一閻浮提第一の意義(一)
『日曜講話』第一〇号(平成元年9月1日発行)
一閻浮提第一の意義(一)
皆さん、お早うございます。皆様方も、すでに御承知のように、昨日の朝六時三十三分でございますか、日本の象徴天皇の地位におられる昭和の天皇が崩御せられたということでございます。心から追悼の心をお供え申し上げる次第でございます。総本山といたしましても、昨日は、日顕上人猊下のもとに、塔中の御住職が客殿に出仕いたしまして、追善の法要を営まれたということでございます。来月の二十四日には、大葬の礼が行われることになっておりますが、やはり天皇の崩御ということでございますので、宗門といたしましても、総本山において同じ時刻に、猊下の大導師のもとに、追善の法要が行われるということになっております。全国の末寺においては、特別にどうこうということはございません。けれども、世間の人々は言葉の上では追悼の言葉をおっしゃっておられますが、本当に生命(いのち)の上から、生命の底からの真の追善ということになりますと、やはり、大聖人様の正法のもとに、この妙法の功徳を供えてこそ、真に報恩の誠を尽くすことができると確信すべきでございます。
お正月の年頭の御挨拶を申し上げた時にも、大聖人様の御本尊様について、大聖人様御自身が御本尊様の相貌の中に、「仏滅後二千二百三十余年未曾有の大曼茶羅也」というふうに、御指南遊ばされていらっしゃいますし、『観心本尊抄』の結論の中では、
「一閻浮提第一の本尊此の国に立つ可し。月支・震旦 に未だ此の本尊有(ましま)さず」(全二五四)
ということをおっしゃっておられます。なにゆえ大聖人様御自身が御本尊様について、「一閻浮提第一」と仰せになったのかということにつきまして、多少、法義的な意味を簡単に一、二、申し上げたいと思うのであります。 それは第一に、ただ今申し上げましたように、大聖人様御自身の御言葉の中に「未曾有」という言葉がございますが、これは、いまだかつて無いということで、大聖人様の以前においてもいまだかつてない、また以後においても、決してありえない、その未曾有の意味が、これが最勝、「第一」という意味なのでございます。
他の日蓮宗門下におきましては、何か広宣流布の暁には、大聖人様が大曼茶羅に顕されたその通りに仏像を建立することが、本門の本尊だというふうに考える人があるのであります。「仏像を安置することは本尊の図のごとし」(富要二−三四)というような筆記もあることから、大聖人様の御本尊の相貌の通りに仏像を彫って建立することが、広宣流布の暁に建立される御本尊だ、というように錯覚している人があります。これはとんでもないことでありまして、御本尊は、どこまでも大聖人様御自身の御自筆の、大聖人様の魂魄をとどめられた御本尊が大切なのでありまして、滅後の人間が勝手に仏像に造ったり、絵像に描いたり、大聖人様の御本尊を手本として書道を勉強して、筆でもって自分の心で現したものは、けっして御本尊でも何でもないのであります。大聖人様の生命をとどめられた、また大聖人様の御相伝にもとづく御内証を顕してこそ、真の御本尊なのだということを知っていただきたいと思います。大聖人様御一人を除いて、大聖人様の御相伝を唯授一人の血脈の上にお受けになられた方以外には、御本尊様を顕すことはできない、書写申し上げることはできないということなのでございます。
日興上人は、『富士一跡門徒存知の事』というお書き物の中に、
「日興が云く、此の御筆の御本尊は是れ一閻浮提に未だ流布せず正像末に未だ弘通せざる本尊なり」(全一六〇六)
とおっしゃっており、「建立する仏像」などということは一言もおっしゃっておられません。釈尊滅後正法千年、像法千年、そして末法万年においても、いまだかつて弘通せざる御本尊、その未曾有ということが、「閻浮第一」という意義なのだということを、まず知っていただきたいと思うのであります。
その次に大事な意味は、「第一」とは最極、つまり仏法の極理、本当の奥義、奥底、究竟をもって「第一」と申し上げるのでございます。従って大聖人様は、『三世諸仏総勘文抄』という御書の中で、難しい言葉でありますが、
