真の国宝とは何か

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『日曜講話』第一〇号(平成元年9月1日発行)
真の国宝とは何か

 皆さん、お早うございます。皆様方も、よく国宝ということをお聞きになると思います。奈良や京都の古い寺院の建造物とか、あるいは彫刻であるとか、絵画であるとか、そういう国の重要文化財に指定された建物、あるいはまた、人間国宝と申しまして、重要無形文化財というのでしょうか、いろいろな高度な技術を、人よりずば抜けた、すばらしい後世に残したいような、技術や技能や芸能を所持されている人を、国は人間国宝として、あるいは文化勲章というような制度を設けまして、その一芸に秀でた人、学問的な業績をあげた人、そういう人逹に対しまして、年金を授与し長く表彰をし、その人の老後を守るというような制度もございます。世間的には、そういうものを教育的にも、文化的にも、あるいは医学や生活や、いろいろな面で大きな足跡を残した人達を人間国宝といいます。そしてまた、そういう建物とか彫刻とか絵画とか国の文化的所産というものを国宝と名付けております。

 しかし、本当の国の宝というものは、いったい何なのかということを、我々は考えなければいけないと思うのであります。やはり国宝という言葉の中にも、世間的な一般的な国宝という意味と、仏法を根底にした真の国の宝という意味と、二つがあることを知っていただきたいのであります。ちなみに中国の古い書物、老子という方のお書きになった物の中に、いったい国の宝というのは、どういう人をいうのかということをみますと、「よく行い、よく言うことは国の宝なり。言わず行わざるは国の賊なり」ということを言っております。つまり、国宝といわれるほどの人というものは、世間の人びとの規範となるような、あるいは、人びとを正しく教導するような立場に立って、人に先んじて行い、人に先んじて自分を作っていく。そういう人をいい、また、一家の危機存亡の時には、権力を恐れず、国主であろうと、上司であろうと、言いたいことを言い、諫言もし、忠告もし、そして言うべき時は、きちんと言って、そして、その国を守り、社会をささえ、その国の全体の人を救っていくというような人をもって、国の宝というのだということを言っております。

 そのように、古い聖人・賢人といわれる人達は、昔の建物とか遺跡であるとか、文化的な遺産というものだけを国宝といっておるのではなく、一人ひとりの人間、また社会を導く、そして、国家の危機存亡を救う、その時に本当に大事な働きをしたという人をもって、国の宝と申しているのであります。

 ところが、もう一歩進んで仏教の立場から、国の宝というものはどういう人のことをいうのかと申しますと、天台大師は『摩訶止観』というお書き物の中に、

 「遮障を開拓して(遮障というのはわざわいです。三障四魔等のわざわいを開拓して)、内に己が道を進むるのみにあらず、又、経論に精通して(一切経の経論に精通して)、外に未聞を啓く(未だ聞いたことがないことをひらく)。自匠し(みずからを正し)、他を匠す。利を兼ねて具足す。人師の国宝は此れにあらずんば、是れ誰ぞ」(巻第五上、大正蔵四六−四九上)

と申しております。これはどういうことかと申しますと、本当の国の宝といわれる人達は、真の仏法の奥底、正法というものを目指して、その強い求道心の一念をもって、自らを正し、他をも救っていく。そうした自行他行の実践を貫いて、自分が生きていく上の一切の悩みや、苦しみや、三障四魔、襲い来るすべての諸難に打ち勝って、自ら開拓していく。精進していく。その人をもって、真の国宝というのだということを、天台大師は『摩訶止観』に説いているのであります。

 また、日本におきましても、伝教大師という方が、叡山に法華迹門の戒壇を開くにあたりまして、叡山において、いかに人師、つまり人間を育てるべきか、どのような修行をさせていくかということを、定めました『山家学生式』(さんげがくしょうしき)という書物がございます。その伝教大師が、叡山において十二ケ年間費やして、どのような弟子を、どのような国の宝を育てようとしたかというその規範の中に、こういうことが説かれております。

 「国宝とは、何物ぞ。宝とは道心なり(道心とは道を求める心)。宝とは道心なり。道心ある人を名づけて国宝となす。(中略)道心あるの仏子、西には菩薩と称し、東には君子と号す」(伝全一−五)

ということを申しております。

 従って、伝教大師の言葉によりましても、本当の国の宝というのは、一人ひとりの皆様方が持っておられると同じような、正法正師の正義を求める求道心の志を持って、日々、信心において、すべてに打勝っていく人を、真の国の宝という。その一念心が人間を変えて、その人の生活を変え、家庭を変え、人生を変え、そしてまた社会を変え、一家の改革から始まって社会国家、そしてまた、世界全体を救済していくという道につながっているわけであります。一人ひとりの人間の心の改革が、その人の家庭といわず、人生といわず、仕事といわず、命といわず、それが色々な社会の分野に波紋を起こし、社会の全体、国の全体を救済していくということにつながっているということを、深く心に知って、そして、一日一日、道心を起こしていく。発心を繰返していくという人こそが、本当に国の宝なんだ。単なる古い建造物であるとか、どこかの遺跡であるとか、あるいは仏像だとか、彫刻だとかというものは、たしかに人々の心を潤し、歴史的な所産として非常に大事なものでありますけれども、そういうものが、その人の人生や家庭や社会や国家や、そのすべてを救済していく、発展させていく働きを持っているかというと、決してそういうものではないのであります。金銭的な価値や、文化的な価値はあるでしょうけれども、過去の遺跡は遺跡にしかすぎない。彫刻は彫刻でしかない、建物は寿命を持った建物でしかないのであります。

 しかし、仏法におけるところの形には見えないけども、一人ひとりの命の底から持っているところの求道の志、正法正師を実際に自分の命がけで信じ、命がけでそれを修し、そしてまた、自分の命がけで自分の人生や家庭や社会や、そのすべての救済のために精進するということの尊さというものを、私達は知らなければいけません。ひとりの人の発心というものが、家庭の全体を救い、そしてまた、それが一致協力して社会を救い、国を支え、そしてまた、社会の広宣流布を成し遂げていくところに、つながっているわけであります。ですから皆さん方一人ひとり、そんなことまで何も自覚して信心しなさいということは申しませんけれども、少なくとも私達の持っている信心が、それほど大きな意味を持っている。我が家の宝となり、我が社会の宝となり、我が国の宝となり、世界の広宣流布のための宝となっているのだということを知っていただきたいのであります。

 どうか皆様も、そうした自覚の上において、大聖人様が『生死一大事血脈抄』(全一三三七)に言われるように、その求道心を基として、信心を基とした真金(しんこん)の人、本当の宝物を持った、無価(むげ)の宝珠を持った人として、その無価の宝珠を支えとして、この世の中を、広宣流布を開拓していく人になっていただきたいということを申し上げまして、本日の御挨拶とさせていただく次第でございます。御苦労様でございました。

(平成元年二月十九日)