創価学会員さんとの対話:創価学会員さんからの質問を分析する 3

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創価学会の信者なんかあるか!我々は日蓮正宗の信徒である。by戸田城聖

対話の続き。相手は音信不通ですが。

今日は、③「弘安2年10月12日の御本尊を日蓮大聖人の出世の本懐・一大秘法と定める」について、日蓮正宗相伝も含めて回答したいと思います。

7項目全質問は以下の通り。

宗門はこのように主張しています。
①「必ず戒壇の大御本尊と唯授一人の血脈相承を信仰の根本としなければならない」
②「代々の法主を尊信の対象としての(我々が南無し奉る日蓮大聖人・日興上人と同等の)僧宝として定める」
③「弘安2年10月12日の御本尊を日蓮大聖人の出世の本懐・一大秘法と定める」
④「僧と俗の間には本来的な差別が存在する」
⑤「御本尊には法主の許可、開眼が必要、大石寺から下付したものでなければならない」
⑥「大石寺に登山しないと罪障消滅できない、成仏できない」
⑦「宗門の僧による葬儀を行い、戒名を与えないと故人は地獄に堕ちる」
日蓮大聖人はこのようなことをただの一つも仰せになっていません。日蓮大聖人は「謗法とは法に背くという事なり」顕謗法抄455 と仰せです。したがって、上に挙げた宗門の主張はことごとく謗法であると思います。
上に挙げた宗門の主張のどれか一つでも日蓮大聖人の御書のみを用いて正当性を証明できますか。
ご返信をお待ちしております。時間がかかっても構いません。

 

創価学会も堕ちたもんだね。

身延と対話しているようだ。今日は、大御本尊への信仰を捨てた創価学会をただす―矛盾のスパイラルにおちいった創価学会から引用してみようかな。 

 

Q11.「御書には、大御本尊について何も書かれていないではないか」

A.あなたは「日蓮大聖人の御書に記述されていないことは、大聖人の教義ではない」 と言いたいのでしょうが、それは幼稚で短絡的な発想です。これについて、次の四点からお答えします。

①極理(ごくり)の師伝
日蓮大聖人の御書を正しく理解するには、 「極理の師伝」たる血脈相伝の御指南がなければなりません。
第二祖日興上人は『遺戒置文』(ゆいかいおきもん)に、

「当門流に於(おい)ては御抄(ごしょう)を心肝に染め極理を師伝して」(御書一八八四ページ)

と仰せられ、日蓮大聖人の仏法の信仰においては、大聖人の御書を心肝に染め、極理を師伝しなければならないと指南されています。
「極理の師伝」とは、仏法の究極を師匠から弟子に伝えることで、宗祖大聖人から第二祖日興上人へ伝えられた唯授一人の血脈相承を言います。
これについて、 『百六箇抄』(ひゃくろっかしょう)には、
「直授結要付嘱(じきじゅけっちょうふぞく)は唯一人(ただいちにん)なり。白蓮阿闇梨(びゃくれんあじゃり)日興を以て総貫首(そうかんず)と為(な)し、日蓮が正義悉(しょうぎことごと)く以て毛頭(むうとう)程も之を残さず悉(ことごと)く付嘱せしめ畢(おわん)ぬ」(御書一七〇二㌻)
とあります。
この唯授一人の血脈相承は、第二祖日興上人から第三祖日目上人へ、第三祖日目上人から第四世日道上人へと次第し、第六十八世日如上人まで、法灯連綿(ほうとうれんめん)として伝えられています。

釈尊像を本尊とする不相伝家(ふそうでんけ)
一例を挙げますと、御書のどこを探しても「日蓮は本仏なり」とか「日蓮を本尊とせよ」とのお言葉はありません。
むしろ、『御講聞書』(おんこうききがき)には、
教主釈尊こそ世尊の本にては御坐(おわしま)し候へ」 (御書一八二五㌻・傍線筆者)とあり、『報恩抄』には、
「日本乃至一閻浮提(ないしいちえんぶだい)一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし」(同一〇三六㌻・傍線筆者)とあって、教主釈尊を仏とし、本尊とせよと明示されています。
身延日蓮宗などの不相伝家は、このような文言(もんごん)の表面にのみ執われて、釈尊を本仏と仰ぎ、釈尊像を本尊としているのですが、これはまさしく、相伝(極理)を知らないことによる誤りなのです。

③「日興が身に宛(あ)て給(たま)はる所の大御本尊」とは本門戒壇の大御本尊
御書に「大御本尊」の記述がないということについて言えば、大聖人の御内証(ごないしょう)の一切は日興上人に伝えられているのですから、日興上人の御指南が日蓮大聖人の御正意(ごしょうい)なのです。
日興上人は日目上人への譲(ゆず)り状に、

「日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊」(日興跡条々事・御書一八八三頁)

と書き残されましたが、『百六箇抄』には、
「日興が嫡々相承(ちゃくちゃくそうじょう)の曼荼羅(まんだら)を以て本堂の正本尊(しょうほんぞん)と為(な)すべきなり」(御書一七〇二㌻)
とあり、「日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊」とは、「嫡々相承の曼荼羅」であることは明らかです。
日寛上人は、この『百六箇抄』の御文について、
「嫡々相承の曼荼羅とは本門戒壇の本尊の御事(おんこと)なり」(文底秘沈抄・六巻抄六八㌻)
と明確に指南されています。
このように「日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊」とは、三大秘法総在(そうざい)の本門戒壇の大御本尊であることは明白です。

