創価学会員さんとの対話:私からの返信(後加文について)

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ネットって衆知を集めるには便利ですね

創価学会員の真摯さんとの対話が続いています。

真摯さんというのは、私が付けた仮名です。メールではお名前をきちんと名乗ってくださっています。

10連休中ですので、お時間がある方はアーカイブを張り付けておきますので、今までのやり取りをご覧ください。ご意見があればコメント欄に書き込みをしてくださいね。お待ちしております。 

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それでは、私が本日返信しました回答をば。

 〇〇 様

 まず、後加文とは仰る通り、大聖人のご入滅以後に新たに後から付け加えられた文章の事です。
誰が、いつ付け加えたのかはわかりません。
学会版御書では、小さい文字で書かれている部分が後加文に当たる部分です。
この、後加文は大聖人が書いたのではないので用いない。としたのは創宗問題勃発の直後です。
というのも、法華講員さんとの対論で、歴代法主への血脈の話になると必ず彼等が引用するのがここに挙げられている本因妙抄の御文と、百六箇抄の

◆又此の血脈並に本尊の大事は日蓮嫡嫡座主伝法の書、塔中相承の稟承唯授一人の血脈なり
◆但し直授結要付属は一人なり、白蓮阿闍梨日興を以て惣貫首と為し て日蓮が正義悉く以て毛頭程も之れを残さず悉く付属せしめ畢んぬ、上首已下並に末弟等異論無く尽未来際に至 るまで予が存日の如く日興嫡嫡付法の上人を以て惣貫首と仰ぐ可き者なり。

ですから。
どちらも、明確に歴代法主への唯受一人血脈が書かれているので、創価としてはこれを御書と認めるわけにはいきませんので後加文は文証に非ず。というスタンスで対論するわけです。

では、後加文なのに何故、学会版の御書全集に掲載したのか?
(将来的には削除するのでしょうが、今はまだ掲載されていると思います)
ひとつには、学会版御書全集に編纂に尽力してくださった堀日亨上人が、

●「日辰上人・日我上人等古写本に依って之を写し一校を加へ、後加と見ゆる分の中に義に於いて支吾なき所には一線を引き、疑義ある所には二線を引いて読者の注意を促す便とせり」

と、判定してた。という事です。
簡単に言うと、後加文には、いわゆる「一線」と「二線」の箇所があり(線を引いたのは堀日亨上人)「二線」の部分は完全に間違い。(御書には掲載されてません)
で、当該箇所は「一線」の部分。
つまりこの部分は、後加文ではあるがその義(書かれている事)は間違っていない。という判定です。
しかし、堀日亨上人はこの後加文を御書として掲載せよ。
と学会側に主張したかと言えば、その事実は無いようです。
つまり、宗門の要望・主張ではなく、学会が自ら判断してこの後加文を御書全集に掲載したわけです。
もちろん、一本線で消す事もせずに字を小さくした。
知らない学会員なら、この部分も(大聖人が書かれた)御書である。と思うでしょう。
そこから考えるに、戸田先生は明らかにこの後加文を御書と拝していたからこそ、学会の御書全集に掲載したわけです。
では何故、戸田先生はこの後加文を御書と拝し、御書全集に掲載したのか?
その理由は、御書全集の序文に明らかです。序文の凡例に○真偽未決の問題となるものも信行に資するものは之を取る。と、書かれています。
御書全集の中には後加文以外に、真偽が定かでない御文も多数収録されいます。
そんな真偽未決の御文であっても【信行に資する】御文は、【御書】である。
という事なのです。
実は、これこそが一番大切な事柄なのです。

モチロン、文証は大切です。
でも、御書(教学)とは何の為に学ぶのですか?
我々は学者じゃない。信者です。
信者である以上、信・行が強くなるために御書は読むのです。
また、御書は大御本尊の説明です。
大御本尊に帰結しない教学は教学と呼びません。
ぶっちゃけいうと、大聖人が書いたか否かってのは関係ないのです。
また、御書に書かれている事以外用いないのであれば、今の創価教学など、ほとんど御書に書かれていない。これはどう説明するのか?
もっといえば、釈尊の経典は全て後代の弟子が書いたものばかりで全て後加文ですね。
後加文がダメならば、何故大聖人は釈迦の経典を文証としてあげるのでしょう。
大聖人の書いたもの以外用いないのなら、日興上人の御文は用いないのか?
日興上人や日寛上人の御文を創価は引用しますね。それダメじゃんって話になります。
まぁ、創価が御書以外用いないと言うのであれば、まだまだ、創価の矛盾をあげる事が出来ますが。

また、この本因妙・百六箇抄は、相伝書であるという部分も考慮しなといけません。
相伝書というのは、むしろ加筆があって当然の書です。
日淳上人は、今の学会のように後加文云々と難癖を付けられた時に、

