ダメおやじの相談室:勤行できていますか?

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常に三門に初めて立った感動を忘れずに

1 略式勤行などという形式は存在しない

創価学会顕正会が勤行の形式や御観念文を改変していることから、その破折のために法華講員は便宜的に彼らの勤行形式を略式と呼んでおりますが、私は法華講で略式勤行という言葉を聞いたことがありません。

日蓮正宗の勤行は、五座・三座の勤行です。

日蓮出版から新しく、

勤行―その仕方と観念文の意義 (信心修行の基本)

勤行―その仕方と観念文の意義 (信心修行の基本)

 

が出版されましたので、ぜひお読みになって今一度、勤行の意義を確認なさってください。

 

2 生活のスタイルが厳しい場合はどうすれば?

現代の日本は資本主義社会ですよね?

資本主義社会というのは私的に会通させていただくならば、餓鬼道経済だと思うんです。

常に経済成長していかなければ、国が豊かさを維持できないシステムなのかと。

円満な循環経済には程遠い現状ですね。

そして、資本主義経済を支える企業もまた、横ばいで安定などということはあり得ず、常に前年度比〇%の売上増を達成していかねば、利潤が出ません。

そんな社会ですから「ブラック企業」などという言葉も生まれています。

また、社会の基礎的な部分を支える仕事に従事されている方(警察官や自衛隊員、医師や看護師、コンビニ店員、介護従事者等々)は、交代制勤務などをされているかもしれません。

そういった生活環境の中では、なかなか、朝に五座、夕に三座という修行が厳しいと感じられる方もおいでになるでしょう。

お悩みの方は、ひとりで悶々とすることなく、所属寺院の御住職様にご相談なさってください。

第二祖日興上人は『佐渡国法華講衆御返事』に、

「この法門は師弟子を、たゞして、ほとけになる法門にて候なり(中略)なをなをこの法門は、師弟子をたゞしてほとけになり候。しでしだにもちがい候へば、おなじほくゑをたもちまいらせて候へども、無間地獄に堕ち候也。」(歴代法主全書1巻182)

と師弟相対しない信心は、無間地獄に堕ちると非常に厳しい御指南をされています。師匠を蔑ろにする自分勝手な信心は当然幸せになれず不幸になります。

 

3 あくまでも参考程度に。。。ですが。

そんなこと言われても?

いやぁ・・・聞きにくいッスよ?

そうですか。。。

それでは、あくまでもダメおやじが昔聞いたお話を。

初級:朝は題目三唱勘弁チンチン~。夜は疲れて御勘弁~。

中級:方便品・寿量品一座に唱題。

上級:五座三座

こんな風に書いてしまうと、じゃぁ私は。。。なんて決めてかかってしまう人がいるかもしれませんが、決めてかかってはだめだと思うんです。

例えば、朝五時から出勤なんて人が、なかなか五座の勤行をしてからの出勤が無理だと思うなら、方便品・自我偈に御題目で出勤して、帰宅したのちには本来なら夕の勤行ですが、五座の勤行をして懺悔と報恩感謝を御祈念するとか。。。

懈怠謗法は十四誹謗の一つですから、流されてしまうのはいけませんが、勤行をきちんとできるような境界になるよう、御祈念しながら頑張っていくしかないかと思うのです。

 

4 そもそも論を最後に

法華講の方は生真面目ですから、自分の修行が不十分ではないかとか、こんなことでは成仏できないんじゃないだろうか?とか、色々と悩む方も多いかと思います。

また、厳しい御住職様や信心をしているご家族から、絶対に怠けちゃダメとダメ出しをされてしまって悩んでいる方もおいででしょう。

一信徒の分際で私が申し上げられることは少ないのですが、この議論て元々は異流儀の人たちの勤行形式破折に釣られて出てくる話なんですよね。

でも、顕正会にしても創価学会にしても、問題なのは勤行の形式じゃないんですよ。

あの人たちは仮に五座三座で、歴代上人様の正統な御本尊様に向かって勤行しても、全く功徳がないどころか無間地獄の因を積んでいるんですよ。

同列ではないんです。 

信心の基本中の基本である勤行。

罪障消滅の唯一の道。

きちんとできた日の爽やかな心。

血脈の通った御本尊様に手を合わせることのできる幸福。

これらの福徳を思い出しながら、仏法の修行を一所に続けていきましょう。

そして、常に心の中でお題目を唱えながら、日々の困難に立ち向かっていきましょう。

第四与如来共宿の事

御義口伝に云く法華の行者は男女共に如来なり煩悩即菩提生死即涅槃なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は与如来共宿の者なり、傅大士の釈に云く「朝朝・仏と共に起き夕夕仏と共に臥し時時に成道し時時に顕本す」と云云。(御義口伝巻上)

 

 

勤行―その仕方と観念文の意義 (信心修行の基本)

勤行―その仕方と観念文の意義 (信心修行の基本)