現代諸学と仏法 序 第一原理考争 2 法身中心は一応の話 (2)自覚への勧め・自覚への学び

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(2)自覚への勧め・自覚への学び

 仏様の方からすると、仏教の全体は「この様に修行して苦から解脱しなさい」という大慈大悲(与楽抜苦)からの<仏様からの勧め>です。自覚の勧め・とはこの事ですね。

 この勧めを受取る衆生の方としては「ではどの様に行ずるのか」という事になります。これに対して仏様は「己れの作業(さごう・行為の事)を反省して仏界を自覚出来る様に」行ぜよ・と言う訳です。仏様が大悟以前に反省し・そして自覚して・開悟した経験に基づいて、自分と同じ事を衆生にも「行ってみなさい」と言っている訳です。

 勧める仏様は<反省―自覚>の行を勧め、受取る衆生の方は<反省―自覚>の実現を期して行を励む訳ですから、仏教の<教法の基本オルガノン>たる理論も<反省―自覚>という事になります。八万法蔵も結局は教(理)行(事)共にこの一点に集中している訳です。この一点が<観心>です。

 普通<観心>と言うと、教相に対して観心・と言います。一般に、内観・観心・観念・観法・……。皆ごちゃごちゃに使う傾きが有りますが、本当は整理して理解しなければなりませんね。真の観心は・反省→自覚・でしか得られない。これを<得意>と言いますが大事な事ですね。

 <観心は反省自覚なり>です。推理つまり論理考察からは決して観心は得られません。己心を観じて十法界を見る・そして仏界を得る。これが観心です。信心を以って観心とするのが下種仏法ですが、ハイ・信じました・反省の方はしません・己心に十法界はとても見えません・では観心とは言えません。信心とも言えません。

 仏法では、我が己心(心法)に就いて(就法)反省→自覚で得た<一如の境智=仏界>(巧帰)を<観心>と言い、これが仏道修行の目標な訳です。観心とは・自分の九界を反省して仏界を自覚する事です。この観心は最高の智法です。境法ではありません。

 観法とは・その己心の内容を法(境法)の面で観る・のですから「故に止観に至って正しく観法を明かす、並びに三千を以って指南と為す」(妙楽・『弘決』)という事になる訳ですね。

 「説己心中所行法門……天台の所行の法門は法華経なるが故に、……但己心の妙法を観ぜよ……若し妙法を捨てば何物を己心と為して観ず可きや」(立正観抄)という所を能く考えて見るべきです。仏法は論理(正しくは論法)的にも倫理的にも全て反省自覚法です。智法です。

 普通そこの所が一向に理解されていない様です。仏法は反省自覚法だ・と言うと、何か現代の新説の様に受取られ兼ねません。少し述べて置いて下さい。

 六道九界を反省して仏界を目指し、修行し自覚してそれを得るから・九界即仏界・が実現します。九界を反省して自覚するから初めて仏界の身に成得ます。これ以外に九界即仏界を実現出来る道筋は無い訳です。

 この反省自覚の・道筋と具体策・を教えているのが仏法です。持戒にせよ・禅定にせよ・読誦にせよ、皆その<筋道・具体策>として教えられているものです。三世諸仏と仏国土との関係で仮令教主が替ったとしても、反省自覚・という教えの骨格は変わりません。

 凡(およ)その所は判りますが、それを少し具体的に示してみて下さい。

 例えば持戒を考えてみましょう。これは何も・聖人君子になれ・と勧めているのではありません。施戒とは、防非止悪(戒)で自ら身口意の三業を規制する事に依って、凡身凡心を外側から規制して、規制の強制力で反省させ、その反省をバネにして仏と法とを求めさせ、その求道の力で仏界を自覚出来る様に仕向けている訳です。

 坐禅で代表される禅定修行の場合はどうですか。<定>とは<一心不乱>の事で、何も坐禅だけがその方法になる訳ではありませんが……。天台では・常坐・常行・半行半坐・非行非坐・の四種類の禅定三昧行(四種三昧)を説いております。

 禅定修行で歩行禅をしても坐禅を組んでも同じ事です。心を<からっぽ>にするだけならば只の<お休み>です。ストレス解消の健康法にしかなりません。目を半眼にし・背筋を伸ばして身を不動に保つのは、不動心で心を集中する<目標>を持つ事です。煩悩が乱心を起こしてその<目標>を壊しに来るから、それに負けない態勢を取る為です。

 ですからこれは己れとの闘いです。それで、心を観ずる・といって、自分の心の中の求道心を通して凡心を反省し、予(かね)て教えられていた法理を想起して仏を求めるから・初めて・心を観じた事になります。

