折伏の実践と功徳
『日曜講話』第七号(平成元年3月1日発行)
折伏の実践と功徳
皆さん、お早うございます。本日は、皆様方の日常貫いておられる折伏の実践ということについて、二、三お話を申し上げたいと思うのであります。本来考えてみますと、この折伏ということに対して、人は何か特別な策があったり、あるいは何か特別なうまい手があるのではないかというようなことを考えがちでございますけれども、実際はそういうものではないのであります。
例えば人を教える時に、教育し、育てる時に、特別な方策とか何とかということはないのであります。実際に我が子を育てるという時には、親自身がやはり成長し、親自身が勉強し、親子一体となって共にこの人生を生きていく。その姿の中において、日常の暮らの中に、右往左往しながら、共に苦しい時は苦しみ、泣く時は泣く、喜ぶ時は喜ぶ。そうした中で、お互に、親子であっても、兄弟であっても、常に向上の一念で前向きに立ち上がって精進していくという、その生き方の上において、育っていくわけであります。その根本は、やはり信頼と愛情と、慈悲というものがあって、そこに一体の言うに言われぬ情愛、心と心の感応、感応同交(かんのうどうこう)というものがあって、親子は親子として、その麗しい関係が成立するわけでございます。
折伏ということも、その根本は、その人を思う一念というものがあって、慈悲というものがあって、そしてまた、毎日の努力ということがあって、それが一つ一つ実ってくるものだと思うのであります。従って一番大切なことは、根本において、その出発点において、一人一人が、大聖人様の弟子としての「折伏の誓願を立てる」ということがなければいけないと思うのであります。一人一人の、自らの御本尊様に対する、大聖人様に対する、広宣流布に対する誓願を持つということが、まず出発点であります。それはまた、個人の、自分自身の誓願だけではなくて、一家の皆さんが、お父さんはお父さんとして、お母さんはお母さんとして、青年の方は青年として、全員が一つの誓願を立てるということが大切だと思います。そして立てた以上は、立てただけではそれはいけません。やはり一人一人がそれを貫くという、実践というものがそこに培われていかなければいけないと思います。もっと大きく言うならば、地区は地区としての、支部は支部としての、本部は本部としての大きな誓願を立てて、そして一個人から大きな組織に至るまで、あるいは家庭の中にあっても、全体がその誓願にのっとって、常に口に唱え、心に念じ、そしてまた身に行ずるという、身口意三業の尊い実践が積み重ねられていくということが大切だと思うのであります。
またそこには、とにかく皆様方一人一人が、たくさんの下種をするということが大切でございます。種を蒔かずしては、何事も成就することはないのであります。先ほど申しましたように、誓願を立てるということは、発心することであり、「発心は万行の半ばなり」という言葉があります。その発心出来るということだけでも、物事は半ば、半分成就しておるんだと言われるほど、この誓願とか、発心ということは大切です。その次には、具体的な一つ一つの種を蒔く、下種をするということが大切になります。この下種も、皆が一人二人の下種ではなくて、常に十や十五の下種を持っておる、下種をしておくということが、これまた肝要と思うのであります。十・二十と下種をしても、それが本当に実るということになると、せいぜい一割か、一割五分程度だと思うのであります。ですから下種をいかにたくさんするかということによって、それが決まってくると言わなければなりません。
そしてまた、下種をしても、その下種のしっぱなしではいけないわけであります。自ら、だれに言われることなく、こちら側から、週に一度なら週に一度、あるいは月に二回なら月に二回、とにかく電話をし、足を運び、そしてまた消息を尋ね、色々な機関紙や新聞等を、様々な機会を通じてその人に見せてあげて、読んで聞かせて、解説をし、話を聞かせ、体験を通じて、その人を一歩一歩導いてあげる。要は、その人に対する愛情と慈悲と、こちらとの感応、つまり一念心というもので、一つ一つ実っていくわけでございます。一個の人間が、立派な一人前の大聖人様の弟子檀那として、その人の悔いの無い人生を生きていくための本当の筋道を教えてあげることですから、やはりそこには非常に大きな努力と精進と、勇気というものが必要であると思うのであります。
