御書の五大部・十大部、要文集で「学」を実践していこう。

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平成新編御書

当ブログでは、幾度か御書を学ぼうと呼びかけましたが、どの御書から読んでいけば良いのか分からない方もおいでになるかと思いまして、この記事を書こうと思いました。

読みやすいのは消息文(御信徒様への大聖人様からのお手紙)ですが、お相手の方の事情(生活背景・信心姿勢・大聖人様との御関係)が分からなくては、間違った受け止め方になるかもしれません。いわゆる身延読みってやつになる可能性が。

で、私が思うのに、やはり十大部が基本ではないかと思ったのです。

十大部については、宝相寺様のHPに分かりやすい解説がありましたので、引用させていただきます。

35十大部
教学ノート

大白法 平成29年8月16日付

十大部とは、日蓮大聖人様が御一期(御一生)を通して著わされた御書のうち、第二祖日興上人様が特に重要な御書として選ばれた十篇の御書のことです。この十大部は『富士一跡門徒存知事』(御書1870)に定められています。
次に、十大部の名称と、いつ、どこで書かれたかを記します。
・『唱法華題目抄』文応元(1260)年5月28日 鎌倉
・『立正安国論』文応元年7月16日 鎌倉
・『開目抄』文永9(1272)年2月 佐渡
・『如来滅後五五百歳始観心観心本尊抄』文永10年4月25日 佐渡
・『法華取要抄』文永11年5月24日 身延
・『撰時抄』建治元(1275)年6月10日 身延
・『報恩抄』建治2年7月21日 身延
・『四信五品抄』建治3年4月 身延
・『下山御消息』建治3年6月 身延
・『本尊問答抄』弘安元(1278)年9月 身延
また、このうちの『立正安国論』、『開目抄』、『如来滅後五五百歳始観心本尊抄』、『撰時抄』、『報恩抄』を指して五大部とも称します。
大聖人様の御入滅後、日興上人様の弟子以外の門流では、御書を軽視し、紙が貴重な時代でしたので御書を溶かしてもうー度新しい紙にしたりしてしまう者がいました。
日興上人様は、大聖人様が著わされた御書を仏様の御金言であると拝し、御書を破却し焼失する他門流の行為を批難し、嘆かれました。
そして、弟子・檀那に御書を講談されるなどして、十大部はもちろんのこと、いかなる御書も尊重するよう教示され、また御書を後代に伝えるために、門下を挙げて御書の筆写を行い、御書の護持と伝承に心を尽くされたのです。
第59世日亨上人は、
「祖書の御写本がもっとも多く現存するのは、日興上人が他を引き離して最大多数であり、また大聖の書抄をただちに御門下の僧分または信徒に読みきかせられたのも、興尊が特長であろう」(富士日興上人詳伝 395)
と仰せです。
現在、私たちが大聖人様の正しい教えを聞き、学ぶことができているのは、ひとえに、日興上人様の御書を大切になさる信心姿勢によるのです。
したがって私たちは、この日興上人様の御心をしっかりと体した上で御住職・御主管の御法話を拝聴し、また自らも御書を拝読することが大切です。

★拝してみよう
『平成新編御書』には、大聖人様が21歳の時から、御入滅あそばされる61歳の時までの御書が御認めになられた年代順ご収録されています。
その目次を見ると、十大部の御書の中で、五大部の御書には◎が、それ以外の五篇の御書には○の符号が御書名に付いています。
御書を開いて拝読してみましょう。

引用元:35十大部 – 日蓮正宗法華講宝相寺支部ページ

有名な御書ばかりですので、御書の名称を聞いたことがあるものも多いかもしれませんね。

まずは、五大部を『立正安国論』、『開目抄』、『如来滅後五五百歳始観心本尊抄』、『撰時抄』、『報恩抄』の順に読んでいくと良いかもしれません。

nichirengs.exblog.jp

日蓮大聖人『御書』解説 さんの五大部・十大部のページもご参考になさってみるといいかもしれません。

立正安国論(御書五大部)

開目抄(御書五大部)

観心本尊抄(御書五大部)

撰時抄(御書五大部)

報恩抄(御書五大部)

御書十大部(五大部除く)

私は実家に昔からある、日蓮大聖人御書―五大部―を持ち歩いて読んでいます。昭和五十年発行の創価学会教学部編のものです。文字も大きく、用語解説も付いていて重宝しております。 

日蓮大聖人御書―五大部―

日蓮大聖人御書―五大部―

 

要文集は、なんといっても日蓮大聖人御金言義類別入文集が、お勧めです。

要文は切り文読みになっては、我流読みとなりますので要注意なのですが、日顕上人様が八十八の項目に類別してくださっておりますので、安心して要文を拝読することができます。

しかも、御書名索引も付いていますので、引用元の御書を研鑽する際に、どのような意図で著された御書であるのかが理解できます。御書の科段構成と目的が、一目で分かるようになっています。お勧めの一冊です。 

日蓮大聖人御金言義類別入文集

日蓮大聖人御金言義類別入文集

 