④「余(よ)は二十七年なり」とは大御本尊の予証
『聖人御難事』には、
「仏は四十余年、天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年に、出世の本懐を遂(と)げ給ふ。其(そ)の中の大難申す計りなし。先々(さきざき)に申すがごとし。余は二十七年なり」(御書一三九六頁)
とあり、大聖人が弘安二年十月に出世の本懐を遂げられた旨(むね)が明かされています。
日寛上人は、宗祖の出世の本懐について、
弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟の中の究竟、本懐の中の本懐なり」(観心本尊抄文段・文段一九七㌻・傍線筆者)


と仰せられ、本門戒壇の大御本尊が宗祖の本懐であることを指南されています。
また日寛上人は同文段に、
弘安二年、御年五十八歳の十月十二日戒壇の本尊を顕わして」(同一九六㌻・傍線筆者)
と、宗祖大聖人が御年五十八歳の弘安二年十月十二日に出世の本懐である大御本尊を図顕されたことを明かされています。
したがって、弘安二年十月十二日から立ち返って見れば、同年十月一日に著(あらわ)された『聖人御難事』に「余は二十七年なり」と仰せられた御文は、本門戒壇の大御本尊を御図顕する予証であったことがわかるのです。
このように、血脈相伝にもとづいて拝すれば御書に明白である御教示も、相伝のない者から見れば「御書のどこにもない」ということになるのでしょう。

「真摯」さんも宗門の書籍を購入して、本物の教学を研鑽してね。

日興上人様を僧宝としながら、日寛上人様の御本尊様を勝手にコピーして拝みながら、お二人の御指南は信じられませんとか、御書にないとか言うのなら、幹部に教学体系の見直しを督促した方がいいかも。

再度、御書だけで教学を勉強したいという前提が、日蓮正宗の教学と乖離しているかについて、同書から転載してみよう。

Q13.「御書だけで議論しようではないか」

A.あなたは何のために議論したいのですか。法義を論ずるのは、日蓮大聖人の御真意を知り、正しい信仰をするためでなければなりません。

日蓮正宗においては、教義に関する正否の裁定は、血脈付法の御法主上人の権能(けんのう)と定められています(宗規第七条)。それは、日興上人が、

「御抄を心肝に染め極理を師伝して云々」 (日興遺誠置文・御書一八八四頁)

と仰せられるように、日蓮大聖人の御書と、それを誤りなく解釈するための「極理の師伝」を根本とするからです。
ところで、「御書だけ」に限定して議論したいと言うところを見ると、創価学会にとっては、日興上人以来の相伝がよほど都合が悪いようですね。
日蓮正宗では、教義・信仰に関して、御書の文言(もんごん)として直接著(ららわ)されない事柄(ことがら)であっても、血脈相伝に基づく御指南であれば、それが宗祖大聖人の御真意であると拝しますから、御書にないからといって、信仰の上で、すこしも困ることはありません。
それに対して、「御書根本」と称して御書以外の御歴代上人や歴代会長の言葉を拒否しなければならない創価学会は、さぞかし説明に困ることが数多くあるのではないでしょうか。

あなたが、どうしても御書の文言(もんごん)にないものは信用しないと言うならば、まず次の問いに答えなさい。

(一)創価学会では日蓮大聖人を末法の御本仏と崇(あが)めていますが、「日蓮末法の本仏なり」とする直接的な御書の文証を挙げなさい。
(二)創価学会が言う「在家教団でも御本尊を認定できる」とする御書の文証を挙げなさい。
(三)在家の者が葬式の導師を勤めてもよい、という御書の文証を挙げなさい。
(四)御本仏日蓮大聖人のほかに仏法上の「永遠の師」を立ててもよい、という御書の文証を挙げなさい。

また、あなたが御書の文言を忠実に実行する「御書根本」の人ならば、まず手始めに『報恩抄』の、

「本門の教主釈尊を本尊とすべし」(御書一〇三六頁)

の御文のとおり、釈尊の仏像を拝むべきです。
この一事をもってしても、創価学会がはてしない矛盾のスパイラルにおちいっていることは明らかです。
しかも、御本仏日蓮大聖人の出世の本懐たる人法一箇の大御本尊を放棄した創価学会が、いずれは日蓮大聖人をも放棄することは誰の目にも明らかです。
そうなれば、創価学会の言う「御書根本」も死語になってしまうのです。

ま、私見を述べれば、今みたいな議論の組み立てをしていこうとするなら、御書も本尊も日蓮正宗から離れて、オリジナルの御書と本尊を作成しなおすことをお勧めするよ。

戸田先生は「初めに言っている事と後から言う事が違うのは邪宗である」と、邪宗の本質を喝破されていたと思うけど、戸田城聖全集も池田大作全集も再版しないんだってね。

人間革命も昔のは内容が改竄されてると聞いたが。

その辺のところもお返事お待ちしております。

 

 

戸田城聖全集 (1965年)

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戸田城聖全集〈第4巻〉講演編 (1984年)

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戸田城聖全集〈第3巻〉論文・講演編 (1983年)

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