御本尊の信行に全功徳あり

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『日曜講話』第八号(平成元年5月1日発行)
御本尊の信行に全功徳あり

 皆さん、お早うございます。皆様方も、日蓮正宗の信徒におなりになって、大聖人様のこの御本尊様を、わが家に御安置申し上げ、大聖人様の御指南等々に従って、正宗の信心を全うしながら、それぞれ皆様方の心に期する信心を全うされて、大なり小なり、いろんな功徳をいただいてこられたことと思うのであります。

 私達は信心の喜びということを考えますと、自分の願いが、御本尊様に託した自分の祈りが、一つひとつ成就した時、現実の功徳としていただくことができたという時には、「ああこれが功徳なのか、ああこれが幸せなのか」と言って、信心の喜びに燃え立つということができるのでございます。けれども、この御本尊様に整足する本当の信心の値打ちというものは、ただ単に、そのように自分の身の上に、生活の上に、形の上に、現れたものだけが決して功徳ではないということを知っていただきたいと思いますし、又、信心の喜び、その歓喜というものは、もっともっと深く大きなものだということを、お話申し上げたいと思うのであります。

 信心の喜びとして、どういうところに、その喜びを感じていただきたいかということを申しますと、それはいつも繰り返し申し上げるようでありますけれども、大聖人様御自身が「一閻浮提第一の本尊此の国に立つ可し」(全二五四)と仰せになった一閻浮提第一の信心なのだというその喜び、そこに喜びを感ずる。そこに誇りを感じる。大聖人様の弟子として、その檀信徒として、本当の閻浮第一の宝物を、わが身にしっかりと抱くことができたということの誇りと喜びを感じて、この信心をまず全うしていただきたいということを、皆様方に、お願いを申し上げたいと思うのであります。

 その閻浮第一の御本尊を通して、私達は、御本尊に整足する末法の仏法僧の三宝を、きちっと知っておる。最勝のこの法をきちっと知っておる。そして又その信心を通して功徳の源といいますか、功徳の源泉がどこにあるか、この宇宙法界の中で第一の最勝のこの功徳の源、その源泉がどこにあるのかということを、われわれは世界の人に先駆けて知っておるということ、その源泉をもっておるということの意味において、その信心の喜びということを、まず感じ取っていただきたいと思うのであります。

 その次は、これはだれでも感ずることでありますけれども、それは先ほど申しましたように、御本尊に託する諸願を、ことごとく今世において成就することができるということに、誇りを、又、喜びを感じていただきたいということであります。

 有名な日寛上人の『観心本尊抄文段』の最初に、「祈りとして叶わざるは無し」ということを言われております。又、「罪として滅せざるは無し」と。あるいは、「正境に縁すれば功徳猶多し」と、妙楽大師の言葉もございます。

 このように自分の過去の罪障を消滅することができる。現世においてその諸願を、御本尊に託する願いを一歩一歩、一つひとつそれを成就することができる。そしてその道理の上において、必ずこの妙法の光に照らされて、即身成仏の境界をきちっと開くことができるという、そこに本当に「祈りとして叶わざるは無し」ということが真実なのだ。甚深なのだということを、深く心に期することができるということの喜びということです。

 これは、だれでも皆様方お一人おひとりが、子供は子供なりに、お母さんはお母さんなりに、御主人は御主人なりに、その信心の喜びを感ずることができると思います。しかし、このことを、その一時、そのことが成就した時だけは感ずるけれども、時と共にすぐ忘れてしまうということであってはならないと思うのであります。その歓喜を土台にして、更にその喜びを多くの人に伝えていく。大聖人様のこの妙法を更に讃歎して、そして又このことをもって、その体験を通して、その功徳を通して、更にそれを折伏に役立てていくということを、是非、心に期していただきたいと思うのであります。

 その次は、これはやはり御本尊様に整足する大聖人様の一切の法義、根本の法義、仏法の奥底を、教学の研鑽や、一日の信心の修行を通して、仏法の奥底を極めることが必ずできるということであります。ある時は又、猊下の御指南に触れることができる。あるいは又、いろんな出版物、あるいは機関紙等々を通じまして、先達の人々の尊い体験に触れることもできる。あるいは御書の講義等々を通じて、いろんな善知識に巡り合って、法の友にも又、巡り合って、そうしてお互いに信心の啓発と、その向上を計っていくことができる。やはりこの善知識に巡り合う、正しい信心を導いて下さる、あるいは励まして下さる、叱って下さる、あるいは引っ張って下さる、後ろから押して下さる人を得る悦びであります。あるいは団結して連帯して共に励まし合っていける人、お互いに志を一つにして、大聖人様の弟子檀那として、広宣流布の志をもって、共に精進していけるという、そういう真実の、生涯の大切な善知識、あるいは法の友に巡り合って、お互いに、生涯の思い出多い、又、福徳を積んで研鑽していけるということの幸せ、そういうものを、やはり深く心に銘記していただきたいと思うのであります。

 更に申し上げたいことは、この御本尊様を通して、日々の信心を通して、やはり一切の諸難に打ち勝てるということであります。三障四魔紛然と競い起ころうとも、あるいは又、いろんな壁にぶち当たろうとも、生活の上に、仕事の上に、あるいは対人関係の上に、親族の間に、兄弟の間に、いろんなことがあったといたしましても、それを一歩一歩この信心を通して総てに打ち勝つことができる。そして最後には人生の勝利者となる。あらゆる邪宗邪義を打ち破って、その信心の勝利者になることができるということの喜びというもの、又、お互いに家族全員が一切のものに打ち勝って、真実の喜びを味わい、勝ち取り、悔いのない人生を全うしていただきたいということが、その次であります。

 そしてもう一つは、これは四恩を報ずることができるということであります。大聖人様のこの御本尊様に整足するその三宝の恩、そして又、一切衆生の恩、父母の恩、国主の恩、国土の恩、そうした真実の御報恩の行を、報恩の一念を達することができるということであります。諸宗、諸教において、どんなに父母を救おうと思っても、あるいは先祖代々の一切の人々を救おうと思っても、お水をあげようが、お金を積もうが、財を積もうが、物を供えようが、諸宗の宗義の上においては、絶対にその報恩の真を尽くすことはできない。しかし、私達の信心は、日々、今日の題目が、今日の信心が、これが親のためだとか、あるいはだれだれさんのためだとか、あるいは三宝尊のためだとか、あるいは一切衆生のためだとか、そんなことを心に掛けることがなくても、朝夕の勤行そのものが、皆さんの日常のこの信心そのものが全部、ことごとく四恩を報ずる道につながっておるということを確信をしていただきたいと思うのであります。

 もっともっと申し上げれば数限りがありませんけれども、この御本尊を受持して、大聖人様の弟子檀那として、この信心を全うする一行の中に、いろんな要素が、いろんなその功徳が、そして又、その報恩の誠を成就する道や、その功徳、働き、一切のその道理、法門、あらゆるものが、全部そこに具備整足しておるということを、お互いが、しっかりと心に置いて、この信心を全うしていただきたいということを申し上げまして、本日の御挨拶とさせていただく次第でございます。大変、御苦労様でございました。

(昭和六十三年八月二十八日)