師弟相対の大事

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『日曜講話』第九号(平成元年7月1日発行)
師弟相対の大事

 田 辺 道 紀 代 講

皆様、お早うございます。本日は御住職様が不在のため、私が日曜講話を代行させていただきます。

 『二乗作仏事』という御書の中に、

 「師子身中の虫、自ら師子を食う」(全五九四)

という一節がございます。皆様も聞かれたことがあると思いますが、この「師子」というのは、一つには動物の獅子、つまり百獣の王、ライオンを指しているわけでありますが、どんな他の動物にも負けることがないという、一番強い動物をいうわけであります。

 また、『御義口伝』下には、

 「師子とは、師は師匠、子は弟子なり」(全七七一)

とありますように、師弟相対と言いまして、師匠と弟子という関係を、「師子」というふうにも言われているわけであります。

 仏法を正しく修行し、功徳を受けるためには、「自分独りで充分だ」とか、「何でも一人で成し遂げられる」とかいうものではありません。そもそも、私達が幼い頃から、言葉を覚え、学問を習い、職を身につけてきたのは、決して自分一人で得たものでなく、常に、両親や友人や先生や先輩・上司といった方々から教えられてきたお陰であります。世間一般の生活においても、そのようなわけですから、ましてや甚深の教えである仏法を、自分独りで、師なくして得られるということは絶対にないのであります。

 以前の日曜講話で、御住職様が「主師親の三徳」ということにつきまして、お話しになったことがあると思いますが、皆様も何度かお寺に参詣されて、このことは、色々な形でお聞きになっていると思います。この日蓮正宗の信仰をするに当たって、必ず師匠であるところの大聖人様と、私達、つまり弟子檀那との間に、師弟相対という大切な関係があります。ここで檀那というのは、布施をする人、また信徒という意味があるわけです。よく御書の中で「弟子檀那」等と言われていますが、それは大聖人様の時代にいらっしゃった信徒の方々を「檀那」と呼んでいるわけであります。その弟子檀那が、師匠から仏法を教わり、信受していくところに、師弟の相対といって、師匠と弟子が、厳然としてそれぞれの立場に立って、しかも相互にしっかりと結び付いているという関係があるわけであります。

 ところが中には、「私は正しい御本尊様を拝し、そして大聖人様の遺された御書を読んで信仰しているから間違いはない」と言って、どんな人の指導も決して聞かないというような人もいると思います。今日ここに来ていらしゃる方の中にはいないと思いますけれども、そういうことでありますと、だんだんと知らず知らずのうちに、自分の我見によって、少しばかりの智慧によって、その狭い智慧を基として、修行していくことになってしまうのであります。そうして、間違った我見に従って自分自身の振舞いを律して、「自分は正しい。間違っていないのだ」というふうに思い込んでしまうのであります。そうなると、もはやそれは本当の仏法ではないし、本当の教えを信仰しているとは言えないわけであります。このような人は、「浅識、計我」等の十四誹謗に当たるわけです。「浅識」とは浅い考え、浅い知識。「計我」というのは我見で計って正法を曲解するという意味です。十四誹謗という虫が生じて、かえって横道に、さ迷ってしまうわけであります。

 『曽谷入道殿御返事』に、

 「心の師とはなるとも、心を師とせざれ」(全一〇二五)

という御書がございます。心の師というのは、皆様それぞれ一人ひとりについて、色々な方がいらしゃると思います。それが両親であったり、学校の先生であったり、先輩方であったりということで、様々ですが、「自分の心を師としてはいけない」というふうに、この御書の中に書かれているわけであります。それぞれの自分の心で思う師匠は色々ありましょうけれども、とりわけ最高の師匠、大聖人様の教えに従わなければいけない。自分勝手の気ままな心を師にしてはいけないということが説かれているわけです。このことを良く気を付けないと、結局、「自分自身が師匠だ。自分は偉いんだ。自分は何でもできるんだ」というような、慢心を起こして、師子身中の虫が、かえって師子の身を食べてしまうようなことになる。師子身中の虫というのは、獅子の体の中に住んでいる虫が、かえって獅子の肉を食い、獅子自らを殺してしまうという意味なのですけれども、その虫がわいて自分自身を滅してしまう、また自分自身を苦しめてしまうということになってしまうわけです。

