悠久の時間を生きる
『日曜講話』第八号(平成元年5月1日発行)
悠久の時間を生きる
皆さん、お早うございます。先週から、この本堂のただ今皆様方がお掛けになっていらっしゃいます椅子の補修と塗り替えをいたしておりまして、夕べまで仕事をしておりましたので、今朝ほどは皆様方に対しまして御不自由をかけたことと思います。あと二、三日で終了する予定になっておりますから、来週からは安心してお座りください。それから、下の洗面所の方を少し、ただ今工事をいたしておりまして、しばらく御不自由をおかけすると思いますけれども、国鉄のJRの駅に負けないほど立派な洗面所にいたしますので、どんな色に変わるか楽しみに待っていていただきたいと思うのであります。こちらの方はちょっと一、二ケ月かかるようでございますけれども、どうか、しばらく御辛抱をいただきたいと思う次第であります。
先般、ある方から、こういう哲学的な御質問を受けまして、私も、ちょっと驚いたのであります。それはどういうことかといいますと、「いったい私達の持っておる時間、時の始まりというものは、どのように、とらえたらいいのでしょうか」という御質問であったのでございます。ちょうど食事の時に突然そういうことを言われまして、私も非常にびっくりをしたのでございますが、やはり私達は、たしかに自分の今住んでおる今日の時というものを考えたとき、それは一生という時間を考えましても、一日という、あるいは一年、一ケ月という時間を考えましても、それはある限られた短い時のように思います。一生といものは長いようでありますけれども、又それは「光陰矢の如し」と申しまして、一生は夢の中の又夢、昔の人もその短いはかなさ、無情を嘆かれた方も沢山いらっしゃいます。しかし、その短い時であったといたしましても、それはアメリカの人にとっても、ヨーロッパの人でも、又私達のような日本人でも、又どんなにお金持ちの人であっても、貧しい人であっても、病弱の人でも、頑健な人でも、年寄りでも、若い人でも、万人にこれは平等に与えられるということが、不思議なことでございます。又、非常に尊いものであります。人と比べて自分はどんなに貧しく、どんなに劣等感の塊のように思っても、少なくとも、この青春なら青春の時、一生なら一生の、この時間というものは、全く平等に与えられるということでありますから、やはりその時時を大事に、自分に与えられた今日の命、今日の時間というものを、ほんとに大切にして生きていかなければいけないと思います。
しかし、その時も、自分に当てて、自分の一生というものを標準にして考えますと、非常に短い、はかないもののように見えます。しかし、この時は、仏法で無始無終ということを言われますように、その源を極めるということはできません。遥か無限大の悠久の無始に、その根源があり、そこから又ずぅっと永遠の無限大の無終に、極まりないその無終に向かって、時というものが流れているわけであります。私達は、その悠久の久遠の時の流れの本当のある一瞬を、今日のこの姿、この命の上において、生きているわけであります。そう思いますと、私達の今持っている、私達に与えられている今日という時も、決して今日だけの時間ではない。無始無終の久遠以来、末法尽未来際に流れる久遠の流れのその一時を、私達はこのように生を受けて生きておるわけであります。ですから私達の今持っている今日という時間も、無常といえば無常のように見えるけれども、しかし、又その永遠の時と決して別のものではない。永遠の時の中を生きているわけであります。
私達の命を構成している細胞、もっと小さく言えばその元素ということになるのかもわかりません。こうした私達の命を造って育んでいるものは一体何か、ということを、もし考えますと、これは又、科学的な話になるでしょうが、この地球を造り、この宇宙を造り、いろんな惑星や星を造って形成している、そういうものの元素と、私達の命を造っているものとは、絶対にこれは別物ではないわけであります。たしかに分析をすれば、やれ酸素だ、窒素だ、鉄分等々、いろんなものがあるでしょう。しかし、それは皆この地球を造り、大宇宙を造り、あらゆる天体を造っているところの、構成している元素と、全部違うものは何一つないわけで、全部この大宇宙にある。大宇宙を構成している物質によって、元素によって、私達の命も造られているわけであります。そうしますと、私達は、この宇宙を構成している色々な星や、色々な天体や、色々な物と、決して別の物ではないわけであります。大きな地球なら地球という一つの生命体があって、その中のある部分、ほんの表面上の、ほんのある部分のところに、私達は自分という命を持って今日を生きているわけであります。そうしますと結局、自分というものも、この大宇宙と一体のもの、大宇宙の中のほんとの塵のような一部分の命を、自分は、この世に持っているわけであります。自分は小さい、はかない命のように見えますけれども、又これは自分の命そのものが、この法界の大宇宙の命でもあるわけであります。
したがって自分の命も、又、今世だけの短い、はかない一生のように思えますけれども、そうではない。深い、悠久久遠の遥か、広大な大宇宙を生成しておるものによって、全宇宙の命の一部分として、又、自分の今日の命があるわけでございます。はかない命であるけれども、又、無限の命のなかに、私達は今日の命を生きておる。ゆえに無限は即有限につながり、有限は、又また無限と別ものでは決してないわけであります。私達のこの一生というものも、きょうだけの、こんにちだけの命だと思ったら大きな間違いであります。やはり生死一体となって、一つの命であります。生きているだけの一時だけが命ではないのであります。死もまた命、生死の命の繰り返しの中に、遥か悠久の久遠を生きているのだというふうに考えていただきたいと思います。