 ですから、妙法を受持しない心・では観ずべき対象が無くて、自覚の目標が無い訳です。こうなると、空見に堕して空病患者になってしまうだけになります。事情は読誦受修行の場合も全く同様です。<反省→自覚>が仏道修行なのです。

 これは世間通俗の反省とは凡そ違ったものですね。

 天台はこの<反省→自覚>の道筋を<反照観察>と言っています。『止観』大意章の「心の起こす所の善悪の諸念――に(九界の諸念)――従って無住著の智を以って反照し観察すべし」と言うのがこれです。この<反照観>が反省行です。

 反省するには、筋道・具体策を教えた教理・教法・が是非共必要な事がそれで判ります。この教理・教法という化法に対する化儀が或いは持戒であり・或いは坐禅であり・読誦な訳ですね。これらの行態を貫いているバックボーンが反省行為という事なのであり、これも又智法なのですね。

 口では「反省」と簡単に言えますが、実際には<反省する>という事は実に難しい事なのです。誰でも・自分のした事は・そんなに悪くはない・と思っています。自己辨護の心理がすぐ働くのです。

 世間に向かっては、合理化の口実を付けて誤魔化したくなりますし、自分に対しては慰めの理屈を色々と立て、結局・反省はお座成りで終ります。

 仏法の反省はもっと難しいのです。今の自分はなに界か・を反省するとしても、反省して・地獄・餓鬼・畜生・修羅・という界へ行っては何にもなりません。反省して・人界・天界・二乗界・へ行く事(自覚する事)ならば、仏法は無くても自分の努力で出来ます。

 ところが、菩薩界・仏界を自覚するような反省だけは、仏法無しでは、<教法>無しでは、絶対に出来ない訳です。釈尊以来・時代毎に教法は変わって来ましたが、どの教法でも反省自覚法であったし、この一点は永久不変です。仏法は反省自覚法です。反省自覚の智法です。断じて境法ではありません。

 反省自覚法と言うと、現代の論理学では<論理の限界を超えた・自我の自覚を得る為の弁証法>の事を指しています。仏法のは当然これとは違ったものですが、仏法内に反省自覚という事を教えた用語は無かったものでしょうか。

 梵語ブッダ仏陀)は漢語では「覚者」と訳されています。これは・悟った人・の意ですが、悟りとは抑も<唯自覚了>の事です。<唯(ただ)自(みずか)ら覚り了(おわ)った人>ですから・唯自覚了の人・が覚者になった訳です。唯自覚了を縮めれば<自覚>という言葉になり、これが現代でも盛んに使われている訳です。

 今世間で使っているのは西洋哲学が入ってきた明治以降の風潮で、儒教の筋から取入れて<反省>と語用をしている・と思います。仏教の方からは来ていない・と思います。江戸時代の朱子学に語源が在ったのではないでしょうか。

 それはともかくとして、<反省>の方は<省=顧=かえりみる>から現代用語として使われる様になりましたが、昔では<沈思量知>がこの意味でした。この沈思の思は思或の思――これは<情>の意――ではなくて、内省・内観・自己反省・の事です。量知は・はか(量)って知る・事ですから、沈思量知は<反省知識>という事になります。

 沈思量知を縮めて<思量>という用語が在り、「此れ即ち不可なり――何(いか)に為(せ)ん何に為ん学者思量せよ」(末法相応抄)という風に使われていました。「学ぶ者よ反省しなさい」と言う訳です。ですから漢語の筋からすれば、「仏法は反省自覚法だ」と言うのは「仏法は沈思量知唯自覚了法なり」という事になります。

 この<思量>は『法華経』方便品等にも盛んに出て参りますが……。

 この思量の<量>(プラマーナ)というのは、仏法を含めたインド哲学での・大事な概念の一つ・でして、<認識根拠・認識手段・認識作用・これらの結果である知識>という意味を合わせ持ちます。

 量論はインド論理学の中心問題であり、仏法論理学(因明・いんみょう)では、認識成立への与件としては、主体与件として<識>を挙げて、<根境識>(十八界)を論じます。<識>の基づく感覚機関が<根>、根の対象が<境>です。こうして知った知識が<量>です。

 インド論理学では、こうして知られた知識は、正しい推理知としての正知も・反省して知られた観知も・どれも皆・解脱へ向けられ、<解脱という目標に添うべきもの>として心得られるのが特徴です。これは西洋の論理学には無い特徴です。

 

ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学 (中公文庫)

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