 今現在、大聖人様から直接に御指導を受け、御説法を聞くということはできないわけであります。しかし、我が日蓮正宗においては、大聖人様から七百余年を経た今日まで、少しも絶えることなく、間違った方向に行くことなく、大聖人様の正法正義がそのままに伝えられています。これはひとえに、大聖人様以来、日興上人、日目上人、そして、今現在の六十七世の日顕上人猊下に至るまで、法水は連綿として、正しい法が受け継がれているからです。それゆえに、今の御法主上人猊下を師匠として仰ぎ、その御任命を受けた各寺院の御住職方から、直接、正しい法義を伺い、御指導を頂くことができるわけです。大聖人様に伺えなくても、その正しい法を受け継がれた御法主上人猊下の御指南を受けて、そして、今、正宗の各お寺の御住職が、皆さんに親しく御指導をして下さるわけであります。ですから末寺の御住職を指導教師として仰ぎ、進んで法話聴聞し、正しい指導を伺うということが大切なことになってくるわけです。

 『華果成就御書』の中に、

 「よき弟子をもつときんば師弟仏果にいたり、あしき弟子をたくはひぬれば師弟地獄にをつといへり。師弟相違せば、なに事も成すべからず」(全九〇〇)

という御書がございます。このことは師匠と弟子という関係において、弟子が間違った道に行ってしまえば、師匠も弟子も共に地獄に堕ちてしまう。そして師匠と弟子が一体となって正しい方向を目指して頑張って行くならば、必ず仏果を成就するということが言われているわけです。師弟相違すれば、何事も成就しない。どんなに願っても叶うことはない。また、お寺と御信徒の関係においても、もし私達僧侶と御信徒の方々が対立してしまったならば、広宣流布という大願は成し遂げられないのであります。どんなことにおいても、私達僧侶と御信徒が一緒になって、異体同心の気持でやっていかないことには、本当の広宣流布は達成しないわけです。これらのことから、私達は、寺檀共に、どんな人でも、一人一人みんな一致団結し、異体同心になって、頑張っていかなければならないわけです。

 ついこの間、ソウルオリンッピクが開かれて、無事成功したようでありますが、そのオリンッピクも、一六〇ヵ国という国々の方々がいらっしゃいまして、皆さん言葉も生活環境も違っているわけでありますけれども、全員が心を一つにして盛大に大会を開き、そしてその最後のフィナーレの時には皆お互いに抱き合って、そしてお互いに成果を喜び合うという光景があったわけです。そういうふうに、今、世界でも、仲良く一つになろうという動きもあります。 ましてや、私達は、この同じ御本尊を拝んで、同じ信仰をしているもの同志ですから、同じ気持でやっていけないということはないわけであります。

 また、僧侶であろうと檀信徒であろうと、大聖人様の弟子檀那として、等しく御本仏の大慈悲を頂戴し、また、浴している恵みには差別はないわけであります。ただし、その功徳を、いかに受けきっていくかという問題が、お互いの信心にかかっているわけであります。

 あと二年後には総本山大石寺の開創七百年という、この宗門においても大きな節目を迎えます。現在の世界の動きを考え、また、宗門のことを考えますと、今こそ、折伏広宣流布に向かって大きく前進しなければならないと思うのです。世間においても、この間のオリンッピクなどでは、お互いに手を結び合って、一緒に汗を流し、団結している姿が見られたわけであります。ましてや私達は、この正しい仏法によって、世界中の人びとを本当に幸せにするという使命観に立って、一人でも多くの人達を折伏し、一人でも多くの眠っている人達を起こして、大石寺開創七百年に向けて頑張って行かなければならないわけです。

 大石寺開創七百年が来るまでには、色々な三障四魔が紛然と競い起こるでしょう。しかし、大聖人様の御在世には、大聖人様御自身が、そういった色々な険難障魔を凌いでこられたわけであります。例えば小松ヶ原においては眉間に刀傷を受けられ、竜の口では頚の座、さらに伊豆や佐渡にも流されるというような法難を蒙られたわけであります。また、御信者も四条金吾南条時光をはじめ色々の方々が法難を忍ばれました。そういうことが、同じ御本尊を拝んでいるのですから、私達にも必ずあると覚悟しておかねばなりません。そういうときに、障魔に打ち勝てる信心を持って頂きたいのであります。いざという時に、三障四魔に負けるような信心では困りますし、また自分の身中の虫に蝕まれるようなことのない信心を持って頂きたいのであります。

 本日は「師子身中の虫、自ら師子を食う」という御書に基づいてお話しをしたわけでございます。これからも皆様方は異体同心の気持を忘れず、また我々は寺檀和合という気持を持ち続け、僧俗一致して、お題目を唱え、より一層頑張っていかなければならないと思うのであります。誠にありがとうございました。

(昭和六十三年十月二十三日)