功徳と罰について
『日曜講話』第一〇号(平成元年9月1日発行)
功徳と罰について
田 辺 道 紀 代 講
皆様、お早うございます。本日、御住職様は、得度審査の面接試験の試験官として、本山の方へいらっしゃっておられますので、私が日曜講話を代行させていただきます。得度と申しますと、私も十年ほど前に得度いたしまして、その当時の、ちょうど試験が終わって審査を待つばかりになっている頃のことが思い出されますが、それから、もうかれこれ十年が経ったわけであります。
さて、日曜講話はこれで五回目になりますけれども、本日は、「功徳と罰」ということについて、少々お話をさせていただきたいと思います。私達がよく感じます功徳と罰というのは、一般世間でもそうですが、私達の身に利益(りやく)として現れるものを功徳、その反対としての苦しみや、私達が生きていく中で色々な苦難に遭うことを罰(ばち)といっております。ところが、私達日蓮正宗の信仰をしている者にとって、そのような功徳や罰といわれるものは何であるかと申しますと、それはすべて過去に自らが積んできた業(ごう)によって、その結果が現れたものであります。従って、本当の功徳を得るためには、そうした一般に罰といわれている過去世からの悪業を、この信心によって現在に招き出し、そしてさらに信心に励むことによって、その罪障を消滅し、自分自身の命をきれいにしていくということが大切であります。そういう自らの成仏を目指した信心をすることによって、現在から未来にわたっての本当の功徳も得られるわけであります。
しかし一時的に見れば、信心することによって、それは反って苦しみとなって出る場合もありまして、これを世間の人は単純に罰と考え、功徳と罰は全く別のものと思っております。我が日蓮正宗においては、それは全く同じだとは言えませんけれども、一般にいわれる罰が出たからどうだとか、功徳が出たからどうとかというようなことではなくて、この罰と思われるような苦しみでも、それを一つの踏み台とし、基(もとい)として、一層信心に励み、前向きに色々な苦難にぶつかっていくことによって、その苦しみは、かえって次には、功徳を得るきっかけとなるということなのであります。
「七難即滅、七福即生」という言葉もありますけれども、そういったことで、過去世からの悪業を変毒為薬し、転重軽受(てんじゅうきょうじゅ)していかなければならないわけであります。ところで、罰には総罰・別罰・顕罰・冥罰(みょうばち)の四種類がありまして、功徳にも、顕益(けんやく)と冥益(みょうやく)があります。顕益というのは、祈ってすぐに現れる功徳で、冥益というのは、祈ってもなかなか現れないけれども、いざという時に現れるような功徳をいうわけであります。また罰もやはり同じように、すぐに現れる罰(顕罰)と、なかなか現れない罰(冥罰)とがあるわけであります。 私達が朝晩、勤行・唱題をして、生活に狂いがなく、毎日毎日お題目を唱えていたならば、先ほども申し上げましたように、たとえどのような苦難にぶつかっても、それを転重軽受、変毒為薬して、かえって過去世の謗法の罪障を消滅することができるのですから、これ幸いということで、「よし、もっとやらなければ」と、すぐに気が付いて、より一層伸びることができるわけであります。たまたまそのような方が、勤行を一回やらなかった場合などには、その罰は顕罰としてすぐに現れます。皆さんもよくよく考えていただくと、朝の勤行をしないで仕事にいって、「何となくうまくいかないなあ、しっくりこないなあ」ということがあると思います。それはそのまま、すぐに罰が出ているわけであります。それに気付いて「いけない。ちゃんとやらなければ」と反省し、次から真剣に勤行をする。そういう人は、今度は功徳につながるわけであります。これが信心をしていない謗法の重い人や、たとえ入信していても、御本尊様に対してお題目をあげていない、勤行もろくにしていない、御祈念をしていないような方の場合などには、それが罰としてすぐに出てこないのであります。また、たとえ罰が出ても、それを罰と気付かないのであります。これが冥罰なのであります。ですから一般的には、何か悪いことをしたから罰が当たったとか、何か有り難いものを拝んだから、日頃の行いが良いから、功徳として出たんだろうと、表面に現れた現象のみを功徳とか罰というように言われておりますけれども、本当の功徳や罰というのはそういうものではないのであります。
