創価ダメ出しさんに学ぶ:御書の読み方の秘訣&主師親三徳について
令和元年、明けましておめでとうございます。
皆さまは10連休中、いかがお過ごしでしたでしょうか?
私は、1日だけお休みでした。
でも、短縮勤務でしたので時間的には、かなりゆとりのある日々を過ごすことが出来ましたよ。おかげで、読書もモリモリ進みました。読書感想は、後日、アップしてまいりたいと思います。
さて、表題の件ですが、勝手に私淑している創価ダメ出しさんが、とても勉強になる記事をアップされていましたので、ご紹介しながら感想&会通をさせていただきましょう。
まずは、2019-05-05の記事。(旧)創価学会員による創価ダメ出しブログ 御書の話②から。
もっと具体的に言うと、御書には色々な事が書いてあるけど
それらは全て「戒壇大御本尊」の説明だということにふと気づいたわけです。
それが分かってからはそれまでとは比べ物にならないくらい御書が分かるようになりました。
よくよく考えればそんなこと当たり前ですよね。
御書を読む秘訣とは、ズバリ、 「戒壇大御本尊」の説明として読んでいくというもの。
なるほど!
全てが大御本尊の説明なんだ。という立場で御書を読むことを「依義判文」といいます。
義(大御本尊)に依って文(御書)を判断する(読む)というこです。
前回の記事で「御書には読み方がある」と書いたのがこの「依義判文」です。
「依義判文」といえば、日寛上人様の六巻抄に依義判文抄がありますね。その序文には、
明者は其の理を貴び闇者は其の文を守る。苟くも糟糠を執し橋を問う、何の益かある。而も亦謂える有り、文証無きは悉く是れ邪偽なりと、縦い等覚の大士法を説くと雖も経を手に把らずんば之を用ゆべからざるなり。故に開山上人の口決(上行所伝三大秘法口決)に慣って謹んで三大秘法の明文を考えて文底秘沈の誠証に擬し以て後世の弟子に贈る。此れは是れ偏に広宣流布の為なり、必ず其の近きを以て之を忽せにすべからず云云。
との、有名な御文がございます。
先日、対話をメールで行った、創価学会員さんの論法を思い出しました。彼の場合は、「依義判文」ではなく「依文判義」だったのです。だから、都合よく「切り文」を接合して邪難を加えてきますが、さっぱり整合性のない根無し草の論だったのです。
私は、あえてこちらからは質問を投げかけませんでした。受け身と捌きのみに徹しましたが、結局は音信不通になっております。
nichirendaihonin.hatenablog.com
上記の私からの返信が最終回答になっておりますが、この回答作成においても、創価ダメ出しさんのブログを参考にさせていただきました。改めて謝意を表したいと思います。
今の創価は相伝を排除し、歴代上人様、就中、日寛上人様の御指南を敵視&蔑視しております。それは、とりもなおさず、日寛上人様が臨終をもって証拠とされた、数々のお書き物が「不都合な真実」であることを、上層部や教学部は熟知しているからです。
創価の活動家はよく戒壇大御本尊の事が御書に書いていない。っていうでしょ?