●察していへば恐らく同抄の後尾に明らかに大聖人の御時でないことが書かれてをるからそれを理由に言ふのであらうと思ひます。 若しそうであるならばそれは御相伝書の拝し方を知らないのによります。御相伝書は順次相ひ伝へるに従つて加筆があつてもそれは当然です。それが相伝書の相伝書たるところで僞作ででもあるかの如く考へるのは全く書物の読み方も知らないうつけ者です。そんなことでは仏法の筆受相承などのことを談ずる資格は遠くありません。顔を洗つて拝し直すことです

といわれています。
後加文は用いない。なんて言ってる者には、
「書物の読み方も知らないうつけ者。そんな者は仏法の相承を語るに遠く及ばない。顔をあらっって出直してこい」
と、日淳上人様は仰せであります。全く、その通りです。

とはいえ、後加文だけじゃ気持ち悪いと思いますので、最後に、後加文じゃない御文をひとつ。

◆ 聖人の言く此の相承は日蓮嫡嫡一人の口決唯授一人の秘伝なり神妙神妙とのたまいて留め畢んぬ。(産湯相承事)

この御文は、本因妙抄の後加文の

◆又此の血脈並に本尊の大事は日蓮嫡嫡座主伝法の書、塔中相承の稟承唯授一人の血脈なり
百六箇抄の後加文の
◆但し直授結要付属は一人なり、白蓮阿闍梨日興を以て惣貫首と為し て日蓮が正義悉く以て毛頭程も之れを残さず悉く付属せしめ畢んぬ、上首已下並に末弟等異論無く尽未来際に至 るまで予が存日の如く日興嫡嫡付法の上人を以て惣貫首と仰ぐ可き者なり。

と同じ内容です。
後加文でも、このように依文があるので、これ(後加文)を否定するのは無理がありますね。

因みに、おそらく〇〇さんは、後加文だから間違っている、と教えられ、そのまんま、自分の論としているだけです。
この手の創価学会員は、リアル対論だと秒殺ですね。

まず、後加文だと口に出した時点で、「そうなの?じゃぁ、いつ・どこで・誰が加筆したのか答えてみなさいよ」って言われます。
そこから先の対論は、〇〇さんがシミレーションしてみてください。

追伸:もしも、〇〇さんが話してもいいと思われましたら、信仰動機や創価学会での体験なども教えてください。ネットで知り合っただけで、どのような方なのかよくわからないものですから。熱心には信仰をしてらっしゃらなかったと、最初の頃のメールで教えてくださいましたが、なぜ、法華講員と対話しようとお考えになりましたか?少しでも構いません。よろしくお願いします。

ポリ銀

なぜ、このような回答になったかといいますと、真摯さんは相伝書の後加文は用いないという考えを強調されておられましたので、そのことについてのみ回答したわけであります。

他にも珍妙な「法本尊」信仰論なども語っておりましたが、話の焦点がぼやけてしまいますので、後加文の大切さに絞らせていただきました。

私の考えとてオリジナルの考えではありません。

日蓮正宗御宗門や御信徒様が、多くの破折文書をネットで公開してくださっており、それらを学び回答しているわけです。

相伝というのは、先輩から教えてもらうということであります。

御書のみを用いてという言い方が決め台詞みたいに思うのであれば、その御書がどういう経緯で書籍化されたのかということを知っておくべきなのです。

創価学会は、会を解散させることなく、日蓮正宗から完全に独立することなど不可能であることを、暗に示したつもりですが。

創価学会の邪義など、邪義ですらオリジナルではないことを示しておこう。

法華講員さんがネットで顕本法華宗の破折をされていますが、これを読んでいただければ、まんま今の創価が主張していることと同じであることが分かります。 

www.correct-religion.com

ameblo.jp

身延根性(御書の恣意的選択)と顕本法華宗の屁理屈(「直授日蓮(じきじゅにちれん)」「経巻相承(きょうがんそうじょう)」)のミックスが、創価教学なる新興宗教の教えなのです。

論証は創価ダメ出しさんが別なテイストで、軽妙に語ってくれています。

sokadamedasi.blog27.fc2.com

ま、しかし、邪義というのは議論百出したところで、早くその迷妄に気付くのは自分しかいません。

創価三世の真摯さんが、日蓮正宗の信仰に帰依し、本物の大御本尊様に参詣する日が一日も早く訪れることを、お祈り申し上げております。

 

日寛上人御書文段

日寛上人御書文段

 
百六箇種脱對見拜述記

百六箇種脱對見拜述記

 
六巻抄

六巻抄

 
三大秘法義

三大秘法義