日蓮正宗HPの日蓮正宗公式サイト 御書解説 平成新編 日蓮大聖人御書目次も参考にしてみてください。

大聖人様の仏法を知りたいと願う気持ちが一番大切だと思います。

信心は境智冥合が肝心です。

国語の古文を学習するように、単語を辞書で引きながら読んでも御書は理解できません。御本尊様に「学」の成就を御祈念しながら拝読しましょう。不思議なことにスゥーっと心に入ってくるようになります。

私の体験ですが。

境智冥合(きょうちみょうごう)
教学用語

境智冥合

境智冥合とは、境と智が融合(ゆうごう)した一体の境界(きょうがい)をいいます。境とは所観(しょかん)の対象(たいしょう)であり、主観(しゅかん)に対する客観(きゃくかん)世界をいい、智とは境を観察する能観(のうかん)の智慧、すなわち認識する心の作用(さよう)としての主観的世界をいいます。

法華経』の『方便品』に、

「諸仏の智慧は甚深(じんじん)無量なり。其(そ)の智慧の門は難解難入(なんげなんにゅう)なり。一切の声聞(しょうもん)、辟支仏(ひゃくしぶつ)の知ること能(あた)わざる所なり」(開結一五三頁)

とあるように、仏の智慧は宇宙法界(ほうかい)の一切の事物(じぶつ)現象の真理(境)を照らし、一切に通達(つうたつ)しているゆえに甚深無量であり、その教えは難解難入です。

その仏の深い境智を天台(てんだい)大師は、『法華(ほっけ)文句(もんぐ)』に、

「境と智と和合すれば、則(すなわ)ち因果有り、境を照らして未(いま)だ窮(きわま)らざるを因と名(なず)く、源(みなもと)を尽(つ)くすを果と為(な)す」

とあるように、境智冥合とは仏の境智の因果であり、この刹那(せつな)の因果に九界(くかい)即仏界・即身(そくしん)成仏の境界があることを説きました。

末法(まっぽう)御出現の日蓮大聖人は『曾谷(そや)殿御返事』に、

「法華以前(いぜん)の経は、境智各別(かくべつ)にして、而(しか)も権教(ごんきょう)方便なるが故に成仏せず。今(いま)法華経にして境智一如(いちにょ)なる間、開示悟入(かいじごにゅう)が四仏知見(しぶっちけん)をさとりて成仏するなり」(平成新編御書一〇三八頁)

と仰せのように、爾前(にぜん)諸経は能観の智である三観(さんがん)が円満に説かれず、また所観の境である三諦(さんたい)も融合していないために境智は各別であり、しかも仏の権智(ごんち)をもって説かれた方便の教えのゆえに成仏の教法とはなりません。これに対して『法華経』は三観三諦(さんがんさんたい)の境智がそれぞれ融合しているので境智一如であり、仏の真実の智慧をもって説かれた完全なる教えのゆえに成仏の教法となる、と御指南されています。

このように、大聖人は『法華経』こそ十界互具(じっかいごぐ)・境智冥合の教法であることを説かれましたが、それは未(いま)だ天台与同(よどう)の義であり、下種即身(そくしん)成仏の本義を顕わされてはいないのです。また先の天台の釈文(しゃくもん)も、境智和合の相(そう)を説いてはいますが、本門本地の実体を説き尽くしてはいないのです。

『総勘文抄(そうかんもんしょう)』に、

「釈迦如来(にょらい)五百塵点劫(じんでんごう)の当初(そのかみ)、凡夫(ぼんぶ)にて御坐(おわ)せし時、我が身(み)は地水火風空なりと知(しろ)しめして即座(そくざ)に悟(さと)りを開(ひら)きたまひき」(平成新編御書一四一九頁)

とあり、それを日寛上人が『観心(かんじんの)本尊抄文段(もんだん)』に、我が身地水火風空は境(きょう)であり、知(しろ)ろしめされた凡夫即極(そくごく)の本仏の悟りを智と御指南されているように、大聖人の寿量文底(もんてい)下種仏法において解明(かいめい)された本地難思(なんし)境地冥合の刹那(せつな)始終(しじゅう)の一念には、仏法の本源の当体(とうたい)・凡夫即極(そくごく)即身成仏の功徳が存するのです。その本地難思境地冥合の当体とは、末法御出現の久遠元初(がんじょ)の下種の御本仏(ごほんぶつ)日蓮大聖人に他(ほか)なりません。

大聖人は末法の一切衆生救済のために己心(こしん)に具(そな)えられた文底下種、事の一念三千を本門戒壇の大御本尊と御図顕(ごずけん)されました。

ゆえに私たちは、大御本尊を唯一(ゆいいつ)絶対の正境(しょうきょう)と確信して至信(ししん)に唱題に励むとき、大御本尊の境と自身の信ずる一念が智となって境智冥合し、そこに初めて即身成仏の大利益(だいりやく)を得(え)ることができるのです。引用元:境智冥合(きょうちみょうごう) – 日蓮正宗法華講宝相寺支部ページ