アレは「依義判文」が出来ない創価読みだから御書には大御本尊の事が書かれていないって思うわけ。
それを言ったら「法華経」の経文に三大秘法っていう名目なんて書いてないわけですよ。
じゃ大聖人は法華経に書いていない事を勝手に主張したのか?って話ですよ。
しかし、大聖人は撰時抄の中で、◆仏滅後に迦葉阿難馬鳴竜樹無著天親乃至天台伝教のいまだ弘通しましまさぬ最大の深密の正法経文の面に現前なり
と言って法華経の経文に「三大秘法」が書いてある。(経文の面に現前なり)と言われている。
このことを釈して日寛上人は、「依義判文」で読めば分かると依義判文抄で◇文底の義に依って今経の文を判ずるに三大秘法宛も日月の如し
と言われているわけです。では「文底の義」となにかということに続けて
◇勘文無きに非ず、若し之れを聞かんと欲せば先ず須く三大秘法の開合の相を了すべし。若し之れを了せずんば経文を引くと雖も恐らくは解し易からざらんことを云云。
◇実には是れ一大秘法なり。一大秘法とは即ち本門の本尊なり
「依義判文」の義を知りたければ三大秘法の開合を理解しなさい。三大秘法とは一大秘法であると言われています。
逆に三大秘法の開合を理解しなければ経文(法華経)を示しても多分分かりませんよ。と言われています。
創価民たちが御書を読んでも大御本尊の事が書いていない。分からないのはこのような理由です。
さてこの一大秘法について日寛上人は観心本尊文段の中で、◇就中弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟中の究竟、本懐の中の本懐なり。既にこれ三大秘法の随一なり。況や一閻浮提総体の本尊なる故なり
とご指南されています。この三大秘法開合の相を否定し、「文底の義」である大御本尊を捨てた創価民には、いくら御書を読んでもそりゃ本尊義なんて全く理解できるわけがない。(そのくせ何故が御書に書いていない大聖人がご本仏であるという事は読めるらしいのだが)
御書は大御本尊を説明したモノなのに、大御本尊を捨てた創価には御書は無用の長物なんですよ。
そもそも御書は大聖人の門下に与えられものであり、大聖人(大御本尊)を捨てた創価民に与えられた書ではないのですから。
まさに、今回の創価学会青年に教えてあげたい言葉ですね。
次に、 2019-05-02の記事。(旧)創価学会員による創価ダメ出しブログ 創価教学じゃない御書講義(2019年5月度座談会御書・種種御振舞御書)から。
「主師親三徳具備の人」を仏とする理由は今回は置いておくけど
とありましたので、主師親三徳の依文と意義について補足をば。
nichirendaihonin.hatenablog.com
を読んでいただけば、尾林御尊能化の名文が勉強できます。引用いたしますと、
更に今度は『法華経』の本門にまいりまして、本門における三徳の関係は、どこに示しておられるかと申しますと、これは大聖人様御自身が『御義口伝』の中に、次のようにお示しであります。
「本門の仏の主の徳は我此土安穏の文なり」(全七五七)
今朝ほどの勤行の「自我偈」にございました「我が此の土は安穏にして、天人常に充満せり」(開結五〇八)と、この御文の上に、釈尊は主徳を示しておられるのである。又、 「師の徳は常説法教化の文なり」(全七五七)
ということを言われております。「常に法を説いて、無数億の衆生を教化して、仏道に入らしむ」(開結五〇六)と、この一文の上に、師の徳。常住不変に一切の人々を教化していくというところに、師の徳を示しておられます。 又、
「親の徳は此の我亦為世父文是なり」(全七五八)
つまり「我も亦為(こ)れ世の父、諸の苦患を救う者なり」(開結五〇九)と、この文のところに、親の徳を示されておられます。
このように「自我偈」の文の上に、釈尊は本門の仏として、主師親の三徳を示しておられるということを、大聖人様が『御義口伝』に説いておられるのであります。
それならば、末法において、末法救済の御本仏として、大聖人様は、どこに、この主師親の三徳をお示しになったかと申しますと、皆様方ご存知のように、『開目抄』を中心にして、大聖人様が、
「日蓮は日本国の諸人にしうし(主師)父母なり」(全二三七)
ということを説かれておりますし、『産湯相承事』という御相伝の文書の中にも、
「日蓮は天上・天下の一切衆生の主君なり父母なり師匠なり。(中略)三世常恒に日蓮は今此三界の主なり」(全八七九)
ということを示しておられます
よくわかりますよね。
日蓮によりて日本国の有無はあるべし(種種御振舞御書)
を創価は、「日蓮によりて」という箇所を「創価学会によりて」「自分によりて」「公明党によりて」と読み替えると分かりやすいなどと、ベース教徒独自の解釈をしているとか。だから、創価ダメ出しさんは、読み替えた主体のどこに主師親三徳が具わっておるのかと破折しておられるのですよ。天晴れ。
創価学会仏。。。そんな仏がいつのまにか出現して。。。オカルトですな。
平成に続き、令和の時代も現代の一凶に亡国の危機が続くわけであります。
ベース教徒の諸君!推尊入卑 ( さいそんにゅうひ ) の邪義謗法を捨てて、日蓮正宗に帰依し、戒壇の大御本尊様(大聖人様)に参詣いたしましょう。
※ベース教徒…日蓮大聖人様の教えをベースにした、自己流宗教を信じる人々のこと