したがって、大聖人は『三世諸仏総勘文抄』という御書の中に、
「過去・現在・未来の三世は替ると雖も五大種は替ること無し」(全五六八)
ということを言われております。私達は過去の命があり、又、今現在があり、そして未来と、三世は異なるといっても、私達を造っている、私達の命そのものは、三世に変わることはない。五大種は変わることは無い。この命を造っている根源のもの、この地水火風空の五大種は変わることは無いということを、はっきりと、大聖人様は、お説きになっていらっしゃるのでございます。
皆さん方も、今日は今日だけ、今世は今世だけ、というそういうお考えではなくて、悠久の時間と、久遠の命と共に、今日の自分があるということを知っていただきたいのであります。そうすると今日の信心というものが、遥か久遠以来の一切の罪障を消滅する。そして又、今日の信心の福徳が、これからの遥か悠久の未来の幸せの因に、つながっているということを、深く心に銘記していただけると思うのであります。
一つの例として御紹介いたしますが、先般、千葉大学教授の小原二郎という方がお書きになった『木の文化』(鹿島出版)という本を読んでみましたところ、こういうことが書いてありました。私達は一本の檜(ひのき)なら檜、欅(けやき)なら欅という木を伐り出しますと、その木の命というものは、そこで絶たれてしまう。ここであたかも今世の命を絶たれてしまうように思う。けれども木というものは、伐り出してから、それを製材して一本の柱なら柱を造る。そうしますと、それからずぅっと、家なら家を造って、約二百年を経過した頃が、一番堅く、一番その強度が増すのだというのであります。それからだんだんと、又、ゆっくり時が経って、約千年経った頃が、ちょうど、その一本の木を山から伐り出した頃と同じ強度となるのだということを書いておられるのであります。私達は、その一本の檜なら檜の木を伐り出したその瞬間に、その木の生命は、そこで終わると思っている。ところがそうじゃない。やっぱり伐り出して、姿、形は変わっても、やっぱり木は呼吸をしているのでありまして、皆様方のお家の柱も、雨の日には水を吸い、そして、お天気が続けば、又、水を蒸発させて、ちゃんと、やはり呼吸をしているわけであります。ですから彫刻家が生木でもって彫刻を造りますと、のみを振うと水が吹き出すというくらい、一本の木には約一升瓶に一杯の水が、その木の中に含まれている。伐り出した木というのは、皆さん方のお家の柱も、死んでいるのではない。約二百年経過して始めて一番強い木となるのだというのです。そして又、千年も生きて、伐り出した時と同じくらいの強度に、だんだん、だんだんと戻っていく、というふうなことを書かれているのであります。これは一本の木といえども、山で伐り出した瞬間に、その木の命は終わるのではない。そこから又、新しい命として出発して、遥か千年という長い時を、木というものは生きているということを、この人は書いておられるのであります。一本の木も、そのようにして次の世代、次の時代を生きているということを知っていただきたいと思うのであります。
同じような意味で、九州芸術工大という大学があるそうでありますが、そこの安藤由典という先生がお書きになった『楽器の音色を探る』(中公新書)という本があります。この本によりますと、蝦夷松(えぞまつ)という木でもって、バイオリンを造るのだそうであります。そのバイオリンを造るにも、やはり伐り出した蝦夷松の木を、長い間ストックしておいて、影干しをして、そして、何年か経過した木でもって造るということであります。去年、一昨年に伐り出した木で造っても、決して良いバイオリンはできない。一番この音色の良いバイオリンを造るためには、いつの頃の蝦夷松を使うと一番良いかというと、二百年後だというのです。伐り出してから二百年経った木で造ると、一番良いバイオリンができるということです。我々は、せっかちでありますけれども、本当の良い楽器を造ろうと思ったら、二百年間、蝦夷松を寝かせて、それから初めてバイオリンという姿になって、本当の新しい時代を、又、その木は生きていくわけであります。
はかない一瞬のように思う私達などは、まあそれぞれ凡夫ですから、いろんなことを考えますけれども、しかし姿は変わっても、一本の木といえども、二百年、千年という経過の中に、その姿は変わっても、次の命を生きているということを、私達は深く心に思って、そういうことで、又、ものを見ていかなければいけない。目先だけで、「命なんて、こんなものだ。時なんて、こんなものだ。木の命なんて、こんなものなんだ」と、軽々に考えることはいけないことだと思います。本当に大きな目で、やはり我々は、一本の木といえども、わが人生といえども、遥か悠久の三世の中に、そうして又、今日を生きているということを、しっかりと心に置いて、命を大事にし、又、誠実に生きていくことが、三世の命を救うことにつながっているということを、しっかりと心に置いて、今日の一日を精一ぱい頑張っていただきたいということを申し上げまはて、本日の御挨拶とさせていただく次第でございます。大変、御苦労様でございました。
(昭和六十三年九月四日)