信心の組織の必要性

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『日曜講話』第一〇号(平成元年9月1日発行)
信心の組織の必要性

 皆さん、お早うございます。雨天の中を大勢の皆様が御参詣下さいまして、誠に有り難く存ずる次第でございます。御苦労様でございます。今日は皆様方の信心の上における組織の必要性ということについてのお話しを申し上げたいと思うのであります。皆さん方は、それぞれ創価学会の方か、あるいは旧来の法華講の方々の折伏によって、勧めによって入信をされ、法華講によって折伏を受けた方は、法華講に所属をし、学会の方の御紹介によって入信をした人は、それぞれ学会の組織の中の人として、信心を全うして頂くということでございます。

 日蓮正宗は、現在、第六十七世日顕上人猊下のもとに統率されておりますが、もし仮に、私が、この日蓮正宗から離れて、私一人が勝手に日蓮正宗の僧侶であるということを名乗って、また勝手にどこかに小さな庵を結んで、独自に「私は日蓮正宗の僧侶である。日蓮正宗の人間だ」と、どんなに唱えていても、もはや宗門から離れた人間が、口では立派なことを言いましても、もはや日蓮正宗の僧侶としてはあり得ないのでございます。

 やはり日顕上人猊下のもとに、その統率のもとに、そこに師弟相対の日蓮正宗のきちっとした信心の筋目に則って修行した僧侶であって、はじめて日蓮正宗の僧侶としての資格を持つことができるわけであります。

 皆様方の信心も、やはりそうでありまして、やはり学会で入信した人は、学会の一つの大きな組織の中で信心の錬磨を図っていってこそ、日蓮正宗の信心を正しく遂行していってこそ、大聖人様の弟子・信徒としての信心の道が開けてくるわけであります。法華講の人もまた、法華講の土壌の中にあって、やはり住職を始め、大勢の指導者のもとに、正しい善知識に従って、自分の信心の錬磨を図っていって、はじめて大きな功徳も福徳も身に付けることが出来るわけであります。

 それを勝手に、私は、もう御本尊様さえ頂いたんだから、自分が好きなように、好きな時に、自分勝手に気が向いたように、自分流に信心をして構わないんだと思い、「組織はいやだ。会合はいやだ。あそこへ行くと、あんな人に会わなきゃならないから、いやだ」とか、そういう我がままな、自堕落な、勝手な心でもって信心をしても、決して大聖人様からのお誉めも頂けない。弟子、信徒としての、そうした日蓮正宗におけるいろんな指導性とか、あるいはまた、いろんな意味での人生における悩みや苦しみに打ち勝って行く信心を作り上げて行くということは、絶対に出来ないのであります。

 やはり信心は、正しい御本尊様のもとに、正しい信心の筋目に則って、そして立派な善知識の教導に従って、そして大聖人様の御指南にも触れ、また猊下の御指南にも触れ、そしてまた、権威ある指導者の指導に則って、きちっと自分の信心を常に錬磨していく。精進していく。向上していくということを忘れて、日蓮正宗としての正しい信心を全うするということは絶対に出来ないんだということを、しっかりと皆さん方お一人お一人が心に置いて頂きたいと思うのであります。

 大聖人様は『三三蔵祈雨事』という御書の中に、

 「夫れ木をうえ候には大風吹き候へども、つよきすけ(扶)をかひ(介)ぬれば、たう(倒)れず」(全一四六八)

ということをおっしゃっておられます。一本の草花や、木にいたしましても、もしも強い風が吹いた時には、強い支えがなければ上に伸びていくことは出来ない。立派に根を張り、そしてまた、大樹と育って、そして立派な花を咲かせ、素晴らしい稔りを勝ち得ていくというためには、やはり信心の上における先達や、あるいは同志や、大勢の皆さん方の陰に陽における信心の支えが必要であります。指導が必要であります。

 私達も、みんな今はどんなに若さを誇り、頑健を誇っていても、必ず老いというものがやって参ります。生きていく上には、生きている上での悩みもまた、尽きないものでございます。生老病死、四苦八苦、これはみんなお互いにあるものであります。そうした病魔の時、あるいは壁にぶつかった時、嵐の時、あるいは死に直面する時、そうした時こそ、やはり信心の、皆さん方のお互いの暖かい、そうした力強い支えというものが必要なのであります。そうした意味で、お互いに助け合うんだということが大切なのであります。決して自分で孤立して、人から避けて、そしてとにかく、いつも自分勝手なことをしておりますと、決してそれは大聖人様の御義に叶った信心ではなくて、結局、自分流の自分勝手な信心に、惰性に流されていってしまうのであります。

