一閻浮提第一の意義(三)

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『日曜講話』第一〇号(平成元年9月1日発行)
一閻浮提第一の意義(三)

 皆さん、お早うございます。大聖人様の御本尊の「一閻浮堤第一」と言われる所以(ゆえん)ということについて、先週もお話申し上げましたが、今日は最後といたしまして、一番肝心な「第一」なる所以は、その法体と法義というものが、諸宗のあらゆる本尊、あるいは信仰の対象と比較いたしましても、天地の開きをもつほどの大きな法義上の最勝の所以が、そこに含まれているということを申し上げたいと思うのであります。

 一つは、この大聖人様の御本尊様には、本門の本尊と、本門の戒壇と、本門の題目という三大秘法の法義、意義、功徳、働き、一切が厳然として、この御本尊に具備しておるということを知っていただきたいと思うのであります。大聖人様は『教行証御書』という御書の中に、

 「抑(そもそも)当世の人々、何れの宗宗にか本門の本尊・戒壇等を弘通せる、仏滅後二千二百二十余年に一人も候はず」(全一二八二)

つまり唯の一人もいないということを言われております。又『法華取要抄』という御書の末文にも、

 「国土乱れて後に上行等の聖人出現し本門の三つの法門之を建立し一四天・四海に妙法蓮華経広宣流布疑い無からん者か」(全三三八)

ということを仰せになっていらっしゃいます。

 言うまでもなく、大聖人様の御書は約五百七、八十編あります。大聖人様の御真蹟の御書も、現在きちんと、多数遺っております。このことも世界のあらゆる宗旨宗教の開祖といわれる人の中でも、もっとも大切な、また、最も意義のあることでございますが、大聖人様ほど御真筆の、大聖人様の教えそのものが遺っている宗旨は何処にもないのであります。他の宗旨はキリスト教であろうと、イスラム教であろうと何宗でありましょうとも皆、神話であるとか、伝説であるとか、そういうものから始まりまして、弟子がああでもない、こうでもないと言って書き遺したものはありますけれども、その宗を開かれた御自身の御書物が約五百七、八十編、約六百編になんなんとするほど、きちんと遺っておる。その直筆に、その教えの本質に、目のあたりに触れるということができるのは、大聖人様の御書しかないのであります。

 その大聖人様の六百編にもなんなんとする御手紙や、あるいは『開目抄』、『本尊抄』、『撰時抄』等々の大部の十大部、五大部といわれる御書といわず、その法義の一番の肝心は何かといいますと、結局それは、三大秘法ということなのですあります。

 その三大秘法を開きますと、これは六大秘法になる。つまり本尊には人の本尊と法の本尊ということが明かされております。また、戒壇には事の戒壇と義の戒壇ということが含まれております。また、信心の信ということも、単なる心に信ずるということではなく、信と行というものが相俟って整っていなければならないということを教えておられます。どんな御書も全部この六大秘法の何れかが説かれているのであります。信を明かすか行を明かすか、人の本尊を明かすか法の本尊を明かすか、あるいは事の戒壇を説かれるか義の戒壇を説かれるか、大聖人様は十大部、五大部の御書の御手紙の消息文も全部このいずれかであり、それ以外のものはない。それほど、この三大秘法、あるいは六大秘法という意味は、非常に大聖人様の仏法の肝心、要(かなめ)を明かされるものなのでございます。また、ある意味では、一切の仏法の奥底は、この三大秘法に尽きるのであります。

 従って、大聖人様のどんな御書を、皆さん方がこれから拝読する時も、六大秘法の中のどれに当たるだろう、ああこれは確かに信だ。ああこれは六大秘法の中の法の本尊について明かされておる。あるいは『開目抄』は人の本尊について明かされておる。皆この六大秘法のどれかに、どこかに所属するということを心に置いて、御書を拝読していただきますと、はっきりと、大聖人様の御精神、その教えの根本に触れることができるのだと思うのであります。

 その肝心、要の御本尊でありますから、その御本尊には三大秘法、そしてまた、六大秘法の意義と、その功徳、法門、働き、一切が、根本の法として、根本の教えとして、この御本尊様に具わっておるということを、しっかりと心に置いていただきたいと思うのであります。