私達の過去世の業というものは、どういうものを背負っているのかわからないわけであります。まして、自分の命を捨てるほどの苦しみに遭わなければならないのかも知れません。それを日蓮正宗の信心によって、変毒為薬、転重軽受していく。それこそが本当の功徳なのであります。病気や怪我などによる苦難についての皆様方の体験発表や、色々な所で周りの方々が話される様々な功徳についての発表会、そういった形で発表されるところの苦しみとか功徳の話というものは、やはり、過去世において積んできた業というものが出て来ているわけで、それを克服して、また克服できるだけの軽さに変わって、そして今現在の私達に降り注(そそ)いでいるわけであります。最近でもそうですが、今にも死にそうだと、危篤状態でどうしようもないという方が、何十日も、また何年も生きられるということがありますし、癌でもう駄目だと言われた方が、その癌を治して、克服して、そして何十年も生きられたということを、私達も色々な形で聞くわけでありますけれども、そういった功徳をいただいているわけです。そのとき、病気になったというのは、本当に苦しいことかもしれない。また、悪いことをしてきたからその罰が出たのだろうと言われるわけですけれども、信心に励むことによって、その病気を克服することができる、色々な苦難を克服することができるわけです。ですから、罰も功徳に変わるわけです。
一般世間では、罰は消さなければならない、出てはいけないのだということを言いますけれども、そんなことではないのであります。やはり私達は人間ですから、仏法上で言えば凡夫なのですから、生きていく上において、やはり様々な生活上の苦難にぶつかっていかなければならないわけです。大人になっていく上にも、色々なことを踏まえて、苦しみを受けながら、また周りの方の苦しみも聞きながら、大きくなっていくわけであります。
この信心をしていく上においても、様々な苦難にぶつからなければなりませんが、そういうときに、その苦難に負けずに前進し成長していかなければ、本当の功徳、本当の利益には、つながらないわけであります。
邪宗においては、その人の欲する御利益(ごりやく)さえ得られればそれでいいと、ただ単なる目先だけの功徳にとらわれています。本当の命というものの功徳、六根清浄といいますけれども、そのためには、御本仏の本源の命と自分の命とが境智冥合して、根本的に、本当にきれいにしていこうということを説いているのは、あまり聞きません。自分が悟りを得ればいいとか、また色々な修行を積めばいいということは、よく言われているわけでありますけれども、真実の功徳というものは、そういうことではないと思うのであります。
大聖人様は、『四条金吾殿御返事』という御書の中で、皆様もよく御存知だと思うのですけれども、
「苦をば苦とさとり楽をば楽とひらき苦楽ともに思い合せて南無妙法蓮華経と、うちとな(唱)へゐ(居)させ給へ。これあに自受法楽にあらずや。いよいよ強盛の信力をいたし給へ」(全一一四三)
とおっしゃっておられます。また、『経王殿御返事』という御書の中には、
「あひかまへて御信心を出し此の御本尊に祈念せしめ給へ。何事か成就せざるべき。『充満其願(じゅうま んごがん)・如清涼池(にょしょうりょうち)・現世安穏(げんせあんのん)・後生善処(ごしょうぜんしょ)』疑なからん」(全一一二四)
とあります。
ですから、今後、私達はどのような信心をしていかなければならないのかということを考えたときに、一般的に言われるような、自分達の願いを満足させるという目先だけの利益を追う、功徳を得るためだけの信心をするのではなく、御本尊様にお願いして命をきれいにしていく、即ち自らの六根清浄、即身成仏を願うべきであります。それとと共に、一切衆生、末法というこの世の中において色々な苦難にぶつかっている方々を、一日も早く救っていかなければならないのであります。それが私達の使命でもありますし、そのためにも、自分自身の命をきれいにし、周りの方々からも好かれていくような形をとっていかなければならないと思うのであります。
今後の私達の信心の姿勢として、罰といわれるような、苦難に遭ったからどうだとか、そのことに右往左往するのではなく、それならばなお一層、信心をしっかりやっていかなければならない、罰が出たならば有り難いと思えるような、勤行・唱題を根本とした日々の信心をいていかなければならないと思うわけであります。そしてまだわからない方々に、そういったことを話していっていただきたいと思います。今日は「功徳と罰」ということで、私達の信心の上からすれば、功徳も罰も全く別のものではなく、功徳をいただいたならば有り難い、罰が出たならば有り難いというようにとって、そしてより一層、自分の信心に磨きをかけて、真の功徳としての、自分の命をきれいにしていく。すなわち即身成仏の境涯を得ていくのが、日蓮正宗の信心であるということを申し上げまして、私の日曜講話とさせていただきます。御静聴ありがとうございます。
(平成元年二月十二日)