 そうした意味で、やはりお互いに支えが必要なんだ、指導性というものが必要なんだという意味において、お互いに助け合う組織ということを考えて頂きたいと思います。

 もう一つは、大聖人様は、

 「されば仏になるみちは善知識にはすぎず、わが智慧なににかせん。ただあつ(温)きつめ(寒)たきばかりの智慧だにも候ならば善知識たいせち(大切)なり」(同   上)

ということをおっしゃっております。

 どんなことでも、やはり向上を図っていくためには、お互いに啓発し合うことがなければいけないのであります。書道を習うには、やはり立派な書道の先生に付くことが必要であります。また本当の智慧を、また本当の知識を身に付けたいと思ったら、それがどういう分野であっても、それぞれの道の権威ある立派な人に従って、そうしていってこそ、本当のものを、本物の知識を、本物の技術を身に付けることができるわけであります。

 信心の世界も全くそうでありまして、やはり一流の人に、正しい師匠に、そして立派な善知識に従っていくということを忘れて、あるいはまた、皆さん方の組織の中の立派な手本となる人を鏡として信心をしていってこそ、自分の信心も磨かれていくわけであります。

 大聖人様の教えに触れることもない。猊下の御指南に触れることもない。そしてまた、善知識の教導に触れることもない。ただ自分の枠の中で、自分の小さな殻の中に閉じこもっていて、そして自分流にどんなに御書を読んでみても、結局それは、大聖人様の教えに叶った信心とはならないのであります。

 そうした互いに啓発し合う、学び合う、向上していく、そして福徳を身に付けていくためには、そうした信心の組織は絶対に必要なのだということを、第二番目の意義として知っておいて頂きたいと思います。

 そして三つ目に大切なことは、大聖人様の御精神というものは、やはり広宣流布というところにあるのであります。世界の一切の民衆を末法万年に亙って救っていくというところにあるのでございます。従って広宣流布ということを成し遂げるためには、あるいはまた、そこまでいかなくても、この日本の皆さん方の社会に連なっている一切の人びとを救済していくためには、やはり異体同心ということが必要なのであります。この社会を救い、国を救い、人びとを救い、そして広宣流布を成し遂げていくためには、大聖人様の弟子檀那である私達が、勝手な信心をしていたのでは絶対にこの社会を救えない。日本を救えない。広宣流布を成し遂げることは出来ない。やはり私達は、世界の一切の民衆を救っていくという大きな使命を持っているわけであります。そのためには、お互いが連帯をして、異体同心の信心を貫いてこそ、はじめて広宣流布の大願、大聖人様の本願を成就することが出来るのであります。

 大聖人様は、

 「総じて日蓮が弟子檀那等、自他彼此の心なく水魚の思いを成して異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり」(全一三三七)

ということをおっしゃっておられます。あるいはまた、『異体同心事』という御書の中(全一四六三)にも、もし皆の心が、バラバラならば、どんなに沢山の人があっても何事も成就することは出来ない。本当に皆が、たとえ小たりといえども、異体同心の信心を貫くならば、大事をなすことが出来ると、大聖人様はおっしゃっておられるわけであります。その異体同心の信心に立つためには、それぞれの信心における組織というものは絶対に必要であります。

 僧侶には僧侶の組織が必要であります。信徒はまた、信徒のそうした信心の錬磨の組織の上に則って、きちっと信心を貫くということを抜きにして、大聖人様の御義を成就させることは出来ません。大聖人様の御義に叶った正しい信心も、広宣流布も、絶対に成し遂げることは出来ません。また、大聖人様の教えに反するものになってしまう。師敵対の信心といわなければならないということを、心に銘記して頂きたいと思う次第でございます。

 皆様方のそうした清々しい、逞しい、そして強い一念心に立脚した信心ということをお願い申し上げまして、本日の御挨拶とさせて頂く次第でございます。御苦労様でございました。

(平成元年三月五日)