 そしてまた、もう一つは、そうした三大秘法のみならず、この御本尊様には久遠元初の仏様の仏法僧の三宝が、きちんと具わっておるということであります。三宝ということは、それは法の宝、そしてまた仏の宝、僧の宝であります。法の宝ということは法の本尊です。仏の宝ということは、それは人の本尊の御境界であります。そして僧の宝とは何かと言いますと、それは言葉を換えて言いますと、それは相伝ということです。血脈の相伝ということが、これ僧宝ということなのでございます。

 従って、大聖人様は『観心本尊抄』の中に、一番の結論といたしまして、

 「一念三千を識らざる者には仏、大慈悲を起こし、五字の内にこの珠を裹(つつ)み、末代幼稚の頸に懸けさしめ給う。四大薩の此の人を守護し給わんこと云云」(全二五四)

ということをおっしゃっております。この「一念三千を識らざる末代幼稚」末法の凡夫の私達に対しまして、「仏大慈悲を起こし」つまり久遠元初の仏様が、その大きな慈悲を起こして、この「妙法五字の中にこの珠を裹み」この南無妙法蓮華経の法体の珠を裹んで、それを御本尊として、大聖人様が御開顕あそばされて、末法の私達の「末代幼稚」の者のために、また一閻浮堤の人びとのために遺すと、大聖人様は、おっしゃっておられるのであります。ここに「仏大慈悲を起こし」ということは、久遠元初の仏宝、仏様の宝を明らかにし、人の本尊の境界を明かしておられるのであります。そしてまた「妙法五字の珠」とは、文底下種の妙法蓮華経の法体、法宝であります。そして「四大菩薩云云」ということは、久遠元初の結要の付属が、四大菩薩として、つまり大聖人様の御境界のところに、大聖人様の御内証に、僧宝も具わっておられるということを明かされたのであります。そしてまた、その僧宝を継がれる方として、大聖人様から日興上人、日目上人等々、御歴代の御法主上人猊下のところに、血脈の相伝を遺すぞということをおっしゃっておられるのであります。その相伝に基いて、歴代の猊下が大聖人様の御内証を御本尊に顕わすことができるのであります。そこに仏法僧の三宝、久遠元初の三宝が、末法の今日、大聖人様の正しい相伝に基いて、きちんと遺され、この御本尊様の法体にとどめ置かれているということを知っていただきたいと思います。

 そして三つ目に申上げたいことは、これはどなたも御存じだと思いますが、大聖人様御自身が、この御本尊様の相貌(そうみょう)について、

 「一念三千の法門をふりすすぎたてたるは大曼荼羅なり。当世の習いそこないの学者ゆめにもしらざる法門なり」(全一三三九)

と、『草木成仏口決』に明らかされていらっしゃいますように、この御本尊様には、十界の衆生、つまり地獄界から仏界に至るまでのありとあらゆる衆生を、ことごとく成仏せしめる道理、法門として、一念三千の原理がきちんと具わっております。大聖人様の十界の当体を、そこにとどめ置かれて、十界互具・一念三千の法門が厳然と、そこにある。その働きが具わっておる。

 従って、私達が大聖人様の御本尊を持って、御本尊様の中央に大聖人様がとどめ置かれた法体の題目を、信心のうえに受けとめる。そして私達が題目を唱えて、御本尊様の仏界、大聖人様の命と、境智冥合するとき、私達の九界の命が、大聖人様の仏界の命へと開発され、即身成仏の道が開かれていくわけでございます。

 諸宗の本尊には、そうした一念三千の法門の働きもない。あるいは仏法僧の三宝も具わっていない。三大秘法も整足していない。単なる一彫刻家や、一絵師が描いた絵像、木像、偶像の類でしかないのであります。

 そこに日蓮正宗における本尊の正しさということが、天地の開きとして、その優れた威厳が具わっていればこそ、この「一閻浮堤第一の本尊」と大聖人様御自身が仰せになっていらっしゃるのだということを、深く皆さん方お一人お一人が心に置いて、この御本尊様を持ち、この御本尊のもとに、正しい信心をどこまでも誇りを持って全うしていただきたいということを申し上げさせていただく次第でございます。

 本日は大変木枯の朝、こうして御参詣いただきまして、まことに有難く存ずる次第でございます。御苦労様でした。

(平成元年一月二十九日)