正法正師の正義につけ

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『日曜講話』第七号(平成元年3月1日発行)
正法正師の正義につけ

 皆さん、お早うございます。よく、世間の心ない人の言葉の中に、「宗教というものは、あるいは、信仰というものは、どういう宗旨でも結局、同じなんだから、目的は、みんなの幸せということで一つなんだから、どんな宗旨を信仰しても、結局それは同じことなんだ」という風なことをおっしゃる人もありますし、そういう言葉を聞きますと、「なるほど、ああ、そういうものかな」と考えてしまう浅はかな人も多いのでございます。そこで、そういう人々に対しまして、又そういう言葉に紛動される人々に対しまして、どのように対処し、どのように考えていったらいいかということを、今日はお話し申し上げたいと思うのであります。

人はそう簡単におっしゃいますけれども、例えば同じお薬ならお薬という言葉が、薬という名が付けば、それが劇薬であろうと毒薬であろうと良薬であろうと、「皆それはお薬なんだから同じなんだ」というようなことを、もし言う人があったとするならば、全くその人は気違いと言わなければなりません。やはり、良医のもとに正しい処方箋にのっとって、そして正しく服用していってこそ良薬は良薬としての働きがあるのであって、「薬という名が付けば何でもいい」などと言うとするならば、全くその人はおかしいと言わなければなりません。

例えば、列車なら列車でも、「東へ向かう列車であろうと、西へ向かう列車であろうと、同じ列車だ、電車だ。だから何行きに乗ってもいいんだ」ということを、もし言う人がいるとするならば、それはとんでもない考え方でありまして、同じ宗教の中でも、遥か西方へ、西方極楽ということを目的にした宗旨もあります。天上へ天上へと説く宗旨もあります。又その宗旨を貫くことによって、三悪道、地獄に堕つる宗旨もあります。そして又、真実の仏界へと導く正法もあります。それをただ、十把一からげにして、「信心は同じなんだ」「電車は何行きの電車に乗ったっていいんだから、何番線に乗ろうと結構。好きなように乗りなさい」もしそんなことを教える人があるとするならば、それは全く人を惑わす基であって、人々を混乱させる以外の何物でもないと言わなければなりません。同じ薬という名であっても、中味は全然違う。同じ電車でも、その行き先が、みな違っておるということを知らなければならないと思うのであります。

光でも、太陽の光と月の光と、あるいは、いろんな星の光と蛍の光では、光の輝きが違います。その持っている働きが違います。その大きさが違います。エネルギーが違います。それを全く十把一からげにして、「光は光で同じなんだ」と言ってしまうということになると、これはとんでもないことであります。

どんな議論でも、その正しいものと間違ったもの、優れたものと劣ったもの、そういうものがあるとするならば、その立て分けを、きちっと教えて、やはりどこまでも正しいものを目指すということを教える。あるいは邪(よこしま)なものを捨てて正しいものを持つ、正しいものに従うということを、きちっとしつけ、そのことを教えるということが、その人に対する愛情であり、やはり厳しくも指摘しなければいけないのであります。

味噌も糞も何もかも一緒くたにして、「何でもいいからお気に召すままに好きなようにしなさい。何でも同じなんだ」ということになると、結局それは、決してその人に対するアドバイスとはなりません。

 「本当にその人を救いたい。本当にその人を思い、本当にその人のためになって、杖・柱となってその人を導こう」と思ったならば、やはりそうした正邪の立て分け、善悪の立て分け、方便と真実の立て分け、毒薬と良薬の立て分けをきちっとして、そして邪(よこしま)なもの、あるいは方便の教え、小乗を捨てて又大乗へ、そして真実の正法のもとに導いていくということを忘れてしまってはならないのであります。

世間には、仏教もキリスト教イスラム教も、仏教の中でも、たくさんの宗旨がある。その各宗派が皆お互いに手を取り合って、やれ「世界の平和だ、世界の平和だ」と言っていれば、「そんな素晴らしい考えはない」と思う。一見、そのように見えるわけですね。ところがそうじゃあない。先ほど申しましたように、例えば皆さん方が、本当に子供さんをしつける時に、子供さんに本当のことを教える時に、「何でもいい」と、正邪の弁別を一切抜きにして、「好きなように自分勝手に適当にやりなさい」ということを言い続けて、子供を立派に育てられるかというと、これは不可能であります。やはり、やっていいこと、やってはいけないこと、正しいこと、間違ったこととを、どこまでも厳しく弁別をして、そして正しくしつけて行くということを忘れては教育は成り立たない。子供を育てるということは、これは成立しないわけであります。

信心の世界も、仏の本当の指南は、そういういい加減なことを説いているのではないのであります。釈尊も『法華経』の中に「悪知識を捨てて善友に親近(しんごん)せよ」(開結三四七取意)ということをおっしゃっておられますし、『涅槃経』というお経の中にも「悪知識に於いては怖畏(ふい)のこころ、(つまり怖れのこころ)を生ぜよ」(大正蔵十二|四九七・C取意)なぜならば悪知識はその人の心も、その人の性格も、その人の考えも、その人の命の全体を蝕んでしまうが故にと、悪法を捨てて正しい正法につくことを教えています。

大聖人様は、邪法・邪師の邪義を捨てて、正法・正師の正義につくことの大切さということを、『当体義抄』という御書の中(全五一八)に、きちっとお示しでございます。そうした爾前迹門の方便や、邪悪な低劣な宗教を捨てて正しい正法につくということが、何時の時代でも本当の仏の指南なのでありまして、もし「信心は何でもいい。宗教は何でもいい」というような、そういうある特定な頭の狂った人の言葉に紛動されるということになると、それは仏の本意、仏の金言を失って、捨てて、そして、そういういい加減な人の言葉を信ずるということに結果的になってしまうのであります。

大聖人様は、「どこまでもその人師(にんし)の言葉に従ってはいけない。仏の金言にこそ従うべきだ」ということを『顕謗法抄』という御書の中(全四五一)にも教えておられるのであります。又、釈尊自身も『涅槃経』の中に、 「法に依って人に依らざれ、(中略)了義経に依って不 了義経に依らざれ」   (大正蔵十二|四〇一・B)つまり正しい仏の本懐の教えに従って、そして、それをよりどころにして、正しい信心を打ち立てていくということこそ、信心の根本、信心の肝要ということを、指南遊ばされておられるのであります。

 ですから信心は、どこまでも仏の金言に従う。それを尺度にして、それを物差しにして正邪の判断をして、そして本当の真実のもの、最勝、独一、唯一の正法を目指すという志を失ってはならない、その筋目を失ってはいけないということを申し上げまして、本日の御挨拶とさせて頂く次第でございます。大変、御苦労様でございました。

(昭和六十三年六月五日)