥合の世界です。

 冥合と言うと、まず前に二つの事が有って後で融合ったみたいですが、実はアプリオリ(先天的)に一つしか無い事です。体の秘密が論理以前の如々とした自覚世界だ・という事は、仏様に関してだけではなくて、総じて言えば、衆生の色々な活動についても同じ理合いでしょう。

 眼を開いて絶待妙の立場から見れば、仏様も衆生も・そういうからくりについては同じです。体用二而不二体一です。非如非異です。

 

 

ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学 (中公文庫)

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