「法性(ほっしょう)の淵底(えんでい)・玄宗(げ んしゅう)の極地(ごくち)なり。故に極理と云う」(全五六三)
と仰せになり、極理ということは、仏法の本当の奥底を申し上げ、これを極地というのであります。また『御講聞書』には、
「法華経の極理とは南無妙法蓮華経是れなり。一切の功徳法門・釈尊の因行果徳の二法・三世十方の諸仏の修因感果・法華経の文文句句の功徳を取り聚(あつ)めて此の南無妙法蓮華経と成し給えり」(全八四四)
ということをおっしゃっておられます。そうした意味を日寛上人がお汲み取りになられまして、『末法相応抄』に、
「当に知るべし第一は即ち是れ最極の異名なり、若し爾らば一閻浮提第一とは即ち是れ名字究竟の本仏なり」(聖九一一)
とおっしゃっておられます。御本仏が仏法の奥底を、
「至理は名無し。聖人理を観じて万物に名を付くる時、因果倶時・不思議の一法之れ有り。之を名けて妙法蓮華と為す」(全五一三)
と悟られた仏法の極地を、大聖人様が、この法体の御本尊様に顕されたのでございます。これ以外に仏法の極理、法華経の極理は、絶対にありえないということを知っていただきたいと思うのであります。
三つ目に申し上げたいのは、「第一」ということは最勝、最も勝れておる。言葉を換えて言うならば、無上、これ以上の上が無い。極理という言葉がありますから、極無上、最極、頂点という意味がそこにある。その意味を総称して、「一閻浮提第一」とおっしゃっておられると拝されるのであります。したがって大聖人様は『諸法実相抄』に、
「一閻浮提第一の御本尊を信じさせ給へ」(全一三六一)
ということをおっしゃっておられます。そんじょそこらの偶像、仏像、絵像の類いに翻弄(ほんろう)されてはいけない。
「諸宗は本尊にまどえり」(全二一五)
と『開目抄』にもおっしゃっておられます。信ずるならば、行ずるならば、持(たも)つならば、一閻浮提第一の御本尊こそを持たなければいけないということです。また『本尊問答抄』にも、
「本尊とは勝れたるを用うべし」(全三六六)
ということをおっしゃっておられます。最勝の本尊を持つ、最勝の本尊を信ずる人をもって、本当に、真の信ずる人ということができるのであります。そして、
「法華最第一と申すは法に依るなり」(全三六七)
ともおっしゃっておられます。ただ言葉だけで「世界一」だとか「閻浮第一」と言っても意味がない。法の上、法体の上において「一閻浮提第一」、最勝の本尊を信ずるのでなければ、信仰の意味がないのであります。また『十八円満抄』には、
「妙法蓮華経に万行の功徳を具して三力の勝能(しょうのう)有るが故に」(全一三六三)
ということをおっしゃっておられます。三力とは、仏様の仏力、法力と、私達信ずる者の信力、この三力の勝能、優れた功徳、働き、法門、一切がこの御本尊に備わっているが故に、この大聖人様御建立の御本尊をもって、「一閻浮提第一の本尊」と申し上げるのであります。『御講聞書』には、はっきりと、
「法華経の本尊を大多勝の大曼茶羅と云うなり、諸経・諸人に勝れたるが故に勝と云うなり」(全八一二)
とおっしゃっておられます。その法味の上において、無上の御本尊を顕される仏様の御境界において、大聖人様に勝る御方は、いずこにもいない。また御本尊様の功徳、働き、法門、道理の上から、この妙法蓮華経の大曼茶羅に勝る法体はないのであります。その上から大聖人様は、「一閻浮提第一の御本尊」と仰せになっていらっしゃるのでありますから、皆様方はそうした意義をしっかりと心において我こそ、我等こそ大聖人様の弟子檀那として、その閻浮提第一の御本尊を信じ、閻浮提第一の御本尊を持ち、閻浮提第一の功徳に浴して、閻浮提第一の信心を全うするものだという強い誇りと確信を持っていただきたいということを申し上げまして、本日の御挨拶とさせていただく次第でございます。雨天の中、大変、御苦労様でございました。
(平成元年一月八日)