他宗の社寺に詣でぬ理由

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『日曜講話』第八号(平成元年5月1日発行)
他宗の社寺に詣でぬ理由

 皆さん、お早うございます。秋が近づいてまいりまして、皆様方の御近所でも、謗法の社寺による秋の祭りが行われる地域がございます。先般、ある御信徒から、諸天善神の守護ということはわかりますが、なぜ諸天善神を祭ってあるところの神社に、お参りしてはいけないのか、参詣してはいけないのか。祭りに参加してはいけないのかということに対する質問を受けましたので、本日はそれに対する解答の意味も含めまして、なぜ謗法の神社・仏閣に参詣してはいけないかということを、大聖人様の御指南を通して考えてみたいと思うのであります。

 一つには、もちろん、そうした謗法の神社には、諸天善神の働きとしての守護の効能は一切ないということを、心に、きちっと定めていただきたいと思うのであります。それは、大聖人様の『立正安国論』という御書の中に、金光明経・大集経・仁王経・薬師経という、四つの経文の裏付けをきちっと上げられまして、

 「盲瞽(もうこ)の輩(やから)迷惑の人妄(みだり)に邪説を信じて正教を弁(わきま)えず、故に天下世上、諸仏・衆経に於て捨離の心を生じて擁護(おうご)の志無し、仍(よっ)て善神・聖人(しょうにん)国を捨て所を去る、是を以て悪鬼外道災を成し難を致す」(全二〇)

ということを御指南遊ばされておられます。これはどういうことかと申しますと、諸天善神は、そうした謗法の社(やしろ)の中に住んでいるのではなくて、ことごとく、この謗法の国土に愛想をつかされまして、それぞれの本土へ帰っているのである。つまり、「神天上法門」(かみてんじょうほうもん)と申しまして、そうした謗法の社には絶対に諸天善神の働きはない、守護の力は、そこにないということをお示しになっておられるのであります。

 また同様に『報恩抄』の中に、

 「かかる謗法の国なれば天もすてぬ。天すつれば、ふるき守護の善神も、ほこらをや(焼)ひて寂光(じゃっこう)の都へかへり給いぬ」(全三一二)

ということをお示しであります。寂光の都とは、どこかと申しますと、それは諸天善神の本土ということであり、諸天善神の本土はどこかと申しますと、それは取りもなおさず、久遠元初の仏様の、その自受用報身の体内、その内証のところに帰っているのでございます。ですから皆様方は、決して今日の謗法の社寺に諸天善神の力はないということを、きちっと心に銘記していただきたいと思います。

 そして、実際に諸天善神が大聖人様の御内証のところに帰っておられるからこそ、大聖人様は、末法の今日私共に対して、この南無妙法蓮華経の御本尊様を、一閻浮提第一の御本尊として建立して下さいまして、その御本尊様の御内証の中に、大日天王・大月天王・大明星天王、あるいは梵天・帝釈として、そしてまた天照太神(てんしょうだいじん)・八幡として、諸天善神を代表する一切の功能というものは、この御本尊の体内にましますということを、事実の上に、御本尊様として、お顕しになっていらっしゃるわけであります。

 そのことを、大聖人様は『日女御前御返事』という御書の中で、

 「日本国の守護神たる天照太神八幡大菩薩・天神七代地神五代の神神・総じて大小の神祇等・体(たい)の神つらなる・其の余の用(ゆう)の神、豈(あに)もるべきや。(中略)此等の仏菩薩・大聖等・総じて序品列坐の二界八番の雑衆等一人ももれず、此の御本尊の中に住し給い、妙法五字の光明にてらされて、本有(ほんぬ)の尊形(そんぎょう)となる是を本尊とは申すなり」(全一二四三)

ということを言われておられます。したがって、今、現在、諸天善神の自行の姿、自行の働きとして、諸天は天界にあって、自らの使命を果たしておられます。しかし、その諸天の善神としての、正法の行者を守るという働きは、全部、この御本尊様の体内に備わっておる。連なっているということを知らなければならないのであります。

 したがって、『法門申さるべき様の事』という御書の中にも、

 「もししからば八幡大菩薩日蓮が頂を、はなれさせ給いては、いづれの人の頂にか、すみ給はん」(全一二七三)

ということをおっしゃっておられます。諸天善神の一切の働きは、大聖人様の御内証のところに、その御本尊の体内に備わっているのだということであります。したがって、諸天善神は、そのような謗法の社に参詣する人を守るのではなくて、どこまでも、皆様方が、この御本尊様を持(たも)ち、御本尊様を信じて唱えるところの南無妙法蓮華経の法味に対して答えるのである。その信心に対して、諸天人様の御本尊を通して守るのです。御本尊様を離れては、諸天には自行の働きしかありません。それが、法華守護の善神としての働きをする時は、御本尊様に連なって南無妙法蓮華経と自らも唱え、自らも行じる、その上において、妙法を守護する行者を守るという働きをするのでありますから、御本尊様を離れては、絶対に、諸天のその功能はないということを知っていただきたいと思うのであります。

 その諸天善神が法華経の行者を守る。決して謗法の寺社に詣でる人を守るのではない。皆様方を守るということを、『諌暁八幡抄』の中に、

 「法華経の行者・日本国に有るならば其の所に栖み給うべし。法華経の第五に云く、諸天昼夜に常に法の為の故に而も之を衛護す。経文の如くんば南無妙法蓮華経と申す人をば大梵天・帝釈・日月・四天等・昼夜に守護すべしと見えたり」(全五八八)

ということを言われておられます。朝の勤行におきましても、東天に向かい南無妙法蓮華経の法味を供えますが、その皆様方の信心に答えて、諸天善神は、御本尊様を通して、皆様方を守護する働きをするのだということなのであります。

 ですから謗法の寺社に詣でるということは、それは魔の栖(すみか)に詣でるのであって、けっして諸天善神に対する真実の供養にはならないのだということを知っていただきたいと思います。そのことを、つまり、謗法の神社はもはや魔の栖となり下がっているということを、大聖人様は、『新池御書』という御書の中に、

 「此の国は謗法の土なれば守護の善神は法味にう(飢)へて社をすて天に上り給へば、社には悪鬼入りかはりて多くの人を導く。仏陀化をやめて寂光土へ帰り給へば、堂塔・寺社は徒(いたずら)に魔縁の栖(すみか)と成りぬ」(全一四四〇)

ということをおっしゃっておられます。そのような魔の栖となってしまった謗法の社に、笛や太鼓の音につられて、そして、そんな所に参詣しても、妙法の行者を守るという諸天善神の働きは絶対にありえない。むしろ謗法の罪障を積み重ねる以外の何ものでもないということを深く心に置いて、そうした諸宗の人びとの迷妄を打ち破っていっていただきたいと思います。また本宗の、大聖人様の弟子としてその信心を全うするものが、そういう笛や太鼓の音につられて、心浮かれて、たとえ見るだけとか、あるいは夜店にだけ行くとかというような、姑息(こそく)な考えを起こして、そういう所に近づくこともいけない。むしろ子供さん達にも、信心のけじめというものを、親の信心において、きちっと指導していっていただきたいということを申し上げまして、本日の御挨拶とさせていただく次第でございます。

大変、御苦労様でございました。                  

(昭和六十三年九月十八日)