現代諸学と仏法 序 第一原理考争 2 法身中心は一応の話 (1)認識が先か存在が先か

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2 法身中心は一応の話

(1)認識が先か存在が先か

 第一原理論争の中には、昔から・もう一つ面白い論題が在ります。<存在が先か認識が先か>という・優位を争う問題です。この問題を解こう・という動機が、認識論を生み出す一つの契機になった・と思います。哲学の流れとしては、存在論から始まって認識論へ移り、又存在論への志向が芽生える・といった、曲折した歩みを辿って来たようです。

 存在論ギリシャ以来長く哲学界で主流を占めて来て、一六世紀のデカルトから認識論の時代へ入ったのですが、世の中を客観して論を立てれば、存在でないものは無い・から存在優位の考えになります。これは三人称の世界を展開する事になります。

 でも、一人一人の立場から考えれば、認識されない存在は有得ませんから、この一人称の世界では、認識論から出発しないと、存在はどの様なものなのか・さえ判らない事になります。今では一人称世界で、つまり、一人一人の立場での存在を考える・という存在論さえ在るのでしょう。仏法の中での存在論は常にこの立場です。

 いきなり<一人称・二人称・三人称・の世界>と言うと、理解し難(にく)い向きが在りそうですが……。

 一人称世界は<我れ>の自覚領域・二人称世界は<我れと汝>との社会関係の交渉領域・三人称世界は<あれ・それ・これ>という・存在を客観して認識する領域・ですが、論理命題界の三種類の区別を指します。いずれ論理学に触れる章で詳しくやりましょう。そこで正確に理解出来る・と思います。

 認識論とは<自分を含めた世界の全存在は、人間にとって、どの様なからくりで・どの様に認識されるのか>という<認識成立の仕組>を追求する議論ですが、その発展によって、極端に言えば、今は認識論万能の時代を経て来た時代でしょうが、それでも唯物論者ではない反対論者も居りまして、認識自体も一つの存在だから結局は存在論に帰る・と言っております。「認識論の認識関係もすでに一種の存在関係に他ならない」と言うのがその一例です。これも一理有る所です。

 「認識関係も一種の存在関係に他ならない」と言うならば、「あらゆる存在論の一切の存在と存在関係も、全て認識された上での存在・存在関係・であり、一種の認識関係に他ならない」と言返せる訳です。

 両者の違いは、存在を窓口にするか・認識を窓口にするか・の差でしかありません。学の目的によって窓口は違って来る・のです。この<学の目的>を抜きにして優先論議をしても仕様が無いのです。

 現代の哲学が存在論的基調を帯びたのは、現象学派のハイデッガーの<基礎的存在論>の影響だそうです。彼は・存在者を全面的に超越して存在の意味を問うた哲学者です。然しそうだからと言って、存在優位を主張するならば、これも又いけないのでしょう。

 存在と認識は、互いに相手を求め合う事を最小限の充分条件とし・依り合い・によってのみ成立しています。これが<縁起>という事ですが、縁起の関係が崩れたら・両方とも消滅せざるを得ない道理です。客観や交渉は、この一人称の自覚世界の上へ築かれるのですから、誰の認識にも拘らない昔からの存在が在るのだ・と言っても通用しません。

 存在の独存や認識の独存は金輪際不可能です。両者は<相依>の関係になっております。優先関係は認められません。この点から見ますと、縁起(の法)こそが第一原理なのでして、存在も認識も第一原理たり得ません。

 厳密には、存在・と言っていけなければ、存立でも成立でも出来事でも好いですが、歴史上では、長い間、形而上学的な思弁で第一原理を求めて来た・と思います。総じて形而上学は、合理上では肯定も否定も出来ない概念や命題を沢山取扱いますから、気を付けなければなりませんね。

 とにかく、認識が中心か存立が中心か・と、命題の人称を外(はず)してそういう風に論ずる事自体が錯覚ではないですか。ヴィトゲンシュタインが言う<無意味な命題>というのがこれです。鶏が先か卵が先か・という話に似ています。

 五蘊(ごうん)説からしても、色(しき・存立)と識(了別・認識)に後先(あとさき)・第一第二の優劣など在りません。同時に・色に依らない識は無いし・識に依らない色も無い。それ自体として自然決定される中心など有得ないのです。

 存在も認識も第一原理たり得ない。縁起という法こそが第一原理である・という事になれば、存在と認識・更には存在論と認識論との間の優位争いも消滅せざるを得ませんが、そうすると、論としての第一原理の座を占める第三の論が在る事になります。

 そういう言い方になりますと、第三の論というものは確かに在ります。それは自覚論です。西洋哲学では・自覚論・と言えば<自我の自覚>という事になりますが、決して自我の自覚だけが自覚論なのではありません。キリスト教ならば<原罪>の自覚・という<罪の自覚>が在る訳ですし、善悪の自覚・聖俗の自覚・使命の自覚・才能の目覚め・春の目覚め・等々色々在る事です。

 総じてその<自覚に就いての論>というのは合理主義の路線には乗って来ません。従って<自覚論>というのは、論として成立たせるには非常な困難が伴います。

 仏法では・我が身の六道九界を反省して仏界を自覚する事・を目指します。仏法は反省をバネにして・体験中心に・直接手で掴む様に会得し自覚して行くのですから、この意味では明らかに自覚論です。

 縁起法が第一原理だ・という考え方も認識の一つですが、存在も認識も・存在論も認識論も・全てこうした自覚の領域の上に、その上部構造として発生して来る・のですから、この自覚という下部構造を見落としたり除外したりしてはなりません。

 このような反省自覚を説く仏法というものは、仏様が衆生に対して誡めて・反省を求め・自覚を勧(すす)める教法です。従って経文は修行論が過半を占めております。仏法はその上での<智法>です。勧誡二門に立つ智法です。断じて境法ではありません。

 

ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学 (中公文庫)

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