もし、せめてそのような実践が出来ないとするならば、特定な個人でなくても宜しい。友達であっても、お付き合いの人であっても、あるいは政界の人であろうと、経済界の人であろうと、趣味の世界の人であろうと、世間一般の人々に対して、大聖人様の仏法が何たるものであるか、あるいは総本山の荘厳な姿、登山の姿、そして皆様方が日常の信心の上で感動したこと、いろんなことを、世間の人びとに、一つ一つ伝えていく。なにも特定な下種が出来なくても、そのように具体的に、色々な形で、色々な人に、日蓮正宗の話をし、日蓮正宗の信心が、世間の人が週刊誌で言っているような程度の低俗な世界ではなくて、どこまでも、世界の広宣流布と、一人一人の命に刻まれた過去世からの罪障の消滅と、現当二世にわたっての幸せを得るという、この三世の命の改革を果たしていくことなのだという、この信心の持つ尊い意義を、より多くの人に流布していくということも、折伏につながっていくことなのでございます。ですから、せめて具体的な実践の出来ない人は、抽象的であっても宜しい。見ず知らずの人であっても宜しい。色々な方を通じて、この日蓮正宗と大聖人様の仏法を、世間の人々の耳に伝えて、啓蒙していくことも、これまた折伏でございます。
また、自分の日常の生活といわず、信心の姿を通して、御近所の人々に、日蓮正宗ここにあり、日蓮正宗の信心をすれば、このような境涯に立つということを、自分自身の生活をもって示していく。あるいは、仕事なら仕事に対するその取り組み方の姿において見せていくということも、これまた、みんな折伏につながっていくことと思うのであります。いずれにいたしましても大聖人様は、
「行学の二道をはげみ候べし、行学た(絶)へなば仏法はあるべからず」(全一三六一)
等々と、『諸法実相抄』に、尊い御指南を示していらっしゃいます。この大聖人様の行学の二道と仰せになったこの御文を、毎日、自ら心に念じ、また口に唱え、そして身に行じていく。その姿が、それが全部、皆様方の具体的な折伏の実践の上につながっていくということを深く心に置いて、そしてまず誓願を立てることから、具体的に実践していって頂きたいと思うのであります。
そのようにして折伏を貫く人達には、どのような功徳があるかということを、次に申し上げたいと思うのであります。折伏を行ずる人の功徳ということでありますが、まず何と申しましても、過去世のその人の一切の罪障を消滅するその根源の道が、やはり折伏ということであります。仏法における懺悔滅罪ということは、流通の精進の上に真実の懺悔滅罪があるということでございます。過去の罪障といえば、凡夫でありますから、一人ひとり、具体的にそれを把握することは出来ませんが、いずれにいたしましても、その折伏の精進のところに、最大の懺悔滅罪の功徳が具わっておるということを確信して頂きたいと思います。
二番目には、その人は、仕事の上にも、信心の上にも、組織の上にも、色々な意味において誠実な人、骨惜しみをしない人、努力の人、そうしたその人の人間性と言いますか、そういうものが、いつとはなしにきちっと具わってくるということを確信して頂きたいと思います。そしてまた、生活力、あるいはバイタリティーの具わった、明るい性格の人となることが出来ますし、その人の指導力、人を教化し育成していく力、また実践の教学の力、そういうものが折伏を通して、その人の命に培われていくということであります。相手から色々な事を質問され、やはり自分も知らないことは、また自分も学ぶ。その上において、それが全部自分の血となり肉となって、自分の実践の教学として、指導力として、みんな自分自身に具わってくるということでございます。いずれにいたしましても、その折伏を通して、その人の福徳といわず、実力といわず、あるいは、その人の生活の信条といわず、品格といわず、みんなそれは、折伏の実践の上に、きちっと具わってくるものだということを心に置いて頂きたいと思うのであります。
しかもそれが、現当二世に亘っての幸せな家庭の建設と、悔いのない人生を生きることと、そしてまた、未来の一族一門の人達の幸せの道につながっているということを、ここに集っていらっしゃる人達みんなが、一人残らず心に置いて、大聖人様の御義に叶う信心を全うして頂きたいということを申し上げまして、本日の御挨拶とさせて頂く次第でございます。御苦労様でございました。
(昭和六十三年七月十七日)